昭和37(1962)年「川柳平安」12月号
網膜に裸木彫りて遠い時間 堀豊次
心臓に付着している枯れ葉一枚
自虐の落書きが残されている胃壁
記憶にいまだ遁走している纏足の耳輪
タクトは――鞭の柔軟性をもたない
ちょうど麦酒一本からになる北陸トンネルの時間 所ゆきら
枯れ葉降り舞い吹き散る背景に平標の頭
本陣脇本陣お助け小屋雪の越後バスガイド
風の名がからっかぜとなるトンネル抜ける
そこで男がねんねこ子守する国のこけし
利根のみなかみのホテルホテルみな男と女
闘いの掌なら頭の童話よ去れ 山本礫
個性愚かにもあすへ寝返りを打つ
冷徹な月に余白をとられてしまう
振り返る失望があり月の街
恍惚と砕け散りたき高さにいる
新撰苑
もがく彼我の距離感と晩秋舐める 石川重尾
なお燃える意欲を余し深夜の奇形
脅かす鞭ある異端の活字を拾う
ラインシャフトが錆びたくらしの詩を吊る 中西一調
バイト抉れば鋲の微笑が現れる
旋盤の真実に身をかがめよう
仮面反射しあう夕焼けのラッシュ 服部たかほ
遠景――見あきずにいる労働者
前号作品批評「裸対裸」(小宮山雅登)に次のような批評がある。
「 らーめんを食う貌がつぎつぎと暗い灯 豊次
この人の姿勢がこの作品の中に如実に生かされているのであるが、この安らかさに居座っていることを私はゆるしたくない。」
おなじ革新派という気持ちが評者にも作者にもあったと感じられる。真摯に言えば通じ合う、という意識があるのだ。この姿勢から見て、本格派や川柳界への視線がキツイものや無視になるところに当時の革新派があったのだろう。豊次はそれに同調しなかった。新撰苑と豊次の周囲に、いつも平安川柳社という和気藹藹の空気があって、一党一派に偏しないという結社に、お互いの句風を認め合ってこそ和が保たれるという認識が漂っていた。
むろん豊次に、川柳界や本格派についての批判がなかったのではない。批判的言辞は控えていたが、のちに我々数人との会話では、眼にあまる仲間褒めや馴れ合いなどの不毛な付き合いに向かっては、批判的な言葉が出ていた。
これを協調性というか組織に居る人間の二面性というかはいまも言い切れない。結社の体質が個々の同人に、何か感情的なものを堆積させるものがあったかなかったか、これも個々人で違ったはずだ。そして十数年後の創立20年を経て突如解散に至るときまで、川柳から離れた人を別にして、ほとんど退出者を見なかったところに平安川柳社と、堀豊次と、新撰苑の関係があった。
しかし、平安のあとの結社(川柳新京都社)が結成に向かうときに、すでに何年か前に平安を飛び出していた私は、平安における「新撰苑」が新結社に引き繋がれることはないと耳にした。豊次さんに、それでいいのかと問いただしたことを忘れない(つらい質問だった)。答えらしい答えは豊次さんの口から出なかった。
ともあれ、昭和37年11月の句会から豊次とゆきらの句を引いておきたい。
パトカーに乗って天下の秋を知る 豊次
天下太平パチンコ屋改装
石けん箱と詩人銭湯の隅にいる
隅にかけられ蝿たたき秋となる
ゆるされて帰る蝙蝠傘を提げ
自らをゆする電車に眼をつむり
廃船の旗立てるとこ恥部となる
やわらかな色でひよこが泣いている
地球満員となる日を想い街に立つ
曇のち晴人生のタクト振る
捨て石となるきびしさの世を歩く
少年の捜すものつぎつぎ消えてゆく
常識をやぶれという声も聞こえる
常識の位置に灰皿置いてある
金になる血がいま針を通っている
およそ天下に墓よりでかい句碑を立て ゆきら
眼の中にゆるすゆるさぬ夜といる
廃船の船長室の椅子動かない
カメラのぞいて女の顔作る
カメラマンの眼に誰もいない椅子が白い
言い伝えて草津のもちのやわらかく
やわらかくてかるくてガラス箱の赤ん坊
浮世絵の膝から上る線を追う
キリストの如くカガシの如く十字路に置かれ
名探偵を捜しているのはミステリー編集部
これが常識だと百科辞典並んでる
句会のベテランの眼には、豊次がノっていることが感じられるだろう。ノっているときの融通無碍な感覚が句会で発揮されるところに、川柳独自の座の面白味がある。創作欄の五句と句会吟との落差をどのように思うか感じるかは、人によって違うだろうが、堀豊次の創作には句会というものがあってこそと感じさせる味が底流している。単純に思考密度や志しの違いと決め付けてはならない。当時の革新派の句会アレルギーには、旦那芸や下卑た笑いや常套的な情の表現を楽しみ合う不毛さへの批判があった。この句会観から、創作についてのストイシズムが出るところに革新を自認する意識があったのだ。ストイシズムに自己更新が伴なわぬとき、自己硬直の渕が現われる。一般的な日常生活にあって、しかも、やみくもな経済上昇期の変転のなかで、一般庶民が抱く革新性の自意識は、文芸の世界より、社会的・政治的な革新へ傾斜することが多かった。日常のなかで、自己破壊から自己更新へ向かうことは容易ではなかったのだろう。革新の標榜が硬直化するのを見ながら、豊次の生得である庶民性と日常性への愛着は地から足の離れるものではなかった。句会はそのような気持ちの融和をうながす場所であっただろう。
所ゆきらはこの状況を客観視する眼をもっていた。創作においても句会にあっても、自在であった。連作「石庭」への集中などを別にすれば、創作も句会も表出レベルが同じだった。自在な書き方が、美の猟人のようなゆきらの中にいつもあったのだ。「墓よりでかい句碑を立て」は、ゆきらの川柳を語るときに忘れてはならない一句である。
なお、「キリストの如く」(ゆきら)、「地球満員」「曇のち晴」(豊次)の句は、雨中の交差点で交通整理の警官が両腕を十字に広げている写真から書かれた句である。