近藤前理事長の葬儀  

近藤金治前理事長の葬儀のために
田無に直行。

昨夜の寒さに懲りた事務局長は
ホカロンとタイツの重装備で登場です。

N青年部長もそうらしいのですが、
事務局長はズボンの下には何も着ない派です。
(あ、パンツははいてます。)
子供の頃、一冬だけモモヒキをはかされたことがありますが、
こんなバレエダンサーみたいな気持ちの悪いもの、
男が着ていられるか、
と以後はいたことはなく、
ステテコも、その名前からして滑稽なので、はいたことなく、
我が家は購入したことがありません。
どうも下半身に熱があるらしく、
寝る時も足首は布団の外、
事務所は真冬でも裸足にサンダルです。

しかし、多摩方面は都心に比べ3度ほど低いようで、
昨夜は受付で震えあがり、
風邪をひくよりはマシ、とタイツを着けました。
(ももひきもステテコもないのに、
なぜタイツがあるのか、謎です)

にもかかわらず、
この日の田無方面は
風もなくポカポカと暖かく、
拍子抜けでした。

葬儀は滞りなく進み、
喪主の息子さんの挨拶も
よくまとまっていて、
父親への誇りと心情にあふれ、
立派でした。

その後火葬場までお供しました。

亡くなった翌日、
ご自宅を訪れて対面した時、
事務局長の中では
お別れは終わったつもりでおり、
一応日本男児なので、
昨日今日は、
人前で涙を見せないつもりでしたが、
火葬場で不意打ちをくらいました。
最後に棺の蓋をずらした時、
ブログが入っていますよ」
と教えてくれた方がおり、
見ると「今日の食肉組合」と書かれた
一昨日のブログ。
5年前『東京食肉新報』に掲載された
「近藤理事長の来た道」の記事を
ブログに再録したものが
プリントアウトされて、
近藤前理事長の胸のあたりに置かれていたのです。
どっと涙があふれ、もういけません。
とても恥ずかしい姿をさらしてしまいました。

お骨あげ、寺に戻ってのお清めを経て、
事務所に出たのは午後4時半でした。
ものすごく疲れており、
珍しく栄養ドリンクを途中買って飲んだほどです。
今日中に郵送しなければならない書類がありましたので、
それを作り上げました。

昨日のブログでは
組合を王国になぞらえて見えた光景を書きましたが、
今日の先王の葬儀で、
何だか、一つの時代が終わったような気がいたします。
先王の治世を引き継いだ現王も
役員定年制により5月で退き、
新たな王の時代が来ようとしています。
新王に4年間仕えたら、
執事は職員定年制で王国を去ることになります。
あと4年。
長い。
でも、実際はあっという間でしょう。
その時まで健康に気をつけて、
精一杯励むつもりです。


近藤前理事長の通夜  

午後、芝浦の重鎮の叙勲祝賀会の準備会議があり、
そこで、事務局長が編集した競馬レースのビデオの試写
祝賀会当日のオペレーションはホテルの方でするので、
出来上がったDVDをホテル側に渡し、
これで無罪放免です。

夕方から近藤金治前理事長の通夜へ。

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祭壇は↓ご覧のように、立派にできました。

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写真からはみ出て、
左右にまで生花が並んでいます。
中には、
「えっ、あの方から花が。
お知らせしていないのに」
などと目を見張るものもありました。
業界紙に訃報が載った効果でしょうか。
現職でない方の葬儀は寂しくなるものですが、
引退して4年たってなお、
関係方面各団体からの誠意ある対応が目立ったのは、
やはり故人の人徳というものでしょう。

5時半から7時まで食肉組合関係の受付を担当。
事務局長が受付に座っていて驚いた方もいましたが、
前理事長のお見送りですので、当然
これが最後のご奉公のつもりです。

そこで見ていて、
先王の死を悼む諸侯が続々集まって来る光景に見えたのは、
最近「リア王」を観たからでしょうか。
「〇〇公、到着」
「〇〇伯爵、来場」
「隣国王の使者来訪」
と次々と名が読み上げられる光景を見るようです。
先王に仕えた執事の立場に立つ事務局長は、
その御代の3年半を振り返りつつ、
王国の将来について想いを馳せました。

近藤一夫理事長 (同姓でややこしいが、親戚ではありません)に
王国を引き継いだのが4年前。
その王位継承の儀式
お台場で開催された全肉生連東京大会の場で行われました。
「近藤から近藤へ」というフレーズのもとに
壇上に並んだ二人の姿に
各県の王(各県組合の理事長)たちは拍手を送りました。

それから4年。
前王のなし遂げた改革 (役員定年制の導入や仕組債の資産運用) の耕しの上に
花が開き、豊かな実が成り、
新王の治世で国 (東京食肉組合) はかつてないほど繁栄し、
民 (組合員) はその恩恵を享受し、
諸外国 (各県組合や各団体) に驚きを与えています。
先王は2年間、諸侯会議(常務会)に出席して
後見人をつとめた後、
2年前、完全に退き、
新年賀詞懇親会、暑気払い、忘年会にのみ出席して、
その後の諸侯たち (常務会メンバー) が
新王のもとに団結している様を嬉しそうに見ていました。
やがて病に倒れ、
新王と執事が訪ねた最後は昨年初夏。
病の床から二人の顔を見上げて
嬉しそうに笑っていた顔を執事は今も覚えています。

外国遠征 (台湾での理事・支部長会) に同行していただけなかったのは、
かえすがえすも残念でした。

国 (組合) の将来については何の心配もしていなかったでしょう。
その3年半の治世の記録は
国の歴史 (50周年記念誌) に刻まれています。
王国第6代の偉大な王
を悼む行事 (通夜と告別式) は明日も続きます。


近藤前理事長のこと  

本日は予算編成会議で、
三役8名が集まって審議しました。
1月末から2月末にかけて5つの部会で立案した内容の集大成。
今年度は50周年記念事業のオンパレードでしたが、
新年度は通常年に戻っての落ち着いた年となりそうです。

生衛組合は大きな変化があります。
今まで生衛組合を支えていた団体保険の手数料が
収入どころか持ち出しとなり、
組合の助成事業として保険を運営するという
大変革が行われました。
その結果、加入促進関係の事業をせず、
周知徹底と円滑な集金で
組合員であるメリットを感じていただく事業となります。

組合員であるメリットといえば、
年度末豚肉供給がキロ290円という破格の値段で、
今日の段階で1350箱。
1組合員1箱の制限付きですから、
1440名の組合員の94パーセントが参加。
今は豚が高値なので、
助成額は2千万円くらいになり、
50周年最後を飾る事業となりました。

近藤前理事長の訃報が速報業界誌に載りましたので、
あちこちから問い合わせがあり、
香典を持って行ってほしいとの依頼もありました。
現職ではありませんので、
広く通知はしませんでしたが、
ありがたいことです。

近藤金治前理事長については、
5年前の理事長時代、
「東京食肉新報」に掲載された記事があるので、
それを再録します。(読みやすく改行してあります)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆

近藤理事長は大正12年、新潟県の長岡市で生まれた。
家は半農の家畜商。
ルーツはまさに深く食肉業界に根ざしている。

20歳の時、徴兵により満州の陸軍教導学校へ。
昭和19年という日本軍の敗色濃い中での渡満。
その後に過酷な運命が待っているとは思ってもいなかった。

 シベリア抑留の体験

翌年下士官として部隊に配属。
牡丹江で終戦を迎えた。
その直後日ソ不可侵条約を破って、ソ連軍が侵攻、捕虜となった。
「この時は、もう生きて日本に帰れるとは思わなかった」
暮れの30日に凍った黒龍江を徒歩で渡り、
貨物列車で運ばれたところはバイカル湖南のラウンノディ。
先行きの見えない旅だったが不安がなかったのは、
戦友と一緒だったからである。
収容所には2千名の日本兵がおり、
食べ物は殻のついたままの雑穀で、
食べるとおこしのような便が出た。
日本の食べ物がなつかしく、その話題に時を忘れることもあった。
炭鉱での労働、伐採、石切り、山を切り崩しての鉄道作り。
寒さと凍傷、飢えとの闘いだった。

 帰国と高度成長

シベリアには足掛け3年いた。
再び汽車で運ばれハバロフスクから出航した時には
樺太で働かされると聞かされており、
陸地が近づいて来た時にも、みんなそう思い込んでいたが、
船が終始南を指していたことと若狭湾を見たことがあったことから、
理事長は「いや、違う、ここは日本だ」と叫び、
その途端、歓呼の声が船にあふれたという。
昭和22年11月25日のことである。

故郷に帰って姉夫婦がしていたガラス工場に勤め、
結婚、1男1女をもうけた。
転勤で東京に出たものの、
プラスチックの台頭でガラス産業が凋落、
日暮里にある食肉販売店で営業マンをした後、独立。
昭和41年、田無の今の場所で新規開店
した。
この時理事長43歳。
高度成長の真っ只中で、店を開ければお客が来た好況の時代である。
しかも隣接してひばりが丘団地が出来たのが幸運だった。
当時最先端だった団地も今は古くなり、高層化の立替えの真っ最中だ。
このように、理事長の歩んだ道は戦後日本人が歩んだ現代史そのまま、
いわば生き証人である。

 荒波での理事長就任

加入した組合の当時の田無支部は、
今の東久留米、小平、東村山、保谷の各支部を包括した
2百数十人の大支部であった。
組合の役員には昭和53年になり、
57年には常務理事として事業部長などを歴任、
平成4年専務理事を経て8年には副理事長に。
12年秋天井前理事長が亡くなった時には、年長の先輩もおり、
「まさか自分が指名されるとは思わなかった」
というのが実感だった。

理事長就任後は大変な波風をかぶることになる。
千代田生命が破綻して年金加入組合員に被害が及びその対応に忙殺された。
被害者からの抗議も激しかった。
最終的に、
カットされた10%の3分の1を「見舞金」として支給することになったが、
生衛組合資産の5分の1を支出する大英断である。
それも後で「少しでも戻ったのは組合のおかげだ」との
感謝の言葉に報われた思いがした。

その翌年には業界で百年に一度の大事件が起こる。
BSEである。
組合員店舗での牛肉売上が5分の1にまで低下する中、
農水省の施策は買い上げ制度など卸業者には及んでも
小売店までは届いて来ない。
誰も助けないなら、自ずからやろう、ということで、
全組合員に対して10万円ずつ総額2億円を
「災害見舞金」として提供
するという決断は世間を驚かせ、
マスコミに報道された。
その時、
「東京だけそんなことをしてくれては困る」
などという雑音には耳を貸さず、
果敢に実施した。
輸入牛肉の枠があった時代の利益を山分けせずに貯めておいたものだ、
誰にはばかることはない、
組合員が苦しむ今こそ使う時だという信念があったからだ。
この時も後で寄せられた
「組合に入っていてよかった」という喜びの声が支えとなった。

これ以外にも、現状に合った理事数の減員
赤字体質改善に向けての外国債券による資金運用
新陳代謝のための本部役員の年齢基準の導入など、
それまで手につかなかった改革を次々になしとげた実行力は
高く評価されている。
「別に私がしたわけではなく、みんなが知恵を出し合った結果だよ」
と本人は言うが、
「この人のためには力を貸したい」
と思わせるものが理事長の中にあることは確かで、
提案を受け入れ実行する懐の深さと、
トップとしての決断力
がなければこのようなことは前に進まないものである。
「次の人が新しい発想で組合運営をしていくために、
できれば自分の時に、問題点を整理しておきたいと思った」
という考えが決断を進めたのだろう。

 組合事業への参加を

後継者不足は組合員共通の悩みだが、
理事長の家では息子の正之さん(50)が
食肉学校を卒業して店を引き継いでくれたので、
組合活動に専念できる。
「組合に出掛けて行く時の親父は、なんとなく嬉しそうだ」
というのが正之さんの弁である。

現在、全肉生連や全肉連等全国団体の副会長の要職も務めているが、
物静かでありながらいざという時は主張する人として一目置かれている。
理事長として組合員に望むことを聞いた。
「組合の事業を活用してほしい。
食肉共同購入事業に積極的に参加してもらいたいし、
組合の団体保険の加入は必須。
会社で言えば株主になった気持ちで、
自分の組合であるという愛着を持つことが必要
だと思う」
そして、こうも願っている。
「どんなに時代が進み世界が変わっても、
肉屋がなくなることはあり得ない。
商店街で愛される店となるために、
今は何より安全・安心・正直をモットーとした商売を続けてほしい」

〔平成15年4月15日号「東京食肉新報」掲載〕

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

千代田生命の破綻という荒波の中で理事長を引き受け、
BSEという「百年の一度の災厄」を乗り越え、
仕組債の導入で組合財政を建て直して
7年続いた赤字を解消。
仕組債の提案に対して、
無責任な指導者なら、
先送りにするところを、
「もし問題が起こったら、
私が責任を取ればいいんだから、
やってみなさい」

と言った一言が
赤字を解消し、
今の潤沢な資金を持つ組合への道筋ができたのです。

その他にも、役員数の削減、定年制の導入、支部統合の指針の制定
など、
普通は手を付けない改革に着手。
この時の改革があったので、
今の組合がある
ということを実感します。
この種まきがあったからこそ、
次の近藤一夫現理事長の時代に
組合内助成事業という形で
花開き、実をつけたのです。

まさに、
時代の変化を感じて、
組合みずから変わらなければならないことを実行した指導者
でした。
近藤前理事長の功績は末代まで語り継がれていくことでしょう。


近藤前理事長の逝去  

今日は三連休のはずが、
職場に出たものですから、
みんなが、
「どうしたんですかっ」
と驚いていました。

急遽変更したのは、
昨夜遅く、
近藤金治前理事長の訃報がもたらされたからです。
当然、組合の役員に連絡し、
関係者にもお知らせしなければなりません。
生花や弔電の手配をする必要があります。

そういうわけで、
ごくプライベートな用事(あとで言います)でしたので、
本日は出勤となりました。
給料をもらっているのですから、
職務優先は当然です。

日程が
27日(水)午後6時〜7時 通夜
28日(木)午前11時〜正午 葬儀
場所は田無山総持寺

と決まりましたので、
各方面にFAXで送り、
その他の準備もして、
ようやく前理事長のお宅を弔問できたのは、
3時すぎでした。

泣きました。
恥ずかしいです。
しかし、仕方ありません。
近藤前理事長と事務局長は
3年間、本当に信頼し合って仕事を進めましたし、
前理事長の持っていた無私の心は共鳴するものがありました。
ある種の絆で結ばれたと感じています。

前理事長のことは、今度書きます。

前理事長の家は田無にありますので、
西武新宿線に乗りましたが、
なつかしい名前の駅が沢山。
というのは、
40年近く前、
事務局長はこのへんに住んでいたことがあったからです。
青春時代の日々、
悩み多き時代、
このあたりを彷徨
しました。

帰り道、
1年ほど住んだ花小金井の駅の近所に行ってみましたが、
もう昔の家の痕跡もありません。
結婚について一晩悩んだ場所も、
どこなのか分かりません。

もう一つ、
やはり1年ほど住んだ野方駅の
環八そばの家も、
今は大きなマンションになっていました。

30〜40年も前のことですから当然で、
東京も刻一刻姿を変えています。

そんな風にして、
家に帰ったのは7時。
亡くなった方への想いと、
過去への追憶に満ちた
西武新宿線の旅(?)でした。

さて、これから、
本日休むはずだったはずの行動に
遅ればせながら入ります。
事務局長の行動様式を知っている方なら、
すぐ分かるはず。
そう、今日はアカデミー賞の授賞式の日です。
例年この日は休んで
リアルタイムで観るのが習慣でした。
生放送は同時通訳ですが、
夜、アメリカでのCMタイムを埋めるために
作った余分な部分をカットし、
急遽字幕の付いたものが放送されますので、
今からそれを観ることにします。
まだ何が作品賞を取ったかも知りません。
ヤフーの画面も見ず、
駅の新聞スタンドから目をそむけて帰って来たのですから。

で、その3時間後。

最初は惨敗か、と思うほど当たらない。
後半持ち直して、そこそこに。
でも、これでは、2連勝は無理ですね。

それにしても、
脚本家組合のストのせいで、内容が練れなかったのか、
まれにみる、つまらない授賞式でした。


3連休?  

予算案もできたので、
久しぶりにゆっくりさせてもらいました。
なぜ「3連休」なのかは、
月曜に分かります。

映画の鑑賞サークル・CCS関係の宿題にとりかかりました。

一つはアカデミー賞の予想大会の応募
24部門の受賞者全てを予想して、
高得点者は賞品がもらえます。
ちなみに昨年の優勝者は事務局長でしたが、
受賞会合に欠席だったため、
賞品はいただけませんでした。

昨年はリサーチを丹念にした結果、
17部門で的中。
しかし、今年は全くやってる時間がなく、
昨日朝になってインターネットで情報を収集。
現地での情勢や賭けのオッズなどを調べます。
前哨戦も、最近は12月頃の結果を信じてはだめで、
2月に入ってからの動向を重視する必要があります。
その後、郵便局そばのファミリーレストランへ行って、
プリントアウトしたものを総チェックして、
今年の予想を確定。
その間、ドリンク・バーの全ての飲み物を制覇。
予想用紙にマーカーを付けて、封筒に入れ、
帰りに郵便局で投函。
締め切りは土曜日の消印有効ですので。

次は、昨年の映画ベストテンへの応募。
各自がマイ・ベストテンを作って送ると、
会員全員を集計、
映画サークル全体の年間ベストテンを決める、という遊び。
もう何十年も続いています。

昨年公開全作品のリストで観た映画をチェック。
自分で付けておいた採点(例の「5段階評価」)に基づき、
マイ・ベストテンを作成。
昨年は12年ぶりに、ついに100本を切りました
ビデオで観た分も入れれば、なんとか102本。
映画評論家じゃないんだから、
無理して観ることはないのですが。
事務局長の昨年のベスト・ワンは
「善き人のためのソナタ」でした。

昼すぎまではぽかぽかでしたが、
午後、フィットネスクラブの帰りに
春一番に遭遇。
砂嵐のような天気となりました。

今朝は早く起きて、
ビデオの編集
芝浦の重鎮の叙勲祝賀会で上映するビデオです。
先週半ばに頼まれて、
その夜のうちテスト版を作って見せ、(早業 ! )
「この部分はこんな風に音楽を載せるともっと効果的になりますが、
そうしましょうか」
と提案して、
そうするように頼まれてから、
その方法を取るには、
機材が足りないことに気づき、
結局、別室にあるDVDレコーダーを外して事務局長の部屋に移して作業。
終わると、レコーダーを戻して、複雑な配線をしなおし。
まあ、嫌いなことではないので、楽しくやりました。
おかげで、
内容はぐんと良くなりました。
祝賀会当日、
ホテルの大きなスクリーンを飾ると思うと楽しみ。





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