堀豊次が「新撰苑」の選を始めたころの「本格」と「革新」の句風にはこれまで触れた。いま一つ、心性を書く句を引いて、当初の「新撰苑」を囲んでいた表現レベルの概要を終わり、続いて平安川柳社の雰囲気と、豊次との出合いを書いておきたい。
掘豊次が「番傘秀吟抄に想う」を書いた次の号、昭和34年(1959年)「川柳平安」3月号に、
声のない笑い心はもうきまり 溝口晏子
信じるという美しき距離をおき
卑怯だと思う沈黙向かい合い
感情をおさえる言葉そつがなし
聞くまいとすれば哀しさだけのこり
お互いの気持ち労わり合う無口
が載っている。
自己と他者の関係、その心性のみを抽出して、いっさいの外部状況を締め出して書いているところに、当時の心理詠の一般的な書き方があったと思われる。川柳界には、豊次が批判した「歌舞伎やお茶屋の女将」などを書く川柳とともにこのような川柳があって、庶民の文芸である川柳が時代状況にうながされながらでも広範な領域を持っていたことが感じられる。上の句が豊次のいう「ヒュウマン」に属する川柳のひとつであったことにまちがいはないだろう。そして豊次は川柳の庶民性に自身の立脚点があると思っていたらしい。同じ号には
金を欲る電車待つ間も降りるときも 掘 豊次
暖冬の昼の弁当餅焼く一人
地図を画く子に風邪の父速く寝る
保護帽に親しさ拒むわが五体
松川事件の不安貧しき吾を覆う
青春散華踏切番旗振り止まず 山本 礫
掲げて歩く胸の血のプラカードとはならず
叛くまじ――コップの水顎つたいゆく
指に溢れた告白の掌を裏返す
白々しく明日の扮装組み立てる
がある。日常性の中の〈思い〉ということでは、三者とも自己の思いに誠実に答える句語と感じられ、掘豊次の評価軸がこのようなリアリズムにあったことが思われる。「保護帽に親しさ拒む」という表現は、労働現場で「保護帽」を被っている作中の主人公が、階級意識から、なにものかに対して「親しさ」を「拒む」と読めて、労働者であることの矜持が「わが五体」にある――と読めるが、立場を逆にしての読みが可能でもあって、やや観念的で性急な書き方の句だが、豊次に内在する左側が感じられる。
ついで同年の「川柳平安」4月号
夫婦の愛遠ざかりゆく錆びた自転車 掘 豊次
運河今日も油浮きどっと卒業す
記憶の中の風船も血を噴きおり
湖底の十字路妻でない女の手を引く
この四句は豊次が句会上手であったことをものがたっており、問答体とリアリズムが融合された書き方であり、「湖底の十字路」の句は、問いが直接的になくても、作者の自己対象化が問いとなって、その答、心性をイメージへ飛躍させる書き方である。
同6月号「平安抄」(創作欄)に豊次の句はない。
石仏様
帰らざる風すぎにけり石ほとけ 所 ゆきら
子の母のよだれかけ召せ石ほとけ
百舌鳥鳴いて鶯鳴いて石ほとけ
目も耳もこんとんとして石ほとけ
歳星を百かぞえしや石ほとけ
しゃがむ地の今日も摂理を見失う 山本 礫
天の青苛酷の指を逃れし瞳
己が悪臭に酔う商人の肌を持つ
怒号せよ神語は今日も作られる
無防備の眠りささやかバス動く
翌年(昭和35年・1960年)2月号にも豊次の創作は無いが、初心者を対象にした「川柳教室」(担当・布部幸男)の巻頭に
主義捨てる夜の敷布に皺多く 川瀬亀助
があり、初心者の表現にも当時の庶民像がこのようにあったことがわかる。左右にゆれながら生きて行く庶民像といえばいいかーー。豊次はこのような庶民のこころの理解者であり、初心者の句にも時代の趨勢を感じただろう。そして「妻でない女の手を引」いて「湖底の十字路」を往く心性が、人間に内在することを知っている川柳人だった。山本礫の庶民的な内奥を理解できる人であり、所ゆきらの該博で美の猟人のような知識や嗜好から離れていても、その句の質やレベルを感得するひとであった。ちなみに、所ゆきらは、さまざまな美的対象を猟人的に愉しみながら、それをまったく誇ることがなかった。我々の幼い質問に飄々と答えることがあっても、どこかで自分の知識やアカデミックな価値観を信じていない風合いがあった。堀豊次は革新川柳の側に居ながら伝統的な作句の姿勢をとりつづけ、所ゆきらは世俗臭を越えているかの視線で「本格」と「革新」を見ており、二人は平安川柳社で、他者の句の表現レベルを真正面から知覚できる川柳人であった。低級で猥雑な句は川柳の幅の広さという立前の上に存在しても、二人の眼には無意味な存在であっただろう。
一党一派に偏しないという平安川柳社のテーゼは同人の和を持って保たれていたので、平安川柳社は肌触りのよい結社だった。豊次やゆきらの人当たりの柔らかさと、二人が川柳界の名利を求めぬ姿勢にあって内部での発言が少なかったことも、川柳界への目配りのよい中枢部の活動を自在にしていたはずである。
以上が、平安川柳社が同人相互の無償性によって風通しのよい体質をもっていた頃、二十代前後のわれわれ新人が同人になる以前の、堀豊次の居た結社のふんいきと、豊次・礫・ゆきらなどの句風であった。その数年後に同人になった我々は、結社のここちよい雰囲気に入って、一般社会の日常性のなかにこのような結社の空間が存在することを率直に喜んだのであった。
実際われわれは、上記に紹介した「川柳平安」誌の3年か4年後に地元の新聞柳壇の三人の選者(福永泰典(のちに清造)・北川絢一朗・西沢青二)から1年間の手ほどきをうけ、平安川柳社の同人に連なった。
新同人になった何人かの若者の眼に、革新的な魅力をもつ句の作者で「新撰苑」の選者の掘豊次は、やわらかな人当たりと典型的な京都弁で句会の席にあった。