■所在地;東京市麹町区(現東京都千代田区)
■着工;昭和11(1936)年1月10日
■完成;昭和12(1937)年6月6日
■構造;RC6階地下1階
■面積;13,541m2
■製図;片山隆三、俣川成美、羽石渡、鹿田正男、守武充
■監督;山県章要、片山隆三、川守田清次郎、守武充、鹿田正男、小谷一男、俣川成美、藤川成一
■施工;大倉土木(大成建設)
■工費;847,500円
■賞;逓信協会賞
山田は生涯の作品数の中でも病院建築の占める割合が多く、別名「病院建築の大家」とされるわけであるが、この建築はその原点となるものである。その計画及びデザインは鶴見邸に引き続き欧米視察の影響を大きく受け、「経済的合理性」を強く意識したものとなっている。使われる材料の種類は可能な限り絞られ、階高や柱スパンなどは極力単一化、サッシは工場生産の合理化の為に規格化し、色までもが白一色に統一されている。計画面では南北軸の中央廊下により東西軸の各棟を直交連結しており、東側に並列する4病棟と西側に並列する診療棟は整然と日照通風に最適な方位と間隔で配列されている。また各病棟端部にあるスロープはストレッチャーの階間移動の為に必要なものであるが、このスロープは後年の山田建築の随所に見られる重要なモティーフとなる。当時の建築学生達はこれぞ「モダニズム」として皆熱中したそうであるが、若き丹下健三は「芸術を語る水準に無い衛生陶器」と酷評している。

ところでこの建築の建設当初は病棟が2列であり、後に2棟が同じ形で増築されている。このような建築の「増殖」を前もって想定する建築計画(メタボリズム)の一般化は1960年代まで待たなければならないが、30年代にこれをやっていることが山田の先進性を象徴していると言える。
昭和49年空中写真(写真中央すぐ西側、赤い屋根の北側隣接地)
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckt-74-15/c27b/ckt-74-15_c27b_10.jpg