昭和39(1964)年「川柳平安」4月号
勲章を作り枯野にぶら下げる 堀 豊次
勲章のうしろから死が歩いてる
勲章をすかすと金が積んである
玩具の勲章には美しい影がある
金がほしい自分に空があいてくる
施設児のこの春の詩を讃えよう 山本祥三
ある文字を消しかねたまま妻と座す
口笛が男を辛うじて保つ
追求の過程で紙幣にふれてしまう
凡人の視線が塔を這い登る
春をつかまえた手に打つ春の脈 布部幸男
雑草のいのちめでたし瓦斯タンク
庭石を踏んで金持ちあくびする
人間の埃の中のお釈迦さま
咲くを待ち咲けば散る日を早数え
喜劇一幕いくばくの金に封
失神の海を欲せり勝利者ではないが 山本 礫
拗ねた記憶の尻尾はいつも他人の掌に
ある開放哀しき賭に立ちつくす
夕餉の妻に深海魚が棲めり
幻の方向へ摘み出されゆくは父
手にすくわれし空間の耐えがたき 溝口晏子
新しき涙ある夜のこころ足る
地の底のぬくみを信ず歩の奢り
天井を見つめて罪を罪とせず
あすに敵あり陰のいろどりとなる
おろかにも自我を育てるバスに揺れ 坂根寛哉
いつの日かの勝利へいまは本を買う
平凡の詩をまん中に夫婦の血
水道のあるしあわせと税金と
大股で歩き信義を厚うもつ
灯をきそう屋根いくばくの幸住める 北川絢一朗
ひと迎えつつ歳月の悔いとなる
ささえあう底辺がまだ固をもたず
いたわりの眉にあずけたとげの指
こころの垢衣脱げず春いっぱいのなか
(「固をもたず」は意味不明。誤植だと思われる)
「雑草のいのちめでたし」と「瓦斯タンク」の附け合わせは景の写生だと思われるが、「めでたし」の一語でふわっと飛躍、老練?のここちよい句だ。
この年、子供達にワッペンをつけるブームがあった。豊次の「勲章」の句は社会性川柳の感があり、ワッペンブームが何月に始まったかによって、句への影響を云々するべきだろう、思い出せない。
「勲章をすかすと」は、透かして見ると、の意。「枯野にぶら下げる」の句語にそれなりのリアリティーがあって豊次らしい一句だが、一時期、「ぶら下げ」たり「吊」ったりの表現が革新派とその周辺に流行った。そのなかでかなり早かったと思うが、先鞭と言えるかとなれば、不明。私が革新派といわれる川柳誌をまとめて読みはじめたのは少し後のこと。初心者の位置からはごく単純に、吊るすイメージが幾つかの句に書かれているとの感があった。
吊るの代表といえば亡き作者に叱られそうだが
おとこの一物だけは枯木に吊る 草刈蒼之助
がある。後年の句だと思われるが初出不明。
上記、平安誌の創作欄、「讃えよう」「妻と座す」「ゆくは父」「積んである」「影がある」「こころ足る」「歩の奢り」「バスに揺れ」「悔いとなる」「もたず」などの措辞は、後年にいわゆる平安調≠ニいわれることとなる要素を含んだ句語。日常の生活感を引き出す作句過程で働いた句語であり、川柳に書かれる表出レベルに漠然とではあるが同一感があって、平安を毎号読む眼に平安らしさを感じる表現だった。川柳に現われた当時の心性の一端、そのリアリティーの深浅を示す好例といえよう。実際、定着感の強い句語であり叙法と感じていた。
一方に「ぶら下げ」たり「吊っ」たりと書く表現レベルがあり、いま一方に「影がある」「バスに揺れ」「こころ足る」「悔いとなる」「もたず」などの調子と表現が広まりはじめていたのである。(この表現レベルの件は俳句の先例などを見て今一度取り上げたい)
後者は、以後、平安川柳社の解散までのおよそ十年間、ほぼ同じ位相で書かれる表現法としてつづいたが、「吊」ったり「ぶら下げ」たりの流行は短期間だった。
誰も表だって言わなかったのでしかたがないが、これら二つの表現レベルの違いはいまから言えば、なかなか川柳らしい当時の二つの様相を現わしていた。
一つは、革新派とその周辺で句語が流行るという珍しい現象は、まず誰かが心性の表出でこの位相に至り、周辺がその表現レベルに追随したということだ。大雑把に言えば、不安定な心的状況の客体化とその孤愁や自嘲の「吊る」と言えるだろう。
個人と世界の関係性がこのように捉えられたのである。流行が追随現象であれ、他の何人かも同じ表現となる位相に達したということである。
つまり、革新派とその周辺には、追い着け追い越せという素朴な自己革新の意識があって、叙法、句語の流行はそれら先鋭を追随するところへ反映したのだ。
いうまでもないが、追い着け追い越せの姿勢が厳しければ、作者は同じ位相に至っても先行する叙法や句語を避ける。事実、そのような先鋭が何人も居た。
だから周辺が流行らせたのだが、先鋭の句と追随者の句を川柳界の視線は一線に並べていた。
庶民の文芸、川柳とは、厳しさで自身を律する何人かの革新派を認めつつ敬して近寄らずに、同様の発想と表現を展開する文芸であったのだ。そして革新派の先鋭の句がさらに追随者を増やしていったのである。
もちろん、「吊る」の句語はその一端だが、史的視線から見れば、オリジナリティーや革新の意志を問わずに先端の動きへの追随者が増えていったことが、この時代の川柳の最大の特徴であったのだ。この時期に日常生活の質が急速にモダン化していったのであり、その渦中の庶民の文芸、川柳であったからである。
当時の様相のいま一つを豊次を中心に見ると、平安調≠ニ言われる句語や叙法(実際は句語と叙法だけではない幾つかの要素があっての平安調≠ナあったのだが)を誰かが書きはじめて、追い着けの意識も追い越せの意識も気にせずに互に肩を並べる雰囲気が結社に醸成されて、およそ十年間、書きつづけられる雰囲気がはじまっていたのだ。そこには、川柳での自己表現はこの程度のことを書きつづければよいという態度があった。私性、《思いを書く》という書き方の連鎖状態への居すわりが結社に胚胎したのだ。言いかえると日頃の心性の表現は誰もが同じ位相からなされて当然だとの気持ちがほとんど無意識的に行き渡ったのだ。そこになんとなく、虚構を下位に見る雰囲気のあったことを忘れない。
だが、皮肉なことに、川柳という文芸はこのようなものであるとの姿勢は平安川柳社の安定につながり、川柳界から少し離れた先鋭達は、終始、平安川柳社傍観しつづけたのである。この象徴を京都在住で豊次の実弟宮田あきらが、河野春三の活動と行をともにして、平安川柳社の外側に居続けたことに見てもよい。皮肉にもというのは、川柳とはという問題は、革新派で若干思考されたが、それを実際の活動に活かすことなく、平安の方に、いまの川柳はこのようなものと感じさせるおぼろげな概念があったということである。一般社会から見れば、平安のさまざまな川柳の方が、川柳だと感じられたはずなのだ。
やがて新撰苑は、川柳の世界で革新派の周辺の作品レベルと平安調≠ネらざる作品レベルとの混在と刺激の場となるのである。
はたして堀豊次がこれを予見していたかは判らない。
服部たかほの川柳のように、実際にプロレタリア文学調の残影が日々の現実にあることを豊次は身をもって知っていた。そこへ「吊っ」てなどの、社会的な意識より日常的な心性の深みに向かう句が増え始めると、豊次はそこに現代社会の庶民の精神性の深化を感じて抱えこんだのだと思われる。定金冬二と、後に新撰苑の熱心な投句者になる寺尾俊平はじめ名の知れ渡った数人の好作家は新撰苑に抱えこまれて佳作を連発する時節に入ってゆくのである。
すでに川上三太郎の「川柳研究」では、女性の情念の表出が目立ち始めていた。革新派の河野春三や山村祐や松本芳味らは、これを歓迎する姿勢を見せた。上に引用した溝口晏子の句も、当時は、女性ならではとの趣きがあった。
豊次は表面的にこれらの動きを前向きに捉える姿勢を見せていたが、女性の情念の表出を積極的に評価する様子は示さなかった。
女性の精神のリアリティーを認めつつ、社会的立場の悲嘆に含まれるエゴイズムを見ていたのだ。それらの句に、男たちが書いている社会性との乖離があった。
しかし、川上三太郎という、川柳界での大きな存在、マスコミにも名を響かせている人が、結社誌の選で女性の情念の表出を次々と押し出したことは、強力な刺激をもっていた。川柳界に女性と新人の進出の勢いをもたらせたのである。
いま思えば、私はその恩恵によって拾われた箸にも捧にもかからぬチンピラであった。
川柳界は実に賑やかになって行った。あちこちに戦中時代に生まれた新人が出た。
この賑わいは川柳界に時代の潮流に合わせ多方向と、日常茶飯事をうがつ程度の本格派とそのシンパを明かに見せ始めることとなった。自ら世代交代に乗り遅れる方向の本格派は、以後、多数原理を標榜するかの動きを展開するに至って員数を増し、川柳の質については水府の路線を教条的に囲いこむ感に向かった。
これらの動きを豊次がどのように見ていたかも判らないが、平安川柳社の周辺でもっとも若い私などへは、折々、民主主義下での川柳の動きとして話題にするにとどまっていた。どう、豊次の時代感覚と女性観は、革新派の春三や祐や芳味、あるいは伝統川柳人として豊次と名を並べられていた冨二らより、醒めていたと感じられる。
社会性川柳に書かれる社会的情念への共感は新撰苑の選に現われていたが、女性の自己表出の実質が自我だけを思わせる句群へは、かなり冷静であり、そこにナルシシズムの感じられる句には微笑しつつ黙視していた。
やがて時実新子は春三や草刈蒼之助に近づいて革新派に属するといわれる。一般的に川柳界が、深化してゆく新子の句を読めない状況となってゆくのである。しかし豊次は春三の行動と革新性をよく理解し、人間どうしとしてこころを開き合っていた。女性の句のエゴイズムを見ていた豊次の視線を新子が感知しないはずがなかった。
二人は終生、相手に対する姿勢を崩すことはなかった。昭和39年は、その前夜だったのかもしれない。
だが川柳は、時代の潮流と重なって、思いを書くとか私性の開陳の文芸としてあらゆる私性の表出を価値あるものとする傾向に滑りこんでいた。革新系川柳誌も本格派やそれに似た多くの川柳誌も同じだった。そして、革新派とそのほかの川柳誌は、私性の表出レベルの深浅の違いで、一方が読めない(読むちからが及ばない)ほど離反していったのである。
数年後に豊次が、チンピラの私に洩らした一言がある
「三太郎はんは川柳が右へ行き過ぎると左へ、左へ行き過ぎると右へ、舵を取る力がある。そういう位置に居はる」
平安川柳社の運営にたずさわる中心的な数人は、無償で献身的な働きのなかで三太郎の「川柳研究」の動きや力を見ながら、一方で本格派の時代遅れを捉え、「川柳平安」が一党一派にとらわれぬと結社として、小さな総合誌的なおもむきを見せ始めていたが、やがて言われる平安調≠ニいう安定剤のような風潮を実質的に検討することはなく、おざなりに扱うにとどまった。これが結社の存在を川柳界に認めさせ、注目させることとなって行ったのところにも、川柳という文芸の特殊性があった。とにかく結社内で、句を認め合いつつ、批判はなされなかったのであった。
新撰苑上位
風に曳かれて行ったきょうの夢たち 服部たかほ
あごのあたりを行ったり来たりする夢よ
子の夢のじゅうたんに乗っている父と母
血管に乗り込むつもりの牛乳よ
人間の手へ人間の手の歴史 乾ふたよ
だれも消してくれぬ心の掲示板
いまなお貧しそが閻王に斧振り上げ 城山朶夢
道の辺に銭せがむ子の狂わぬ月曜
精巧なおもちゃをかまきりが食べてしまった 山本ひよこ
きざまれたリズムが夢を食べている
政治たちまち黒いマントに包まれる 定金冬二
どうしても持たねばならなぬ黒の重量
竹二読む小林多喜二反射する 川上湧人
打ち寄せる波は親子だ抜け殻だ
人間である危懽念珠掌に温くし 中村土竜庵
永劫の無に対峙して春の僧
人間廃業届を書いて蝶になりたい 長町一吠
骨壷のなかで平和がころがっている
一句組の中に
団地の孤愁階段と白き部屋 小黒王石
スタートラインにルージュはいらない 田中博造
風が哭いているすっかり私の声である 徳永 操
ヌード貼るアア青春が流れさる 戸田照夫
汚れた手がつり銭を握りしめ 逸見堅治
この号の王石・博造・一吠・操などの句の調子は新撰苑に多かった。破調、自由律などと言うことがあったが、川柳の世界で定義があって書いたり喋ったりしていたわけではない。
一吠、操の句は発想段階で散文的な調子を自由な韻律に整えようとしている感がある。豊次はこれを認めていた。傍の所ゆきらが韻律の自由を生かしつづける好作家であったことも影響、さらに豊次・ゆきらが戦前の新興川柳のそれをを知っていたこともあった。しかも豊次は、時代の潮流に川柳の口語化傾向があると、(例えば山村祐の当時の思考等などがあった)意識していたのかもしれない。
とにかく新撰苑の句は五七五に拘らない句が沢山あった。