小説『株価暴落』  書籍関係

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大手スーパーの一風堂爆弾が仕掛けられ、
死傷者を出した。
一風堂はグループ売上2兆円、
傘下に数百社を擁する流通業界の巨象だ。

その爆弾事件に
白水銀行
の審査部調査役の板東は衝撃を受ける。
実は一風堂は昨年債務超過に陥り再建中で、
メインバンクである白水銀行は
2500億円の債権放棄をし、
更に追加支援として1千億円の融資を実行、
融資額はなお6千億円に及んでいるからだ。

「案山子」と名乗る脅迫者は、一風堂会長と社長の辞任を求め、
聞かれない場合は、一風堂殲滅の計画を実行するという。
予告通り、2件目の爆発が実行され、死者が5名出た。
その結果、一風堂の店舗から客足が遠のき、
株価はストップ安を重ね、暴落した。
業績悪化した一風堂から、
白水銀行に500億円の追加支援の要請があり、
板東は拒否し、企画部次長の二戸と対立する。

これに並行し、警察の野猿刑事と田崎刑事の捜査の中、
過去に、
一風堂の新業態の進出を巡って自殺した事件が浮かび上がり、
自殺した店主の息子・犬鳴黄が
重要容疑者として注目されるようになる。

犬鳴黄の捜査を巡る動きはあくまで副筋で、
メインは追加融資を巡る板東と二戸の対立。
追加融資を押す二戸の主張は、
これだけの大企業を破綻させた時の
メインバンクの損害が甚大だというもの。
板東の主張は「融資の要諦は回収にあり」で、
追加融資をしても一風堂が自力で立ち直る可能性が低い限り、
融資は差し控えるべき、というもの。

この論理のどちらが勝つか。
それとも犯人が逮捕されて、
一風堂再生の道が開けるのか。

という二重のサスペンスで展開するが、
池井戸潤らしく読者の関心を離さない展開で飽きさせない。
ただ、捜査本部と容疑者の同行を巡る部分は、
やはり初期作品のせいか、もう一つ魅力に欠ける。

ただ、巨大融資先の破綻を控えた大銀行の葛藤は興味津々。
問題は銀行の融資で生き延びた一風堂に
再生の見込みがないことだ。
創業者会長が隠然として支配している現状は打開の余地がない。
緊急融資で生き長らえさせても、
銀行の損失が表に出ないだけで、
本質的な解決にはならない。

しかし、株価は暴落の一方で、
白水銀行の保有一風堂株は3千万株。
株価下落でこうむった損失額は既に約137億円の巨額に上り、
株価が1円下がれば、3千万円の損失が追加される。

次の記述は面白い。

白水銀行では、取引先が業績悪化によって
審査部へと所管が変わることを「入院」と呼び、
その審査部の取引先企業を「入院患者」と呼ぶ


だから、一風堂に対する追加融資は、
                                        
だましだまし、金を注ぎ込み、
まるで生命維持装置で細々と
命をつなぐ重症患者


と表現される。

その生命維持装置を取り外したら、どうなるか。

この決断ひとつが与える影響は計り知れない。
ときに数万人の雇用が失われ、
職を求めて彷徨うことになってしまう。
下請け企業の多くは新しい取引先を探さなければならなくなり、
それがうまくいかなければ、
連鎖倒産の憂き目に遭う。
けれども、そもそも、会社とはそういうものではないのか。
ここは社会主義国家ではない。
資本主義の国なのだ。
市場の原理を曲げてまで企業を支えれば、
最終的に、腐るのは銀行であり市場だ。


一方で、数百万円、数十万円が調達できずに
不渡りを出し、倒産していく中小企業があることも事実だ。
大きいというだけで、無原則に融資すれば、
最終的に「腐るのは銀行であり市場だ」
という主張。

白水銀行では、
追加支援を見送るかどうかを決定する役員会が開かれる。
現実と正論。
どちらが勝つか。

池井戸潤らしい、
銀行を舞台に展開する人間ドラマ。
面白い。

2004年刊行。
2014年にWOWOWでテレビドラマ化された。


小説『ふたご』  書籍関係

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クリックすると元のサイズで表示しますふたご

題名は「ふたご」だが、
双生児の話ではない
登場する男女の関係がふたごのよう、
あるいはふたごであったら、
または、ふたごでありたい、
というような重層的な意味あい。

物語の始まりの時は、
二人とも中学生。
西山夏子と月島悠介。
ただし、月島の方が一学年上。

その中学から高校までの二人の交流を描くのが第一部。
夏子はピアノをやっている。
月島は高校に進学するが、適応できずに中退してしまう。
父親の勧めでアメリカン・スクールに入り、
その後、アメリカに留学するが、
パニック障害に陥り、
2週間で帰国。
「注意欠陥多動性障害」と診断され、
精神病院に入院する。
その間の月島への思いが夏子の独白でつづられる。
一貫しているのは、
月島に翻弄される夏子の姿。
しかし、二人は離れられない。
それが「ふたご」のゆえんか。

私はこの時代の思春期の悩みに
共感する年齢ではないので、
観念的で幼稚な二人の会話は、読んでて辛かった。
「そんな悩みは時間が全て解決してくれる」
と思うので。

月島の症状も、半分は甘えに裏打ちされたもので、
勝手にしろ、という感じだった。

闘病する月島を見守る夏子の気持ち。

骨折を素人が治せないように、
精神の病気も素人が治すことは出来ない。
私が出来るのは、月島が抱える問題を「病気」だと思うことだ。
骨折した人が速く走れないのは、性格の問題ではないということ。
盲腸の人がご飯を食べられないのは、趣味の問題ではないということ。
そう思うことで結局誰よりも救われるのは私なのかもしれない。


そして、第1部は、次のように締めくくる。

生まれた場所も、見てきた景色も、同じだ。
苦しみも哀しみも、共有出来る。
そう信じてしまった私たちが
再び月島悠介と西山夏子とという
二人の人間へと分離することは、
無理やり身体を引き裂かれるような痛みを伴った。
自分たちはふたごのように、
全てを共有することなんて出来ないと分かるまでに、
何年費やしたのだろう。
どうしてこんなに苦しまなければならなかったんだろう。
もう私たちが本当にふたごだったら、
こんなに苦しむこともなかったはずだ。


第2部は、第1部と様相が一変する。
夏子は音楽大学に進学し、ピアノを弾く毎日。
月島は退院後、塾や予備校に通っても、
最後までやり遂げられない。
そのうち、月島がバンドをすると言い出し、
2人のメンバーを集め、最後には夏子もバンドに参加する。
夏子は自分の事情があるのに、月島には逆らえない。
元印刷工場をライブハウスに改装し、
練習し、演奏する共同生活の毎日。
無計画で行き当たりばったりの行動に
読んでいて辟易させられる。
しかし、ライブハウスで歌った時、
スカウトを受け、デビューすることになる。
そんなうまい話はないだろう、
と思ったら、これほぼ実話なのだった。

著者が4人組のバンド、
SEKAI NO OWARIのピアノを担当している
藤崎彩織(ふじさきさおり)という人だと知ったのは、
読み終えてからだった。
で、調べてみると、
月島とは、ボーカル担当の深瀬慧(ふかせさとし)のことだと分かる。
1学年離れていることも、
深瀬が高校を中退してアメリカンスクールに行ったことも
アメリカ留学を2週間で帰国し、
精神病院に入院したことも、
バンドを組んで、ライブで音楽事務所のスカウトにあったことも、
全て事実だった。
つまり、この本は著者の自伝的小説だったということだ。
もちろん創作も加えられているだろうが、
大筋は事実をなぞっている。

つまり、私小説
それで描かれていいる世界が
リアリティはあるものの、
深みがないことが理解出来た。
筆は立ち、感性も鋭いが、
自叙伝を読まされた感が強い。
つまり、小説としては出来上がっていないのだ。
バンド活動だって、日の目を見たからいいが、
普通なら、意欲だけ空回りの失敗物語だ。

ただ、SEKAI NO OWARIは、
武道館コンサートを成功させ、
海外にも進出しているという。

↓You Tubeで聴いてみたところ、
彼らは才能はあるようだ。

https://youtu.be/Q54iJmrKBsA

しかし、中学・高校・大学という
未完成な人間の未完成な悩みを描いた本作は、
私には面白くは感じられなかった。

それでも先の直木賞の候補になり、落選。
選考委員の評は厳しい。

桐野夏生
好きな相手に、
「自分たちは、恋人でもなく、友達でもなく、『ふたご』である」
と規定された主人公。
この依存関係をもっと突き詰めたら面白くなったかもしれない。
しかし、バンドの成功話によって、曖昧になってしまった。

北方謙三
小説的なフィルターを通さないまま書き綴ったというところが感じられ、
それが前半の稚拙さを際立たせてしまった。
ただ作中で、登場人物たちは少しずつ成長を遂げ、
それを描く作者も成長しているという、不思議な感慨を持った。

林真理子
とまどった。
ところどころみずみずしい感性は見られたものの、
まだ小説には昇華していない。

東野圭吾
若者たちの心をスマホから引き戻せるとしたら、
もしかしたらこういう小説なのかなと思った。
しかしそれは単なる褒め言葉ではなく、
わかりやすくて低刺激であることを指摘した苦言でもある。
いずれにせよ、自伝的作品かつデビュー作となれば、
これ一作で作者の才能を推し量るのは無謀というものであろう。

伊集院静
数ページ読んだ時、
あっ、もしかして私が待っていたものを、
この人は背中に背負って、若いいっときを生きてくれていたのでは、
と胸がときめいた。
正直、その時、私は作者が世間で名が知れた音楽のお嬢さんとは知らなかった。
ただ読み進めて行くうちに、おや、どうしたのか、という状況があらわれた。
この人はまだ、文学、小説がこんなに素晴らしいものだと、
彼女がピアノを習得する上で感じた先達の名曲、
すなわち名作と対面していないのではと思った。

宮部みゆき
文章の随所に光るものがあるのは、
他分野の書き手だからこそ「ツールとしての文章」に
こだわったからだと思います。
周囲の期待に慌てずに、
じっくりと次の作品を書いていただけたらと思います。

浅田次郎
「才能のありそうなダメ男」は、ものすごくモテるのである。
しかしどうやら作者はそうした当たり前の関係を、
何か特別な恋愛の形だと思いこんでいるらしく、
大人の読者はみなそのことに気付いたとたん
投げ出したくなったであろう。
少くともそれくらいの大人の小説に候補作を絞るというのは、
文学賞の見識ではあるまいか。

高村薫
題材を用意してみたものの、
それを小説に仕立てる手つきが小説家のそれではない。
個人的な関心事を連ねただけでは内輪のブログにしかならない。

宮城谷昌光
読みはじめてすぐに、この人には非凡なものがあると感じた。
この作者は、否定形がつかえる。
そこが非凡である、というのは少々飛躍しすぎた説明であるかもしれない。
しかしたとえば、私は男である、と書くところを、
私は女ではない、と書いたらどうであろうか。
この「ない」を書ける作家は多くなく、
ほとんどの作家が肯定形を終始させて小説を書いている。
この小説にある清澄感と誠実さには好感をもった。


ようやく、前回直木賞の候補作5篇を読了。
順番をつけると、
                                        
1位 門井慶喜「銀河鉄道の父」[受賞作]
2位 澤田瞳子「火定」
3位 彩瀬まる「くちなし」
4位 藤崎彩織「ふたご」
5位 伊吹有喜「彼方の友へ」

直木賞候補作のレベルが落ちていることを感じる。

それぞれの感想ブログは↓をクリック。

銀河鉄道の父

火定

くちなし


短編集『銀行狐』  書籍関係

娘は一昨日の夜行便で発って、
今、オーストラリアにおります。
来年秋でエアーズロックが上れなくなるので、
念願の登頂に。

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テレビドラマ「世界の中心で、愛を叫ぶ」
聖地巡礼だそうです。
やれやれ。


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池井戸潤の初期短編集。2001年9月刊。
江戸川乱歩賞受賞(1998年)後の第1作「ローンカウンター」を含む。
テレビドラマ「花咲舞が黙ってない」で取り上げられたものもある。

「金庫室の死体」
破綻した銀行の閉店処理中の支店の大金庫で
バラバラ死体が発見される。
被害者は資産家の独居老婦人だった。
調べていくと、2億円の定期預金が半年前に引き出されていた。
しかし、受け取りの筆跡が違う。
その上、担当行員は交通事故で亡くなっていた。
2億円はどこに消えたのか。
支店内を殺人現場にした真意は何か。
倒産企業の返済予定表を見ていた刑事が
ある数字に目をつけるが・・・
「浮き貸し」という犯罪の手口を扱った作品。

「現金その場かぎり」
閉店時の銀行で、300万円の札束が紛失した。
1カ月前にも200万円紛失したばかりだ。
徹底的な捜索が行われ、
ゴミ袋や行員の私物まで調べたが出てこない。
「現金その場かぎり」という原則があり、
現金の授受は、その現場を押さえなければならない。
係長の灰原は、防犯ビデオの画像を見ていて、
ある事実に気づく。
顧客への配布品には金額に応じた格があり、
少額の取引なのに高額者への品物が渡されていたのだ。
同じ顧客の別の日の取引のビデオを見ると、
同じ窓口行員から、同様の品物が渡されていた。
しかし、「現金その場かぎり」。
実際に現金が渡された時をつかまえるしかない。
その日の見当をつけた灰原は、
その人物がやって来るのを待つが・・・
謝礼配布物受け渡しの商習慣を扱った犯罪の一篇。

「口座相違」
東都銀行渋谷支店で一つの不祥事が発覚した。
「橋本商事」という会社への3千万円の振込があったが、
口座番号が間違っていたたため、コンピューターがはじき出した。
それほど珍しいことではなく、
正しい口座番号に訂正して入力すれば済むことだったが、
口座番号を調べた行員がミスを犯した。
検索画面に「橋本商事」と打ち込むところを
「橋本商会」と入力してしまったのだ。
支店の業績考課の低下を恐れる副支店長の指示は
「もみ消せ」というもので、
橋本商会から3千万円の小切手をもらって
当座預金から払い出したことにすれば、
口座相違した証拠は残らない、というのだ。
萬田係長が橋本商会を訪ねると、
そこは麻雀屋で、そのような会社はないという。
しかし、橋本商会には、手形帳が交付されている。
担当者のずさんな調査によるものだった。
ほどなく橋本商会の残高不足が明らかになり、
1億5千万円の手形が不渡りになりそうだという。
しかも、横川プラスチックという会社の裏書きが入っており、
このままいけば、横川プラスチックの倒産が確実になる。
決済時間までに橋本商会の入金はなく、
横川プラスチックの倒産が決まるが、
東都銀行は横川プラスチックに8億円もの融資をしていた・・・
架空会社手形詐欺計画倒産を扱った作品。

「銀行狐」
帝都銀行頭取宛てに脅迫状が届く。
差出人は「狐」。
続く脅迫状では新橋支店が標的とされ、
ゴミ置き場で火事が起こる。
原因はキャッシュコーナーのゴミ箱に捨てられた時限発火装置で、
その日、ヘルメットを着用したままの客が訪れていた。
更に顧客名簿の盗難と流出があり、
為替部に資金調達の電話が入り、
300万ドルの資金調達がされた。
行内のルールにのっとったやりとりで、
資金は送金されたが、後で空注文だったことが発覚、
取り消しをしたものの、為替の変動で数百万円の損失が出た。
そして、ATMを使って、神谷新橋支店長宛てに
「キツネ」を名乗る者から4円の送金があった。
神谷支店長は銀行の出世頭で、
調査した指宿は、笹塚支店長時代の
変額保険を巡る裁判沙汰があったことに行き着く。
その時、証人に立った元帝都銀行行員の加瀬に指宿は会うが・・・
変額保険を巡る復讐物語

「ローンカウンター」
渋谷近辺で3件の連続殺人事件が起こる。
いずれもアパートの一人住まいの女性で、
犯され、殺されていた。
捜査本部では3人の関連性を探るが、
共通点は美人の一人住まいということと、
犯人を中に招き入れている、という点だけだった。
3人と共通して面識がある人間、を探るが、
交差する点はみつからない。
刑事の山北は、仕事の合間を縫って、
車の購入のローンを組むために銀行を訪れる。
そこで担当してくれた行員から、驚くべき示唆を受ける。
この行員、伊木遥こそ、
池井戸潤の江戸川乱歩賞受賞作「果つる底なき」の主人公。
銀行口座の出入りを調べれば、
その持ち主のいろいろなことが分かる、
というのは、行員ならではの着眼点だ。
その示唆で、一挙に3人の共通点が判明し、
犯人の逮捕につながる。
刑事もの、犯罪ものと思わせて、
最終的に銀行ものにつながる鮮やかな展開。

いずれも銀行を舞台に、
元銀行員でなければ書けない内容だ。
本書の解説に

横山秀夫が「陰の季節」によって
「警察」という肥沃な舞台を再発見したように、
池井戸潤もミステリの舞台としての
「銀行」を発見したのである。


とあるように、池井戸潤は、銀行という尽きない油田を持ったのだ。

ただし、銀行に対して批判的な体質を持っていることが
随所の描写に表われている。

初期短編であるため、
今の作風とは多少異なるが、
一つ一つ、読者を惹きつけ、
最後まで翻弄する手腕は
既にこの時に発揮されている。


『夫の後始末』  書籍関係

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昨年(2017年)2月3日、作家・三浦朱門氏が逝去。

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その介護と看取りをつづったのが、
妻の曽野綾子さんによる本書である。
第1部「変わりゆく夫を引き受ける」が介護を、
第2部「看取りと見送りの日々」が看取りをつづっている。
「週刊現代」に連載したものを単行本化。

当時、三浦朱門91歳、曽野綾子85歳
典型的な「老老介護」だが、
誰もが直面しなければならない「老い」と「死」を
正面から受け止め、粛々と綴っている。
その毅然とした覚悟に、
姿勢を改めさせられる思いがする。

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まだ中年の頃、
私は尊敬する老医師
(聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏のこと)から、
人間の最期に臨んでやってはいけないことを
三つ教えられたことがあった。
○点滴乃至は胃瘻(いろう)によって延命すること
○気管切開をすること
○酸素吸入。
若い人が事故で重体に陥ったような場合は、
もちろんあらゆる手段を使って、
生命維持を試み、
それを回復に繋げるべきだが、
老人がいつまでも点滴で生き続けられるものではない。
また気管切開をすると
最期に肉親と一言二言話をするという
貴重な機会まで奪うことになるから
絶対に止めた方がいい、
と私は教えられたのだ。


そして、こう書く。

私たち人間は、寿命だけは、
神でも仏でもいい、
人間をはるか遥か離れた偉大な存在に決めてもらうのがいい、
と考えていたのである。
それが人間の分際というものであった。


更に、こう書く。

私たちは自然に老い、
生命の糸が燃え尽きる時に死ねばいいので、
こんな簡単な話はないと思っていた。


朱門さんも日頃、
「長生きさせなくていいよ」とかねがね言っていたという。

ただ、死期が近づくにつれて、
朱門さんが食べなくなることに対しては、
曽野さんは胸を痛めたようだ。

食物があるのに、食欲がない、という状態は、
飢餓に苦しむ人々から見たら、
天国の境地である。
もっとも、本当に飢餓の状態が深刻になった子供たちもまた
食欲を失う。
私は飢餓の年のエチオピアで、
救援物資のお粥を入れたボウルを膝の上に載せたまま、
全く食べようともしない子供たちをたくさん見た。
(中略)
エチオピアの飢餓の子たちは、
決して声をあげて泣かなかった。
ただ食欲は失っていた。
それだけが、彼らの、
現世に対する強烈な拒否の表現だった。
生きるに値(あたい)しない現世というものがある、
と彼らは骸骨が見えるようになった
無表情な顔で言っていたのだ。


介護の内実について、このように書く。

奉仕とは、うんことおしっこの世話をすることなのた。
それ以外は、人に仕えることではない、
と私の知人の神父は言った。
これは私にとって決定的なことだった。
奉仕というのは他人に対する行為だが、
家族に関して言えば、
「看病」つまり看取りだ。
その看取りの基本は、
排泄物の世話なのである。


葬儀は、「前のとおり」に行われた。
「前のとおり」とは、
朱門の父母と曽野さんの母を送った時の葬儀と同じ形、
という意味だ。
曽野さんの家は、
夫の父母と自身の母の同居で、
その3人を介護し、この家から送り出したのだ。

私の母が一番若くて83歳、
朱門の母が89歳、
父が92歳で亡くなったのだから、
明治生まれの世代としては、
全員天寿を全うしたと言ってもよかった。
私たちは自宅で、亡き人たちと直接血縁のある僅かな甥や姪、
それから晩年に我が家で世話をしてくれた人たちだけで、
見送ったのである。
それが我が家の葬式の原型になっていて、
その送り方が、私たちは好きだった。
静かに世間を煩わせることなく、
ほんとうに心の通じ合い、
その最期を知っていてくれる人たちだけと過ごせたからである。


葬儀のミサはボリビアから帰国中の倉橋神父が執り行った。

神父は人間の死は決して生命の消滅ではなく、
永遠に向かっての新しい誕生日だということを
説教の中で述べられた。
この思想は、
ほんとうはカトリック教徒全員の中にあるもので、
死の日は「ディエス・ナターリス(生まれた日)」という
ラテン語で呼ばれるのである。
それから半分南米人らしくギターもお上手な神父は、
突然祭服の下から、
ハモニカを取り出して
「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」を吹いて下さったので、
私たちは全員で合唱した。
そしてミサが終った時、
「こんな明るいお葬式ってあるものなの!?」
と言う人もいた。


朱門さんが亡くなった後の生活について、
次のように書いている。

※私のような年齢の者でさえ、
朱門がいなくなった後の静かさは想像できなかった。
朱門は別に、騒々しい性格ではなかった。
家にいる時は、大抵本を読んでいるか、
コンピューターに向かっていた。
テレビもあまり見なかった。
音楽も聞かない。
友人を招くということもない。
だから朱門は、夕暮れのように静かな人だった。
別に寂しくはないのだという。
一人生きて、したいことがあり、
精神の食事のような読書もたくさんできて、
「自足している」
という言葉が一番その状態をよく表していたように思う。

今後のことについて。

私らしさを失わずに、整理して、
できれば端正にこの世を終わりたい、
というのが私の希望だ。
(中略)
今イラクでIS(イスラム国)との局地戦にさらされている土地から
逃れられない人たちは、
明日まで安全に生きられることだけが唯一の希望だろう。
できればその上、壊れていない家で眠ること、
飲料水や食料が手に入ること、
時々は洗濯ができることなどを希望しているかもしれない。
日本人は全員が、
イラクの難民たちの悲願を、すでに手にしている。
私たちは、自分よりも恵まれない人の存在を
絶えず意識し、謙虚に残された生を生きるべきなのである。


まさしく「賢人」と私が付けるにふさわしい生き方である。

今、日本は団塊の世代が70代に突入した。
あと10年も経てば、
全国で夫が妻を、妻が夫を介護し、看取る、
ということが起こるに違いない。
その基本は「うんことおしっこの世話をする」ことだという。

我が家も例外ではない。
我が家では夫の方が妻より長生きだ、と勝手に決めているが、
その妻の介護と看取りについて、
新たな覚悟を与えてくれる本だった。

↓は、若い頃のご夫妻。

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以下、目次を記す。

まえがき 夫を自宅で介護すると決めたわけ

第一部 変わりゆく夫を引き受ける

わが家の「老人と暮らすルール」
夫の肌着を取り替える
布団が汚れたら、どうするか
八十五歳を過ぎた私の事情
夫の居場所を作る
食事、風呂、睡眠のスケジュール
モノはどんどん捨てればいい
夫が突然倒れた時のこと
よく歩く、薬は控える、医者に頼らない
介護にお金をかけるべきか
「話さない」は危険の兆候
介護にも「冗談」が大切
明け方に起きた奇跡
夫に怒ってしまう理由
散々笑って時には息抜き
「食べたくない」と言われて
老衰との向き合い方
「奉仕」とは排泄物を世話すること
温かい思い出と情けない現実

第二部 看取りと見送りの日々

夫の最期の九日間
ベッドの傍らで私が考えていたこと
戦いが終わった朝
息子夫婦との相談
葬式は誰にも知らせずに
お棺を閉じる時の戸惑い
夫の遺品を整理する
変わらないことが夫のためになる
広くなった家をどう使うか
遺されたメモを読み返す
心の平衡を保つために
納骨の時に聞こえた声
「夫が先」でよかった
人が死者に花を供える理由
夫への感謝と私の葛藤
「忘れたくない」とは思わない


小説『刑事の子』  書籍関係

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宮部みゆきの初期の作品。
「我らが隣人の犯罪」(1987)でオール読物推理小説新人賞を取った後、
「パーフェクト・ブルー」(1989)で長編デビュー、
日本推理サスペンス大賞受賞を取った
長編「魔術はささやく」(1989)の後、
短編集を一つ挟んだ
第3長編に当たる。

1990年4月に「東京殺人暮色」としてカッパ・ノベルス(光文社)刊。
1994年10月、「東京下町殺人暮色」と改題して光文社文庫に収録。
2011年9月、「刑事の子」と改題して、光文社刊。
2013年9月、光文社文庫に収録。

なぜ改題したのかね。
新刊と思ってダブって買ってしまう人もいるのではないか。

中学一年の八木沢順は、
刑事である父、道雄が離婚したため、
東京の下町に引っ越すことになり、
なにかと不自由なので、家政婦のハナさんを雇って生活していた。

その頃、妙な噂が近隣で広がる。
近くのある家で若い女性が殺され、埋められたというのだ。
その家は篠田東吾という画家の一人住まいだった。

そんな噂に合わせたかのように、
バラバラ事件の死体が荒川で発見される。
頭と右手首だ。
道雄はその捜査本部の一員となり、
若い刑事の速水とコンビを組むことになった。

ある日、順の家に差し出し人不明の手紙が届く。
そこには「しのだ とうご は ひとごろし」と書かれていた。

一方、捜査本部には、犯人からの犯行声明が届いた。
次の死体の捨て場所が書かれており、
頭部と左足が発見された。
つまり、被害者は二人、ということになる。
しかも、その犯行宣言は
順の家に届いた手紙とよく似た書体で書かれていた。

順は篠田東吾のことが気になって、家を訪ねる。
そこで、彼の最高傑作「火炎」という絵を見せてもらう。
それは、昭和20年の3月10日の
東京大空襲での修羅場を描いたものだった。

篠田の屋敷も捜査対象となったが、何も出なかった。
そんな時、順は篠田家を見ている若い女性に遭遇する。
二度目に会った時、前に会ったと言うと、
女性は「マリエンバートだったかしら。去年ね」
という謎の言葉を残して去る。

被害者の身元は意外な経過で割れた。
篠田の世話をしている才賀という公認会計士の息子が
篠田に女優の卵をモデルとして紹介し、
その女性が、少年法の改正を求める集会に参加しており、
そこに篠田も関係していた。
女性二人が連絡取れず、
その線から被害者が判明したのだ。

一方、順は犯行宣言と家に来た手紙の筆跡の類似の真相
をあることから知るようになり・・・

というわけで、刑事の子がいかにも
刑事の子らしい独自調査をしながら、
事件に関わっていく。

宮部みゆきの初期の作品で、
その後の宮部みゆきの軌跡の萌芽を見ることが出来る。
たとえば、少年犯罪で、
犯人像は一般常識から逸脱した新人類のような若者。
また、犯行は猟奇的で残酷極まりない。
そして、道雄や速水やハナの脇役の人間像の魅力的なこと。

また、「コレクター」や「去年、マリエンバートで」など、
ちょっと古い映画作品がちりばめられているのも嬉しい趣向だ。

ただ、犯行が二段重ねになっているのだが、
二段目の犯行の動機が
危険を犯してまでそんなことをするだろうか、
という内容なのが弱い。
また、犯人がそれまでの描写を裏切る印象なのも欠点だ。

欠点はあるのものの、
その後の宮部みゆきの活躍を彷彿とさせるようで、
宮部ファンとしては、満足いく内容だった。
シリーズ化されなかったのが不思議だ。

なお、28年前の作品なので、
パソコンもインターネットも
スマホもSNSも出て来ない。
それらの普及が物語の展開を早くしているんだな、
と改めて感じた次第。





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