小説『傍流の記者』  書籍関係

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新聞社を舞台にした小説。
筆者が新聞社に20年勤めただけあって、
非常にリアリティがある。

東都新聞社という、
どちらかと言えば政権寄りの新聞。
5年の地方支局回りの後、
東京本社の社会部に配属された同期入社6名のエースたち。
40歳を越えた男たちの一人一人にスポットをあてた6話で構成。
それぞれの得意分野の異名で、
「警視庁の植島」「検察の図師」「調査報道の名雲」
「遊軍の城所」「人事の土肥」などと呼ばれる。
それに早くに総務に異動した北川を加えた6人の視点で描かれる。
続々デスクに昇進する中、
そのうち一人だけが社会部長のポストを射止める。
そのレースの過程で、
組織、保身、正義、家庭、部下の転職、
上司との軋轢など様々な問題が浮き出て来る。

小説新潮2016年12月号〜2017年12月号に掲載されたものに
プロローグとエピローグを加えた。
その書き下ろし部分で、
新聞社が倒れかねないスキャンダルの火の粉が、ふりかかり、
彼ら6人が、どう対処したかで新聞社の姿勢を問う。

新聞記者がスクープにどれだけ命を懸けるかがよく分かる。
それと、新聞社内での人事の占める重さ。

新聞社は下克上だ。
社会部でデスクになれるのは
130名いる部員のうち6名、
部長は1名だ。
編集局は総勢600名以上いるが、
そのうちたった1名だけが
編集局長として東都新聞の指揮を執れる。
他方、出世レースに敗れた人間は、
同期や年下の上司からこき使われる。
本社勤務で雑用をやらされるならまだいい方だ。
敗者の多くは、
欠員が出るたびに穴埋め要員として
地方支局や僻地の通信部を転々とする憂き目に遭う。


まあ、過酷な人事レースがあるのは、他の会社も同じだが。

社会部と政治部の確執など、
新聞社の細部が描写される。
新人記者を巡るドラフトなど、興味深い描写もある。

警視庁、司法クラブ、遊軍、厚労省、宮内庁・・・
毎年、7月に支局から若手が上がってくるたびに、
各キャップは、若手の仕事ぶりをよく観察、
使えそうだと見込むとこっそり呼び出し、
「きみ、検察取材に興味ないか」
「遊軍でいろんなところに出かけてみないか」
などと勧誘する。


そして、新聞というものを巡る厳しい状況。

経営の基盤となる部数の減少が著しい。
商品を宣伝する媒体に新聞を使おうという企業も減り、
広告出稿量は全盛期の半分以下まで落ち込んでいる。
各社ともに支局の縮小など改革に取り組んでいる。


こんな描写もある。

新聞社は権力を見張るだけが役割ではない。
この国を良くするにはどうすべきかを考察し、
論を発信する役目もある。
前者の中心になるのが社会部なら、
後者は政治部の仕事だ。
政治部にとっては、
大塚首相の息子が病院の理事長から資金を受け取ったことや
首相が閣議に30分遅れてきたことより、
東アジアの国際情勢や外交、消費増税、
憲法改正の方がよほど重要なのだ。


まさにモリ・カケに執着する朝日新聞のことを言っているようだ。

横山秀夫は警察を舞台に、
池井戸潤は銀行を舞台にしたが、
この筆者は新聞社という舞台を主戦場にする模様。

先の直木賞候補の一つ。
選考委員の評は辛い。

北方謙三
どこを読んでも既視感に似たものに襲われる。
描かれる事象は克明で、
同期の登場人物たちの書き分けもきちんとしていて、
全体としては隙のない世界が構築されながら、
新鮮さに欠ける。

宮城谷昌光
音楽にたとえると、不協和音が多用されている楽曲である。
それが新機軸として成功していただろうか。
私は否だとおもう。
小説の内的エネルギーを読者に伝えてゆく技法が熟していない。

浅田次郎
説明くさくなくてわかりやすい、センスのよさを感じた。
しかし読み進むうちに、
よその職場の愚痴を聞いているような気分になった。

桐野夏生
狭い新聞記者業界内部の域を出ていないように感じられたものの、
記者の人間関係の話は、
確かに他に類を見ないから面白かった。
それから、プロローグは要らないのではないか。

東野圭吾
エンタテイメント小説として立派な出来だと思うが、
無難で地味という印象があるのは、
核になる大きな事件がないからかもしれない。
人物の描き分け方も物足りない。
企業勤めを経験すれば、
その業界の内幕ものを一つや二つは書ける。
この作品が、そのレベルを超越しているかどうかは
判断の難しいところだ。

林真理子
スクープをめぐっての、新聞社内の駆け引きが
非常にスリリングなのであるが、
「ひと昔前の話」という感はぬぐえない。
新聞が最初にニュースを発するメディアだった頃の話
だろうとつい思ってしまう。

高村薫
エンターテインメントとして過不足はないが、
新聞記者という、今日では少々手垢のついた題材が
小説全体の印象を薄くした。

宮部みゆき
ラストに向かって収束してゆく
長編としてのストーリー展開はこれで充分と思いますが、
個々の短編にもう少しひねりや意外性がほしい。

伊集院静
新聞記者がどんなふうに生き、
どんな考え方をしているのかが見え辛かった。
内情に通じていた作家の捉え方としては
甘いのではないかと思った。



評論『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」╶╴長崎・生月島の人々』  書籍関係

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ユネスコの世界遺産委員会で、
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
世界文化遺産に登録されることが決まった。

元々は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として
登録が目指されたが、
諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が
現地調査の結果、
「禁教令時代に特化すべき」と指摘したため、
2016年、政府が登録申請を取り下げて
構成資産を再検討し、
潜伏キリシタンに価値の焦点を絞る形で
現在の名称になり、
2018年6月30日、
第42回世界遺産委員会において登録が決定した。

この再挑戦の過程で、ある修正がなされていた。
構成遺産のひとつ、「平戸の聖地と集落」に関する記述。
2014年に長崎県が作成したパンフレットでは、
次のように説明されていた。

「平戸地方の潜伏キリシタンの子孫の多くは
禁教政策が撤廃されてからも、
先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。
その伝統は、いわゆる<かくれキリシタン>によって
今なお大切に守られています」

ところが、2017年に作り直されたパンフレットは
次のような記述となっている。

「キリシタンの殉教地を聖地とすることにより、
自らのかたちで信仰をひそかに続けた
潜伏キリシタンの集落である。
(中略、禁教の)解禁後もカトリックに復帰することはなく、
禁教期以来の信仰形態を維持し続けたが、
現在ではほぼ消滅している」

「今なお大切に守られている」ものが、
3年後の資料では、
「現在ではほぼ消滅している」
正反対の表現に変えられているのだ。

広野真嗣の手による本書では、
冒頭でいきなりこの謎を提示している。
この修正の謎を解く鍵となるのが、生月島(いきつきしま)だ。

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東シナ海に浮かぶ生月島は、
人口約6千人の小さな島で、
九州本島からは平戸島を介して橋でつながっており、
今は陸路で渡ることができる。

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この生月島は、
「かくれキリシタン」の組織的な信仰がかろうじて残る
最後のエリアだ。
にもかかわらず、なぜかその信仰は、
「ほぼ消滅」したことにされているのである。

この謎に切り込み、
かくれキリシタンの歴史と変容に焦点を当てるのが本書である。

かくれキリシタンと言えば、
秀吉時代と徳川時代の禁教令により
過酷な弾圧に遇い、
殉教と棄教の強制の中でも、
脈々と信仰を守り抜き、
やがて鎖国が終わり、
ベルナール・タデー・プティジャン宣教師が日本に来て、
大浦天主堂を建築、
1865年(元治2年)のある日の午後、
15人ほどの男女が教会にやって来て、
隠れキリシタンであることをあかし、
「信徒発見」のニュースがヨーロッパで感動と共に迎えられ、
こうして、命を懸けて信仰を守った潜伏キリシタンたちの
苦労は報われたのだった・・・
というのが通説だが、
どうも、そのような感動的な話ばかりではないようだ。

確かに、隠れキリシタンの中には、
カソリックに宗旨替えする者も沢山出たが、
中には、自らの信仰形態を守り、
カソリックに帰依しない人々がいた。
その人たちが信ずる宗教は、
キリスト教とは似ても似つかない
土着の宗教と渾然一体となったものだった・・・

という事実、
その象徴的なものが生月島の人々の信ずる
宗教だ、ということを本書は明らかにする。

ザビエルの渡日400年にあたる1949年、
ローマ教皇特使ギルロイ枢機卿が来日、
日本中にカトリックフィーバーが吹き荒れた時、
ギルロイ枢機卿は日程を割いて
生月島の指導者たちと面会した。
そして、生月島の信仰組織ごとカトリックへの「改宗」を迫るが、
拒否された。
その事実は秘匿されたが、
この件について、当時の新聞などを精査して真相に迫ろうとする姿勢は、
一種の歴史ミステリー。

これについては、
「カトリック教会が“上から目線”で
かくれキリシタンに教義を説くのでは、
反発を招くばかりで、
改宗にはつながらない」
という内部の意見もある

生月島の人々がカトリックに帰依しなかった率は非常に高い。
戦後の段階になっても、
カトリックに立ち返ったのはたった40戸に過ぎなかったという。
島の人口は明治末年の5千人から1万人に倍増したというのに、
カトリック信者の数はさして変わらなかった。
他の地域ではカトリックとの結婚を通じて改宗者も増えたが、
生月だけは違っていた。

生月島の信仰形態については、
詳細な記述があるが、
土俗と共に、生活と密着した行事の数々が
珍奇な様相を呈する。
その一つに「オラショ」という祈祷文のようなものが、
口伝えで伝えられており、
グレゴリオ聖歌とも似ているという。↓

https://youtu.be/LnVjmDKAtc0

中でも、「パライソ寺に参ろうや」という歌は、
遠藤周作「沈黙」の中にも描かれている。

https://youtu.be/xZY7qZXPvIo

しかし、すごいことである。
400年も前、外国人宣教師に教えられた
祈りの文が口伝えで伝えられていたというのだ。

「御親(おんおや)デウスのその御子(おんこ)[中略]
ポリシュペリヤ科下においてはかしゃく(呵責)を受けられ、
クロスかかり死にたもう。
御棺に納められたもう。
大事な坂を下りたまいて三日目によみがえりたもう、
天に上りたもう、万事かないたもう、
御親デウスの御右にそなはりたまいて、
それより生きたる人、死したる人を糺したもうが為に
天降りたまいて」

がオラショの文。
次がカトリックの「使徒信条」の相当部分。

「主は[略]ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、
葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、
生者と死者を裁くために来られます」

ほぼ意味は通っている。
「大事な坂」は「大地の底」と伝わっている集落もあるという。
口伝なのだ。
一カ所間違って伝われば、
間違ったまま伝承されてしまう。

しかも、口伝の際、意味は分からないまま、伝達されていたという。
それを口伝えで伝えなければならないという情熱は
どこから生じたのか。

生月島にまつわる研究の第一人者・宮崎賢太郎教授は、
「潜伏キリシタン」と
「カクレキリシタン」
分けるべきだと主張する。
250年の迫害に耐え、
「信徒発見」後、カトリックに復帰した復活キリシタンと
潜伏時代の信仰の変容を維持し、
カトリックに戻ることのなかったカクレキリシタン
の二つに。

「生きるために仏教徒であることを受け入れざるをえなかった
江戸時代の信徒と、
その必要性がなくなったにもかかわらず、
仏教や神道との関係を維持し続けている、
明治以降、現在に至る信徒とは、
質的にも時代的にも異なっており、
別の名称によって区別することが適切である」
著作を通じて強調されているのは、二つの点だ。
「もう隠れていない」
「純粋なキリスト教ではない」
禁教が解かれ、もう信仰を隠していない。
隠れる必要がないのに「隠れ」とは呼べないから、
カタカナを用いることで「隠れ」という言葉の意味を失わせる。
さらに「多神教的な宗教になっている」ことを理由に
「純粋なキリスト教ではない」と言い切る。


生月島での宗教行事の一つに欠かせない献立に
刺身と酒がある。
これは、キリスト教の聖餐式、
信徒がイエスの肉体にあたるパンを食し、
イエスの血潮にあたる葡萄酒を味わう、
聖餐式が転じたらしい。

筆者と宮崎教授の対話の部分は目を見張る内容だ。
宮崎教授は言う。

「私は信仰というものは、
教義の中身に本質があると考えています。
生月の信仰はたしかに信じられないほど愚直に守られているが、
教義の中身については、
信じられないほど理解されていなかった。
<イエス・キリストの磔刑によって人の罪が贖われ救済される>
という教義があることを知っている人はほとんどいません。
だから中世のオラショがそのまま残されているだとか、
すでに失われたはずのグレゴリオ聖歌が残っているからといって、
<敬虔なるクリスチャンが多数生まれ、
その信仰が受け継がれている>
と理解されるのは問題ですよ。
それはロマンチックだが、<実像>ではありません」

「宣教師の教えに長期間接し、
教えを聞くことができたごく一部の武士層や知識を持った層には
理解されたかもしれませんが、
大部分を占める民衆層で教義を理解できた人はほとんどいなかったと見ています」


確かにキリスト教の教義は難しい。
まず、創造の神を認めること。
その神が「愛の神」だと認識すること。
人類が「原罪」を背負っていること。
その罪を贖罪したのがイエスの十字架であり、
そのイエスを信ずることで救済されること。
いずれも、自らの実存を懸けた決断である。

こんな深遠な思想が
武士階級の知識層ならまだしも、
農民や漁民が理解したとは思えない。
いや、そう言い出せば、
今の欧米のキリスト教信者も
数少ない現代日本のキリスト教信者も、
そこまで深く認識して洗礼を受けてはいない、
とは、ある牧師から聞いた話。

では、当時の信徒たちが
信仰を守るために殉教もいとわなかったのは何故か。
それについては、宮崎教授は、こう答える。

「オラショを覚えるのは、信仰に目覚めたたらというより、
宣教師が持っているメダイのような<呪物>がほしかったから。
熱心に拝んだ人に宣教師が褒美にくれたのです。
日本人の宗教心理にはそうした
<よくわからない秘密めいたもの>をありがたがる傾向があって、
遠い国からやってきた神様のものだから、
より効き目があるように見えた。
そうして手にいれた信仰を捨てることを拒んで殺され、
殉教してしまうのは、
そういう恐ろしい神様を捨てたら、
大きな祟りがくると考えたからです」


おやおや、それは当時の命懸けの殉教者に対して失礼では。

「そして潜伏期に入ると、
ますます宣教師を通じた教理の伝達は難しくなり、
キリシタンという神様の不思議な力への信仰より、
先祖が大事にしてくれたものだということになりかわった。
キリストでもマリアでもなく、
何かわからないキリシタンという名前の何かを
粗末にしたらバチが当たるから
やめられなかったのです」


それで400年もの間続くでしょうか。
それだけの長期、
語り継がれたのは、
その教義内容そのものに力があったから、
と思えるのですが。

生月の信仰集団も、今では風前の灯火だという。
原因は後継者がいないこと。
それは、日本全国どこにでもある
祭りや習俗の継承者不足と同じだ。
今の指導者たちがあと2、30年たっていなくなった時、
本当の終末が来るのかもしれない。

最初の世界遺産登録を巡る長崎県文書の変化の謎だが、
教えの変容についてイコモスに突つかれたら、
説明ができないやっかいな問題になるから、
生月島のかくれキリシタンの存在を
『消そう』とした、というのが結論らしい。
                                        
生月がカトリックに合流しなかった理由を問われて、
子孫の一人は、こう言う。

「先人が代々、明治まで続けてきたものを
引き続きやろうと思ったからじゃなかですかね。
自分たちが続けてきた信仰が伝統のキリシタン。
明治に来たのは新しい宗教で、
“ローマ教会に戻る”という感覚はなかったと思います」


ある神父は、こう言う。

「生月の人たちが洗礼を授け伝えてきたものが、
彼らの生活を支え、
行き詰まったときに人生の救いを見出すことができるならば、
過酷な歴史の中で別れてしまったものも、
それとして捉えることはできると私は思う。
もしかしたらね、彼らの方が、
教会が置き忘れてきたものを持っているかもしれいな」


「純粋なキリスト教」とは言っても、
イエスの時代から変容を遂げているに違いない。
カトリックの教義にしても、
何度も公会議を経て決定してきたことだ。
つまり、組織が決めたものだ。
それが正しいか、正統か、
などはイエスその人以外には分からない

重要な問題に切り込んだ労作で、
第24回小学館ノンフィクション大賞受賞作

最後に、余談だが、
ブロードウェイ・ミュージカルに
「ブック・オブ・モルモン」というのがあるのをご存じだろうか。
モルモン教の伝道師たちが世界中に派遣されて、
アフリカのウガンダに行った伝道師が成果を上げる。
そこで本部から、視察に行くと、
信者たちはモルモン教の教えとは、
曲解、勘違い、思い違い、珍解釈ばかりしていたので、
本部の人が頭を抱える、というお話。
ブロードウェイの大ヒット作で、
今も上演されている。


小説『じっと手を見る』  書籍関係

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富士山の見える地方都市。
25歳の介護士の日奈は、
祖父が死んで一人になった時、
面倒を見てくれた海斗と同居するが、
好きになれず別れ話を切り出す。
そんな時、出身専門学校のパンフレット作成で
東京からやって来た編集プロダクションの宮澤を好きになり、
肉体関係も生ずるが、
会社の運営に失敗した宮澤とは一旦別れる。
宮澤が東北の地方都市で営業マンになると、
押しかける形で同居し、
しかし、宮澤は東京から手を差し伸べた妻と共に元の鞘に収まる。

一方海斗は、日奈を失った傷が癒えないまま、
同僚の年上の介護士の畑中と関係を持ち、
やがて同棲生活に入る。
畑中は前夫から息子の裕紀を押しつけられたが、
海斗は裕紀が普通の子供ではないことに共感し、
畑中と結婚しようとするが、
畑中は別の男と共に東京に去ってしまう。

日奈は元の町に帰るが、
道路拡張計画で祖父と住んでいた家を手放し、
その家が取り壊される時、
海斗に一緒に立ち会ってくれるように依頼する・・・

というような話を7話の短編連作形式で綴る。
それぞれの章で、視点が変わり、
日奈→海斗→真弓→日奈→宮澤→海斗→日奈
4人の語り口で7つの物語が語られる。
最初の話から最後の話までの間に6〜7年の歳月が流れ、
それと同じように、
2011年から「GINGER L. 」に不定期連載で4回、
「小説幻冬」に3回、2017年まで不定期連載したものを
2018年4月に単行本化。

どの登場人物も心の中に空洞を抱えており、
人を真剣に愛することが出来ない。
愛しても逃げられる。
その孤独に煩悶しながら、
生活を営んでいる。

日奈も海斗も畑中も介護士なので、
その大変な仕事ぶりも細かく描写される。
要介護の老人を世話する仕事だから、
過酷なわりに報われるものは少ない。
老いて死に向かう老人たちを世話をすることで
自分の生活を確保していくことが罪悪感にさえなっている。
なにしろ、介護士になった動機が、
「食いっぱぐれることはない」という理由だというのだから。
日奈も海斗も真弓も
世話するべき肉親を身近に抱えているし、
その死が影を落とす。

介護施設の中での畑中の述懐。

夜明けが近くなると、
もう眠れなくなってしまった人たちが、
ゾンビのように廊下を歩き出すことがある。
ベッドの中にいられないんだろう。
天井だけを見ていることがつらいのだ。
目が冴えて、今まで生きてきたいろんな記憶とか、
喜びとか、後悔とか、
そんなものが波のように押し寄せてくるのは、
さぞかしつらいことだろう、
とも思う。


また、こんな描写もある。

できることが増えていくのが成長で、
できないことが増えていくのが老化なんだと、ふと思う。


どの登場人物の抱える孤独も、
理解は出来るものの、共感は出来ない
誰かに依存しなければ生きていけず、
人と心を通い合わせて生きていけない。
そして、迷い、求め、得て、失って、また求めて、繰り返す。
その原因は本人の心の中にあって、
閉塞感も自分が生み出したもののような気がする。
そういう性格が自ら不幸を呼び寄せているような気がしてならない。

宮澤が日奈との生活について思うこと。

(日奈と)いっしょにいる時間が増えれば増えるほど、
自分の気持ちは倦んでくる。
自分はそういうどうしようもない人間なのだ、
と軽自動車を運転しながら思った。
自分のテリトリーを侵されることに、
どうしてこんなに嫌悪感を持つのか。


登場人物たちの心情は基本ネガティブで、
もっと気楽に前を向いて生きていけないか、
と思うのは小説の読み方としては間違っているが、
読めば読むほど息がつまって来るような気分になった。

日奈の述懐。

もう自分は一生、人を好きになることがないのかもしれないと思う。
そのことに危機感すら抱いていない。
同僚から誘われた合コンにも行かなかった。
そこで誰かと出会ったり、
好意を持ったり、反対に持たれたり、
という状況がいやだった。
誰とも深くかかわりたくない。
それが本音だった。

                                        
日奈たちが住む町も、
宮澤が逃れた町も
ショッピングモールとフードコートがあり、
そこだけが住民の息抜きの場となっている。

題名は、石川啄木「一握の砂」を想起らせるが、
それとの関わりについては、記述がない。

著者の窪美澄は、
才能は感じられるが、
この人の作品を続いて読む気は起こらない

そういえば、この人の代表作とされ、
映画にもなった「ふがいない僕は空を見た」も前に読んだが、
このブログでは、
「若い女性ならいいかもしれないが、
大の男が読める本ではない」
一蹴
やはり、そうだったか。

先の直木賞候補にならなければ、
決して手を出さない小説。
直木賞の選考会では、第1回投票では1位だったという。
結果としては、受賞を逃したが、
いつか受賞する日は来るに違いない。

選考委員の評は次のとおり。

北方謙三
最初の三作に、日常を非日常に変えるほどの熱量を感じ、
後半ではその熱量が低下しているように感じた。
恋愛の終りに日常が剥き出しになるのは、
私の考える小説的醍醐味には欠けていた。

宮城谷昌光
こういうおとなしい小説は、
その底にとてもない勁さを秘めているものだが、
理法を超えて読み手を瞠目させるほどのすごみは出現しなかった。

浅田次郎
まったくその表題通りに、
働けど楽にならざる苦労を描いた佳品である。
そのテーマのシンプルさゆえに
小説のダイナミズムは欠くのだが、
舞台設定が自然で登場人物もよく練られており、
完成度はすこぶる高かった。
おそらく作者には清貧の世界観があるのだろう。
そうでなければ、理不尽な苦労をかくも清潔に描けるはずはない。

桐野夏生
達者な作品だと感心して読んだ。
地方都市に生まれ育った若者たちの、
どこにも行けない閉塞感。
その諦めの有様がうまく書かれている。
最近、よく見聞きする介護士の若者たちの起こす事件は、
彼らの何かの噴出である。
その噴出が感じられないだけに、
物語を作っている感が否めなかった。

東野圭吾
つい最近まで父が介護施設に入っていたこともあり、
親近感もあった。
なぜこんな魅力のない人間にこんなに惹かれるのか、
との疑問は愚問だと思わせる力が文章にあった。
しかしこのクラスの作品は世に溢れているような気もする。
特にこの小説が抜きん出ているようには感じなかったので
△とさせていただいた。

林真理子
東京に近い地方の街で、
介護士をしている女性とその恋人を描いたものだ。
絶望もしていなければ、
この街を出て行こうという強い野心もない。
ほどあいがまことによい書きっぷりで、
読後感がとてもよかった。
しかし不倫をする東京の男の独白はいらないと思う。

高村薫
文章がいい。
初回投票で最高点だったとおり、
等身大の人間の身体と感情と生活が
一つの小説空間をつくっており、読後感がよい。

宮部みゆき
この作品は、介護士ではなく、
介護士の日奈と海斗をとりまく五人の男女の
『ふぞろいの林檎たち』なのだなとわかると、
そこからはぐいぐい引き込まれました。
決選投票で敗れましたが、それは時の運で、
受賞してもおかしくない作品だったと思います。

伊集院静
今回の候補作の中でおそらく一番の支持を受けるだろうと思った。
特に「よるべのみず」は読後に苦くて酸っぱい感情が湧き、
ひさしぶりにこころを動かされた。
ただ私には大半の小品が、
小説というよりルポを読まされているように思えて推すことができなかった。


小説『死の島』  書籍関係

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出版社で編集者として勤務し、
65歳で定年を迎えたあとは
カルチャースクールで
小説創作講座を教えていた澤登志男(69歳)。
3年前に腎臓がんで手術を受けたが、
最近、転移が発見され、
余命いくばくもないことを知る。
そんなこともあって、カルチャースクールを辞めた数日後、
かつての恋人、三枝貴美子の妹・久仁子から電話があり、
ごく最近、貴美子がガンで63歳で亡くなったことを告げられる。

貴美子とは、澤が44歳、貴美子が38歳のときに出逢った。
その頃、澤には妻と娘がいた。
澤は48歳のときに女性問題で離婚し、
娘の美紀は澤を憎み、交流はない。
離婚後に貴美子と結婚する道もあったが、
その時には情熱が失われており、
貴美子とも別れてしまった。

貴美子は、生涯独身で、
膵臓癌が発見されてからも、
治療は全て拒否し、
在宅訪問看護を受けて鎮痛剤を投与してもらい、
自宅のベッドで、眠るように息を引き取ったという。
久仁子は遺品整理をしていたときに、
「自分が死んだら、澤登志男さんに渡してほしい」
というメッセージが添えられた一冊の本を見つける。
久仁子から受け取ったその本は、
「ベックリーン 死の島」という、絵の解説書だった。
「死の島」の絵に、澤は魅了される。

この貴美子との思い出と「死の島」の絵との話に、
カルチャースクールの教え子で、
澤を崇拝する若い女性・宮島樹里との話がからむ。
樹里はスクールで「抹殺」という小説を書き、
普段褒めない澤に褒められた経験を持つ。
実は、その小説は、
樹里の母と祖父との禁断の情交を扱ったものだった。

次第に近づいていく澤と樹里。
しかし、澤には、自分の人生を終わらせる、
ある計画があった・・・

というわけで、死を宣告された初老の男と
家族の間の不倫に悩む若い女性との交流を描く。

69歳という年齢が近いこともあり
(なにしろ、小説の中の誕生年が私と同じ)、
死の宣告を受けた男性の内面を興味深く読んだ。

澤はインテリで、
プライドが高く、
編集者という観点から
やや人生を皮肉にしか見れない人物。
終末期における感謝の有効性などに疑いを持ち、拒否する。
友人もなく、家族もなく、
その上生活感がなく、
小説の登場人物としては、
ちょっと現実味に欠ける

小説の中に登場する「死の島」という絵も、
ネットで調べたら、
随分、小説を読んで想像していたものと違っていたので、
意外だった。

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                   (バーゼル市立美術館所蔵)

「死の島」は、スイス出身の画家
アルノルト・ベックリン(1827〜1901年)の代表作。
暗い水辺の向こうに浮かぶ荒廃した岩の小島を描いており、
小さな手こぎの舟が島に向かっている。
舟には、白いものですっかり覆われて立つ人の姿があり、
そのすぐ後ろには花綱で飾られた白い棺のようなものがある。
狭い小島に広がるのは、高く、暗い糸杉の木立であり、
岩壁に穿たれた墓所と窓も葬送の主題に属する。
多くの人が、船のこぎ手を
ギリシア神話において
死者の魂を冥府へと案内するカローンと解している。
白で覆われた人物は死後の世界に連れて行かれる
亡くなったばかりの人間の亡霊となる。

ベックリンは1880年から1886年の間に
この謎めいた主題の絵を繰り返し描いており、
作品はそれぞれ少しずつ異なっている。

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                    (メトロポリタン美術館所蔵)

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                       (ベルリン美術館所蔵)

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                  (ライプツィヒ造形美術館所蔵)

フロイト、レーニン、クレマンソー、ヘッセらの共感を呼び、
中でもアドルフ・ヒトラーがこの絵を好んだ。
ラフマニノフ交響詩「死の島」を作曲している。
聴きたい方は、↓をクリック。

https://youtu.be/rBg3xY2s5GE

ベックリンは、後に「生の島」という絵も書いている。

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                    (バーゼル市立美術館所蔵)

また、自死を選んだ有名人の死も背景にある。
ヘミングウェイ、川端康成、三島由紀夫、
中でも江藤淳の死の際の次の遺書も重要な役目を果たす。

「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。
脳梗塞こうそくの発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。
自ら処決して形骸を断ずる所以ゆえんなり」

69歳という若さで死の宣告を受けた
あるインテリの苦悶。
いずれにせよ、
死は避けられない。
ならば、いかにその時を迎えるか。
生きている人間にとって永遠の課題が突きつけられる。

そういう男にとって樹里の存在が救いとなるわけだが、
何だか都合がいい感じがする。
なにより、長年の編集者の仕事の中で
一人の親友も持つことができなかった澤という人間性が
自業自得だという気がする。

澤については、筆者自身がこう書く。

これまで、思想だの文学だのを利用するだけ利用して、
青臭く論陣を張ってきた。
つまらない意見を吐かれたら、
その場であっさり論破し、
皮肉な笑顔を向けてきた。
好き嫌いが烈しかった。
人間のえり好みが病的に徹底していることは、
彼自身、よくわかっていた。
優しい人間であるかのようにふるまうことは
いくらでもできたが、
彼の中には常に冷酷と非情があった。
それらを彼は、日毎夜毎、
酒を飲むことによってなだめすかしてきた。
飽きることなく肺の奥に送り込み続けてきた煙草の煙も、
尖ったものを和らげるために、
三度の食事よりも必要なものだった。
長い間、頭の中に、
常に大量の血を送り込まなければならないような
生き方をしてきた。
怒りと苛立ち、不満と嫌悪、皮肉が彼を支配していた。
血管は常時、膨れあがり、爆発寸前になっていた。
その結果、細胞に病変が生じた。
悪性化し、取り返しがつかなくなった。
刻々と死が近づいていた。
自業自得とはまさにこのことだった。

その結果が、親しかった人たちとも連絡が途絶え、
マンションの一室にこもって、
過去をたどり、
死の方法だけを考えるような終結点を迎えるのである。

その死への対決も
インテリの傲慢のようにしか感じられなかった。
なにしろ、澤のしたことは、
2人の真摯に対応した医師を裏切り、
それどころか、だますことさえしているのだ。
貴美子のように尊厳死という方法もあるのに、
わざわざそうでない行為は
知識人の頭の中での考察だけだったような気がする。

主人公がもう少し、
世間との関わりの深い人物であれば
共感を呼んだかもしれないが。

それと、69歳にもかかわらず、
自ら「老人」「老いぼれ」と
自分を呼ぶのも気に食わなかった。

                                        
さて、同年齢の私だが、
さいわい、体には悪いところがない。
しかし、どんな人にも死は訪れるわけだから、
やがて、その時を迎える。
その時にどうするかは、
澤の立場に立たなければならないと分からないだろう。

分からない世界のことを描いたこの小説。
参考にはなるが、共感は生まれなかった。

表紙の装画は山本六三「ノスタルジィを見つめるスフィンクス」

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連作短編集『おやすみ、東京』  書籍関係

[書籍紹介]

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12の章で構成された、連作短編集。
どの章も「時計が1時を打った」等の一行で始まり、
深夜の東京の一隅での出来事を扱っている。
登場人物は一つの章から次の章に引き継がれ、
やがて交差し、関わり合い、結びつき、
全体で一篇の長編小説の趣を呈する。

登場人物は、
映画会社の小道具係の沢渡美月、
深夜タクシー<ブラックバード>の運転手松井、
都の<カラス対策プロジェクト>のスタッフで新聞配達の浩一。(美月の恋人)
「東京03相談室」オペレーターの冬木加奈子、
不要電話回収業者のモリイズミ、
昔俳優だった父の映画を探して観ている探偵の田代(シュロ)、
深夜食堂<よつかど>を3人の友人と開いたアヤノ、
小道具倉庫番でバーテンになる前田、
俳優としてデビュー間近のハルカ、
俳優仲間11人で寮生活をしている栄子、
深夜道具屋のイバラギ、
アメリカで轢いた犬の供養をする監督、
映画館の雑用係の冬木蓮、
などなど。

お互いに捜し合ったり、
もう一度会いたい、と思ったりしている。
物語の中で知り合い、惹かれあう者もいる。
それぞれがジグゾーパズルの最後のひとかけらになったりする。

たとえば、第一章「びわ泥棒」で、
沢渡美月は、撮影に使われる小道具として
びわを朝までに調達するように命じられる。
こんな時頼りになる深夜タクシーの松井と共に探し回るが、
季節外れで見つからない。
カラスの動向によりびわの生えている場所を知っている浩一の情報で
その場所に行くと、先客がびわを盗んでいた。
それが冬木加奈子で、
第2章「午前四時の迷子」は加奈子の話になる。
〈東京03相談室〉でオペレーターが混み合った時に自動応答する
留守専用機を廃止することになり、
回収業者のモリイズミと出会う。
次の第3章「十八の鍵」は、
深夜タクシーの運転手松井は、
過去に住んでいた部屋の鍵を十八個持って、
順番に訪れている客を乗せる。
その青年は、脇役専門の俳優だった父が
唯一主演した作品が深夜に限定上映されるということで、
映画館に行くために松井の運転するタクシーに乗ったのだった・・・

という感じに、
前の章の人間が後の章にも登場して、
前の章で呈示した課題を回収していく。

そういう意味でウィットに富んだ作品で、
深夜の東京という舞台がよく栄える。

角川春樹事務所のオンライン小説
Webランティエに連載。

作者の吉田篤弘は、
作家でもあり、デザイナーでもある。
装丁も作者本人がしている。

映画にしたら面白いだろうな、と思われた。





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