昭和39(1963)年「川柳平安」7月号
挽歌 所ゆきら
子に肩をかるう叩いて貰っているやつれ
ほんまにしんどいという足さすっている
〇
よろいぬいで だまって行ってしもうた
〇
はきかえてはきかえた足袋が帰って来た
一鉢の菊も帰って来た
〇
今朝もパンと紅茶と花と灯をあげる
香は香花には花の菩薩かな
四十九日のそれを流すに夜の川
〇
如是我聞親子三人おひがんの雨が白い
墓をこしらえたホモ・サピエンスの挽歌
見えざる哄笑に自分を放してはならぬ 山本礫
古き層にあすを握られパン持つ手の
放心の真昼を鮮かに飼われ
人臭きスタイルや良し真向より眺め
叱咤の顔が起き上がる妻である
帽子店の鏡の顔は楽しきかな 堀豊次
定期券運ぶ電車よ疲れるな
落馬する一瞬に見た美の記憶
堀豊次は輜重兵として軍馬とともに中国大陸を歩かされた。「落馬」の句は後で話題になった時、戦地で誰かが落馬した一瞬に「美」を感じたと言っていた。いまの言葉で言えば、この句、作中主体の位相がはっきりしない。私は、豊次さん自身が落馬の瞬間に見た周囲とか空とか風景が美しかった、その「記憶」と読んでいた。「違う違う、他人や。他人が落ちたんや」とかなり性急に否定して、「自分が落ちるときに見えた景色と読んだかあ」「あんたの方が非情や」と笑っていた。軍馬は一兵卒より大切なものだったそうだ。
新撰苑上位
どこかの国の学生も石を投げ 定金冬二
催涙弾では死なぬと嗤う政治かな
傷だらけのプライドだが双手で庇う 鶴本むねお
ボーナスは依然喜劇の入場券
ガニ股へ陽が落ちても無策 服部たかほ
ある日の寓話をもらう列にいる
ポストはきょうも赤いカレーライスを食う 山本ひよこ
答えは期待しない剃刀の刃を研ぐ
媚態を遠隔操作して銭笑う 山本祥三
わめく凡人が札束に轢かれた
空想の涯にむくろのわれを見る 大久保安彦
罪を抱く鉛の足が地に触れず
憂鬱な会話が蛇の死をめぐり 中村土竜庵
蛇の馬鹿めがと確かに風の独りごと
走りはじめた四転の鈍い毛細管 徳永操
氷原をゆく本心が動かない
廃線の犬釘を抜く死者の顔 田中博造
移動する群れに首輪がついている
嘘を一つずつ積上げるとおとなの絵本 長町一吠
見えぬ鎖が重いと思う日もあろう
「石を投げ」は石投げ遊びではないと説明せねばならない時代になったかもしれない。
学生たち、思春期や青年期の彼等の一部に、日常的に社会や政治への不信があり、近代から現代へ移って来た世の中の様々な事象への反感があった。西欧の学生達の動きも刺激になって、学生のデモや投石があったのだ。60年安保の騒ぎが終わって、下火になったそれが今度は「石を投げ」るなどの激しさ加えて世の中に見える時代だったのである。60年代の後半にスチューデントパワーといわれる行動のはしりだった。
「ポストはきょうも赤い カレーライスを食う」と、空けて読むのだが「赤いカレー」と読まれて少し話題になった書き方。「四転」は不明。
一句組に
善人の限界へ貧しさが深い 坪井枯川
黄の河をおんな流れてゆく速度 細川静
父の日をだれも素知らぬ顔でいる 竹上芳月
事なかれ主義が寝るきょうのページを開けたまま 東おさむ
豊次と寛哉の対談が載っている。
豊次の発言(適宜抽出)
「僕は最近川柳の非情性について考えている。これは川柳界でもあまりとりあげられていないが、短詩型の短歌や俳句が持っていない川柳の特性の一つだと思う」
「特性と言ったのは、他の文芸よりも、川柳が多く持っているという意味で、もちろん要素の一つでよいと思う」
川柳という文芸について、豊次の興味と思考は実践的であった。典型的な実践派といっていいだろう。「非情」という質があると、勘が働いていた。
豊次は何を思っていたのだろう。当時の川柳界の傾向が豊次に「非情」の句があればと反射したらしい。引用の部分は、豊次の外側、川柳界の傾向とそれが本人に反射したという内側を言いながら、性急に「非情」と「救い」の関係を錯綜させている。
「非情」の句が書けるとして、それは句の裏に「救い」があるものでありたい、ヒューマンなものというのだ。
「戦前の川柳作品は、客観句がその大勢を占めていたし、主観句は革新系の人たちに多かった。主観句となると、非情の句も、その根底に救いの定着があることは事実だ。僕が言っているのは客観句の非情は、作者の位置がはっきりしないので、非情のまま一つの作品で終わってしまい、第三者もそれを受け取るだけになるのではないかということ。したがってこんなあいまいさを否定してゆきたい」
「泣く泣くもよいほうをとる形見わけ なんかが、わかりやすい。本当の非情の詩が生まれたら、あるいはすばらしいものができるかもしれない」
思考というより、勘で得たり、勘で閃くものを喋るのだから、本人は(喋るときにも、というべきだろうが)整合性を持とうとしていない。しかし、当時ではかなり前向きに止揚に向かっている。この意味で伝統川柳の人堀豊次は革新派の川柳人であり続けた人だった。
解説し難いが、客観句という言葉は、古川柳での作者と表現の関係を言い、それが戦前の川柳に「大勢を占めていた」というのである。近代化された川柳が古川柳とは違う書き方、個我の表現を実現した「主観句」は「革新系の人たちに多かった」と、二つの書き方の違いを戦前の川柳にあったと認識しておいて、「主観句」が「非情」の句を書くときには「根底に救い」が「定着」されると言う。戦後の川柳にそれが繋がっているという説明が省略されているが、二人の対談者はこれを自明のことと承知している。そして豊次の捉えている「非情」の句が「客観句」の方で書かれると「作者の位置がはっきりしない」と言うのである。
二人は〈川柳は思いを書くものだ〉という近代文学の位相に立っているので、作者と作品の直線的な関係は明確にあるべきだとの立場で喋っている。「第三者もそれを受け取るだけになるのではないか」「こんなあいまいさを否定してゆきたい」という言葉は寛哉に共感されただろう。
作品があり、後ろに作者の思いがあり、その後ろの作者の生き方や思想がある、という読み方が二人に定着しているのである。
しかし豊次の思っている「非情」の句の説明に古川柳の「なくなくもよいほうをとる形見わけ」「なんかが、わかりやすい」として、「本当の非情の詩が生まれたら、あるいはすばらしいものができるかもしれない」と言うのである。
豊次は古川柳、客観句を「非情」の例に出しているので、自己撞着を感じていたと思われる。思っている「非情」の句が書かれることがあればいいが、と思っているのであり、その示唆が「なくなくもーー」の句にあると感じているのである。勘の人であるのだ。近代文学の価値観からすれば作者と句の関係にあいまいさがある句は「否定してゆきたい」と言っているのだから、主旨を捉えて整合すれば対談相手にも読者にも矛盾とならないのだが、豊次は意識しはじめている。
対談のこのくだりは最も面白いシーンである。
「本当の非情の詩が生まれたら」と唐突に「詩」という言葉が出ている。
豊次には、川柳における現在的な「詩」は革新系の「主観句」で多く書かれるという意識があるのだ。「非情」の句の書き方に「形見わけ」という客観句が示唆になると提示して、それを踏まえて、革新系や豊次選の「新撰苑」に、現代的な「非情」の「詩」が書けるかも、という可能性を言っているのである。
だがスムーズに喋れたとは感じられないのだ。
喋り方の錯綜と、矛盾と感じられることの重なりに豊次は慌てている。勘で捉えたことを曲折ながら喋って、整合性のないことが感じられているのだ。
「本当の非情の詩が生まれたら、あるいはすばらしいものができるかもしれない」との言葉は、川柳の質にある「非情」が目前の川柳に無いことと古川柳の客観句の「非情」さで書かれればという可能性は、この言葉で結論なのだ。そこに「あるいは」という可能性を言いながらなんだか弱くはぐらかす感の接頭語が言われるところに、堀豊次という川柳人が前を向きつつ勘でものごとを捉える知見の人であることが現われている。
川柳における「非情」な視線について考えねばならない何かが当時の豊次にあったのだ。何かの多くは、勘の働きによる目前の川柳の実質にあった。
近辺で豊次の思いを正面から聞く人はなかったようだ。「非情」についての思いは概ね通じたとして、川柳の今を超える方途、川柳の止揚への思いとして理解する人は近くに見当たらなかった。あれば、勘は対象化され、思考に向かって弾みを得たかもしれない。堀豊次は古川柳に遡り、川柳性を思いながら「非情」に思い当たっていた。止揚の手掛かりを抱いて――感傷的に言えば孤独であった。