前編では森の風景画を例にとりましたが、それと同じことが抽象画の場合でも言えるでしょう。但し、ここで両者の違いについて多少の補足を付け加えておきたいと思います。
抽象画というのは、より感情をダイレクトに表しているわけです。例えば有名な「泣く女」は、確かに「泣いている女」を媒体として使用してはいますが、写実的に描かれていません。写実的に描くということは絵に物語性を与え、その世界に奥行きを与えてしまいます。
このことにより鑑賞者に伝えられる情報は幅広くなる一方で、混ざり合って中和し合い、インパクトが抑えられる可能性があります。抽象画の目的はそうではなく、あくまで純粋に抽出されたエッセンス(この場合は「悲しみ」)のみを高濃度で鑑賞者に提供することなのです。
もし泣く女の姿が明らかに年配であり、そしてその女が死んだ幼子をその手に抱いていたらどうでしょうか。この場合、表現される「悲しみ」は確実に「死別の悲しみ」に限定されることになります。さらに女の年齢がおおよそ推測されることにより、幼子との関係について鑑賞者に推量の余地を与えることになります。これでは与える「悲しみ」に多分の添加物が含まれることになり、前述の目的を達成しないわけです。
以上の理屈は、異論はあるにせよ決して複雑なものではなく、理解しやすいものであると思われます。
では、これが絵以外の表現形態であった場合はどうでしょうか。
音楽の場合、絵画における「風景(静物)⇔抽象」のような対比はほぼ見られません。個人的にはラヴェルら印象派の方々は、かなり「抽象画」に近いものを創るように思いますが、それでも明確な区別は見当たらないでしょう。前編に書いた「表現された世界を全部知ることができない〜」という理屈をそのまま適用することが出来ると思います。
しかし文学になると話は少し違ってくるようです。
詩などは音楽と同じで、抽象化の程度の差はありますがそれでも問題になるほど大きなものではありません。
では小説はどうでしょうか。小説はまさに「物語」であるわけなので、その立ち位置は初めから「風景画」よりです。そしていわゆる純文学というものは、その中でも比較的「抽象画」に近付いている部類でしょう。
では純文学と対比的に存在する大衆小説はどうなのか、という話です。素直に考えれば、より物語性が強く「風景画」的なのだ、ということになります。
しかしそれは感覚的な面でやや疑問符が浮かんできます。そもそもこの議題の対象となっているのは「作者が創造した世界を伝えようとしている創作物」のはずです。
それならば、ミステリー小説はどんな世界を伝えようとしているのでしょうか。ミステリーとは、付属物として例えば怪奇的な雰囲気を添付したり(金田一京助など)、サスペンス要素を取り入れたり(アルセーヌルパンなど)することはあっても、基本的には大いなる謎とそれが解かれる過程を楽しむものです。このような分析を行うと、そこから「表現された世界」というのはなかなか見えづらいわけです。
ではこの問題をどう考えればいいのか……。そのことについてはまだ結論が出ていないのでそのうちにお話したいと思います。
本当は今回で本題の「欠けている物」について書く予定だったのに……。