小説『ふたご』  書籍関係

[書籍紹介]

クリックすると元のサイズで表示しますふたご

題名は「ふたご」だが、
双生児の話ではない
登場する男女の関係がふたごのよう、
あるいはふたごであったら、
または、ふたごでありたい、
というような重層的な意味あい。

物語の始まりの時は、
二人とも中学生。
西山夏子と月島悠介。
ただし、月島の方が一学年上。

その中学から高校までの二人の交流を描くのが第一部。
夏子はピアノをやっている。
月島は高校に進学するが、適応できずに中退してしまう。
父親の勧めでアメリカン・スクールに入り、
その後、アメリカに留学するが、
パニック障害に陥り、
2週間で帰国。
「注意欠陥多動性障害」と診断され、
精神病院に入院する。
その間の月島への思いが夏子の独白でつづられる。
一貫しているのは、
月島に翻弄される夏子の姿。
しかし、二人は離れられない。
それが「ふたご」のゆえんか。

私はこの時代の思春期の悩みに
共感する年齢ではないので、
観念的で幼稚な二人の会話は、読んでて辛かった。
「そんな悩みは時間が全て解決してくれる」
と思うので。

月島の症状も、半分は甘えに裏打ちされたもので、
勝手にしろ、という感じだった。

闘病する月島を見守る夏子の気持ち。

骨折を素人が治せないように、
精神の病気も素人が治すことは出来ない。
私が出来るのは、月島が抱える問題を「病気」だと思うことだ。
骨折した人が速く走れないのは、性格の問題ではないということ。
盲腸の人がご飯を食べられないのは、趣味の問題ではないということ。
そう思うことで結局誰よりも救われるのは私なのかもしれない。


そして、第1部は、次のように締めくくる。

生まれた場所も、見てきた景色も、同じだ。
苦しみも哀しみも、共有出来る。
そう信じてしまった私たちが
再び月島悠介と西山夏子とという
二人の人間へと分離することは、
無理やり身体を引き裂かれるような痛みを伴った。
自分たちはふたごのように、
全てを共有することなんて出来ないと分かるまでに、
何年費やしたのだろう。
どうしてこんなに苦しまなければならなかったんだろう。
もう私たちが本当にふたごだったら、
こんなに苦しむこともなかったはずだ。


第2部は、第1部と様相が一変する。
夏子は音楽大学に進学し、ピアノを弾く毎日。
月島は退院後、塾や予備校に通っても、
最後までやり遂げられない。
そのうち、月島がバンドをすると言い出し、
2人のメンバーを集め、最後には夏子もバンドに参加する。
夏子は自分の事情があるのに、月島には逆らえない。
元印刷工場をライブハウスに改装し、
練習し、演奏する共同生活の毎日。
無計画で行き当たりばったりの行動に
読んでいて辟易させられる。
しかし、ライブハウスで歌った時、
スカウトを受け、デビューすることになる。
そんなうまい話はないだろう、
と思ったら、これほぼ実話なのだった。

著者が4人組のバンド、
SEKAI NO OWARIのピアノを担当している
藤崎彩織(ふじさきさおり)という人だと知ったのは、
読み終えてからだった。
で、調べてみると、
月島とは、ボーカル担当の深瀬慧(ふかせさとし)のことだと分かる。
1学年離れていることも、
深瀬が高校を中退してアメリカンスクールに行ったことも
アメリカ留学を2週間で帰国し、
精神病院に入院したことも、
バンドを組んで、ライブで音楽事務所のスカウトにあったことも、
全て事実だった。
つまり、この本は著者の自伝的小説だったということだ。
もちろん創作も加えられているだろうが、
大筋は事実をなぞっている。

つまり、私小説
それで描かれていいる世界が
リアリティはあるものの、
深みがないことが理解出来た。
筆は立ち、感性も鋭いが、
自叙伝を読まされた感が強い。
つまり、小説としては出来上がっていないのだ。
バンド活動だって、日の目を見たからいいが、
普通なら、意欲だけ空回りの失敗物語だ。

ただ、SEKAI NO OWARIは、
武道館コンサートを成功させ、
海外にも進出しているという。

↓You Tubeで聴いてみたところ、
彼らは才能はあるようだ。

https://youtu.be/Q54iJmrKBsA

しかし、中学・高校・大学という
未完成な人間の未完成な悩みを描いた本作は、
私には面白くは感じられなかった。

それでも先の直木賞の候補になり、落選。
選考委員の評は厳しい。

桐野夏生
好きな相手に、
「自分たちは、恋人でもなく、友達でもなく、『ふたご』である」
と規定された主人公。
この依存関係をもっと突き詰めたら面白くなったかもしれない。
しかし、バンドの成功話によって、曖昧になってしまった。

北方謙三
小説的なフィルターを通さないまま書き綴ったというところが感じられ、
それが前半の稚拙さを際立たせてしまった。
ただ作中で、登場人物たちは少しずつ成長を遂げ、
それを描く作者も成長しているという、不思議な感慨を持った。

林真理子
とまどった。
ところどころみずみずしい感性は見られたものの、
まだ小説には昇華していない。

東野圭吾
若者たちの心をスマホから引き戻せるとしたら、
もしかしたらこういう小説なのかなと思った。
しかしそれは単なる褒め言葉ではなく、
わかりやすくて低刺激であることを指摘した苦言でもある。
いずれにせよ、自伝的作品かつデビュー作となれば、
これ一作で作者の才能を推し量るのは無謀というものであろう。

伊集院静
数ページ読んだ時、
あっ、もしかして私が待っていたものを、
この人は背中に背負って、若いいっときを生きてくれていたのでは、
と胸がときめいた。
正直、その時、私は作者が世間で名が知れた音楽のお嬢さんとは知らなかった。
ただ読み進めて行くうちに、おや、どうしたのか、という状況があらわれた。
この人はまだ、文学、小説がこんなに素晴らしいものだと、
彼女がピアノを習得する上で感じた先達の名曲、
すなわち名作と対面していないのではと思った。

宮部みゆき
文章の随所に光るものがあるのは、
他分野の書き手だからこそ「ツールとしての文章」に
こだわったからだと思います。
周囲の期待に慌てずに、
じっくりと次の作品を書いていただけたらと思います。

浅田次郎
「才能のありそうなダメ男」は、ものすごくモテるのである。
しかしどうやら作者はそうした当たり前の関係を、
何か特別な恋愛の形だと思いこんでいるらしく、
大人の読者はみなそのことに気付いたとたん
投げ出したくなったであろう。
少くともそれくらいの大人の小説に候補作を絞るというのは、
文学賞の見識ではあるまいか。

高村薫
題材を用意してみたものの、
それを小説に仕立てる手つきが小説家のそれではない。
個人的な関心事を連ねただけでは内輪のブログにしかならない。

宮城谷昌光
読みはじめてすぐに、この人には非凡なものがあると感じた。
この作者は、否定形がつかえる。
そこが非凡である、というのは少々飛躍しすぎた説明であるかもしれない。
しかしたとえば、私は男である、と書くところを、
私は女ではない、と書いたらどうであろうか。
この「ない」を書ける作家は多くなく、
ほとんどの作家が肯定形を終始させて小説を書いている。
この小説にある清澄感と誠実さには好感をもった。


ようやく、前回直木賞の候補作5篇を読了。
順番をつけると、
                                        
1位 門井慶喜「銀河鉄道の父」[受賞作]
2位 澤田瞳子「火定」
3位 彩瀬まる「くちなし」
4位 藤崎彩織「ふたご」
5位 伊吹有喜「彼方の友へ」

直木賞候補作のレベルが落ちていることを感じる。

それぞれの感想ブログは↓をクリック。

銀河鉄道の父

火定

くちなし





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