宗教的な意味に限定せずに、「救い」について考えてみたいと思います。
「救いを求める」という状況には二つあります。
A 必要な情報が足りない(道に迷っている)。
B 必要なものが足りない(飢えや渇きなど)。
つまり自力ではどうにもならない状況に置かれているということですね。
宗教的な救いもこのAかBのどちらかに該当すると考えられます。
A 救われる方法が知りたい。(自分の行動と他者の言葉)
B 直接救いを与えて欲しい。(他者の行動と自分の言葉)
現実にはこの両方を試してみることになるでしょう。
「自分が言葉(助けを求める声)を発して他者が行動(助力)する」か、「他者が言葉(助言)を発して自分が行動する」かですね。
このように考えていくと、「救い」には必ず「他者」が登場するということがわかるでしょう。
実際に他人が登場して助言または助力をしてくれたという状況はわかりやすいですが、そうでない状況でも「他者の関与」が存在すると考えられるのです。
追い詰められた瞬間に、人から聞いた言葉を(助言として)思い出して助かったという経験はないでしょうか。宗教の「教え」にはこのような意味が込められていると考えられます。これはAに該当しますね。つまり、「他者からの助言」は現場にいなくても有効です。では、その反対のB「他者の助力」はあるのでしょうか。
信仰を説く宗教があります。「信じるものは救われる」というものですね。
#追い詰められた瞬間に、「意図せぬ偶然」によって救われたという経験はないでしょうか。
「救い」として人がイメージするのはこれだと思います。
「奇蹟」のイメージですね。
誰も意図していないのにちょうど必要なことが起きる。
これこそ神か仏の仕業とされているものでしょう。
日頃善行を積んでいて良かったと思うのはこのような時です。
(そんな経験はないという方はご愁傷様です。)
何故このようなことがあるのか。本当に日頃の善行(行動)や信仰(言葉)のお陰なんでしょうか。
それについてはいずれ考察してみたいと思います。
以上