樋口由紀子さんは現在の川柳シーンの先端で川柳を考え、書いている人。ここでは省略します。「人差し指」の句が最も現在の彼女の居場所を告げている句で、二十句の書き方は軽みというより、言葉との、混じりっけのない素の接触、素の言葉が喚起する自身の内在性の表現でしょう。
楽しかった半券だけを渡される 広瀬ちえみ
「半券」の句は、「だけ」を至当の措辞と感じるかどうか、ちょっと迷いますが、冨二さんの「みんな去って 全身に降る味の素」を彷彿させる佳作。「だけ」の二文字を省略の対象と考えるか、生の含羞と考えるかが、読者の生き方や価値観への問いにもなりそう。ただ、この句に限って言えば、夫君を早く亡くした作者に重なっているかも。人間のこころの奇妙さや世界の理不尽、運命というものへの思いを書く佳句の多い好作家。
空気銃もナイフも児童相談所 本多 洋子
まったく本多さんらしくない叙法で、こんな、答がはっきり出過ぎた一般的な句を書いていたのかと驚いています。もっと、感性の飛躍を個的に愉しんでいる句が多いはずで、首をひねります。なぜこんな、非個性的な、だれでもが書くような句を書いたのでしょうね?
冬立ちぬ熟年離婚セレブ婚 前田芙巳代
これも作者らしからぬ句。個我に執着した表出に優れた句の多い作者。
松永千秋さんは自己革新をゆっくり進めつつ、日常詠に佳作の多いひと。「さくら」の三句が他人に書けない心境。「おついで」という軽さで神仏を任された、笑うに笑えない立場が、さらっと書ける力量のあるひと。
峯 裕見子さんは、「うどん屋の少し遅れている時計」に、世間の実体、実質を書いており、彼女らしい句だと感じます。水平の視線を持つ川柳人で、日常生活を肯定するか、批判するかに、いつもゆれているのが、気になります。うまく分ける思想の弱いところに、句の落差が見えますが、世間全体をつつみこむ冨二さんの視線に方向性があるかも。
雨が止んだら礼拝堂に行くつもり 宮本めぐみ
心理の転換を捉えた句で、川柳的な転換の書き方の活きた句。因果関係を一切省略して読者に預けている叙法がおもしろいところであり、「雨が止んだら」の句語自体に意味が付与されていないことが見事な句になった要因。朝丘雪路の唄が関係を唄って具体的な湿気を出そうとしているのと比べると、いかにも川柳らしい省略があっていい句だと思います。
やすみりえさんは、自身のキャラクターを上手に作っていて、句も、同方向に揃えてなかなかプロらしい。イヤミのない書き方がいいと感じます。「幾つもの切り取り線」とは、実に巧い。川柳界でやっかみの視線があるのはしかたないことですが、句にプロらしい聡明さが現われていますね。
山田ゆみ葉さんの二十句は、言葉や熟語についての個性的な神経の働きがあり、それが人間や世界へのすなおな視線と交錯する書き方。スケールの大きい作者になれる人材、いま、身についた抽象的な認識(本書の二十句)から、具体的な事実への思いの叙法に向かっている作者であり、当分は、自己の内側にのみ焦点を当てる直線的な書き方が続くはず。句会などで小器用なだけの作者が多い現在、器用さの無い書き方こそ魅力ですから、本物になるでしょう。
以上です。駆け足になりました。本書は商品ですから、麦彦さんがピックアップする句や、句の、非個性、一般的価値観、世俗性などが前面に出ることがあって、これを忌避できるものではありません。むしろ、電話で喋りましたように、この書物なりに川柳を外へ開いていることの意義をおおいに喜んでおります。したがって、句の読みについては、辞典のようなお墨付きがあっては個々の句が錘を附けられて固着する感になり、外へ開く、あるいは具眼の士の眼にとまる可能性が弱まり、こんなものしか川柳は書いていないのか、との軽蔑を招くおそれを感じます。
実際に川柳に関わっている当方の読みが、いわば内側の、舞台裏での言辞に終始しているとお感じになっていると存じます。いわば世間なみの視線からはずれた感想にならざるを得ないところに、ものを書く自分を律しているから、とい言うよりありません。個々の句について、世間に伝える、ひらたく言えば句の一般化への翻訳のごときことなら出来ますが、それをここに書くことは、川柳人である大先輩に対して誠に失敬な姿勢になります。
なぜなら、現在も過去も、あらゆる文学作品には(作者が無意識であれ)作者と世界の違和感があり、そこに自己洞察や人間洞察や世界観の展開がなされてきたことは、例えば漱石の小説のどれを読んでも瞭然です。
社会的に学歴が高くなり、文化の意識も感性も豊に広まり、例えば若い人達が、ぼくのような六十代の人間に難しく感じる文芸を、ベストセラーにするほどの関心と購買力を発揮している現在です。目の前の世界と目の前の川柳を見る、良き視線を必須として、出版物は出されねばと思います。この意味で、サラ川やマスコミ川柳や、各種の催しで募集される川柳が、それなりのカテゴリーにあることを世間は知っています。だからこれらはますます派手にやってもらっていいと考えます。むしろわれわれの川柳は、その横腹を強烈に痛打するものとして在ればいいと思うのです。もともと川柳人は、ともすれば社会の文化水準を妙に低いものとする思い上がりを持っているようです。もっと堂々と外に開けば、むしろ自分達の至らなさを教わることができると感じています。この意味で、とにかくやさしく見せようとする感がこの一冊にあることは、そのまま、優しい、判りやすい、一般的な規範に添った読みやすいコメントのあるアンソロジーという姿勢に収束した一書と成ります。個別の句が、一つの規範の中に囲われては、現代川柳の酸素が薄くなります。これは、上昇をこころがけている良き川柳人に、せずともよい、余計な努力を強いて、外側からの良き視線に現状のもろもろを答えねばならない煩わしさをもたらせます。商品として硬軟両方、甘辛両方、進退両方、毀誉も褒貶も両方あることを心得つつ、世間に一線のあいだを置いたところで言葉と接する、ものを書くという位置で私見を書きました。
川柳を始めた頃、幾つかの誌上でお名前を読み、仰ぎ見ていた先輩のお仕事について歯に衣着せぬ通信でごめんなさい。
もし、よろしければ、これを、バックストロークのホームページにあるぼくのブログに転載させていただけないでしょうか。お願いいたします。これと違っても同じ主意を、いずれブログに書くつもりなのですが、できれば書簡のかたちでこのままをと思っているのです。失礼ですがこの旨、返信のハガキを同封させていただきます。よろしくお願いいたします。
これを書いて、いい経験をさせていただきました。ありがとうございました。
石田柊馬
ひどいセンテンスや、ひとりよがり、早合点など、悪文丸出しの失礼な書信に、田口麦彦さんから、転載のお許しと、長文の返信、幾つかのご活動の資料をいただいています。
あらためてお礼申しあげます。そして、ブログを読んで頂いている皆さんにも、悪文かつ長文へのお付き合に、お礼申しあげます。