2017/9/29

越後を見る!19.越後平野が一望!弥彦観光ロープウエーと展望レストラン!  文化財研修記

弥彦神社参拝の後、弥彦山山頂へはこのロープウェイで行けます。弥彦神社脇から麓駅までシャトルバスでいけますが、私は帰路に森の中の道を徒歩で行きました。10分ぐらいの道のり、万葉集に登場する植物が植えてある道を登るのもオススメです。
夏場はロープウェイの中は暑くて冷房がありません。窓際に乗ると風が涼しいようです。
ガイドの女性がゴンドラ内で説明をしてくれます。山頂からは佐渡島や日本海が一望でき最高の眺めでした。此処は東京スカイツリーと同じ高さ674メートルです!
昼食付(蕎麦定食)でロープウエー往復込で@1,800円!は安かった!

1.ロープウエー山麓駅へは弥彦神社横から往復無料送迎バスに乗って行きます!
クリックすると元のサイズで表示します

2.山頂駅はからの越後平野の展望も凄かった!
クリックすると元のサイズで表示します

3.展望レストランへの途中はアジサイが咲き乱れて見事でした!
クリックすると元のサイズで表示します

4.同上
クリックすると元のサイズで表示します

5.パノラマタワーも見えます!
クリックすると元のサイズで表示します

6.往復ロープウエーとこの蕎麦定食込で一人1,800円は安かった!
クリックすると元のサイズで表示します

7.もう一度山頂展望レストランからアジサイ園を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

8.もう一度山頂駅から越後平野を見る!
クリックすると元のサイズで表示します


綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/27

越後を見る!18.越後一ノ宮の見事な弥彦神社!3−3!  文化財研修記

新潟県西蒲原郡(にしかんばらぐん)弥彦村には越後一ノ宮の弥彦神社がある。彌彦神社(いやひこじんじゃ、常用漢字体:弥彦神社)は、式内社(名神大社)、越後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。正式には「いやひこ」だが、地名などが全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる。越後平野西部の弥彦山(標高634メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わいます。ご祭神は天香山命 (あめのかごやまのみこと)「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現 長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。
江戸時代には、越後高田藩藩主・松平忠輝が500石の社領を寄進し、朱印地となった。朝廷からも篤く崇敬されたという。社家は明治時代まで高橋氏が世襲した。
この頃神主であった高橋左近光頼により、神道家・橘三喜の教えの影響下で、神社の神宮寺を廃して仏像を取り払い神葬祭を行うなど、神仏分離が行われた。しかし元禄4年(1891)に光頼は神宮寺の僧に訴えられて敗訴している。国学者の平田篤胤は、彌彦神社に聖徳太子が記した神代文字が存在すると主張したが、該当の文書は火事で焼失したと伝わる。明治4年(1871)、近代社格制度において国幣中社に列した。天長10年(833)7月3日、名神に預かる 。社殿は明治45年(1912)に焼失し、大正5年(1916)に現在地に移って再建された。拝殿の背後に弥彦山を仰ぐ本殿は三間社流造です。幣殿、拝殿、万葉道があり弥彦山頂には御神廟(奥の宮)が鎮座する。天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。朱の大鳥居は弥彦と吉田を結ぶ県道29号線上、矢作駅近くに立つ。昭和57年(1982)の建立で高さ30メートルで、建立当時は日本一であった。

1.随身門
クリックすると元のサイズで表示します

2.随身門を斜めから見る!
クリックすると元のサイズで表示します

3.随身門は金網で覆われて上手く撮影できません!
クリックすると元のサイズで表示します

4.随身門から拝殿を見る!弥彦山も見える!
クリックすると元のサイズで表示します

5.拝殿内陣
クリックすると元のサイズで表示します

6.本殿
クリックすると元のサイズで表示します

7.受付殿
クリックすると元のサイズで表示します

8.本殿と祈祷殿を右側から見る!
クリックすると元のサイズで表示します

9.奥本殿
クリックすると元のサイズで表示します

10.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

11.その歌碑
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/25

越後を見る!17.越後一ノ宮の見事な弥彦神社!3−2!  文化財研修記

新潟県西蒲原郡(にしかんばらぐん)弥彦村には越後一ノ宮の弥彦神社がある。彌彦神社(いやひこじんじゃ、常用漢字体:弥彦神社)は、式内社(名神大社)、越後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。正式には「いやひこ」だが、地名などが全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる。越後平野西部の弥彦山(標高634メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わいます。ご祭神は天香山命 (あめのかごやまのみこと)「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現 長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。
江戸時代には、越後高田藩藩主・松平忠輝が500石の社領を寄進し、朱印地となった。朝廷からも篤く崇敬されたという。社家は明治時代まで高橋氏が世襲した。
この頃神主であった高橋左近光頼により、神道家・橘三喜の教えの影響下で、神社の神宮寺を廃して仏像を取り払い神葬祭を行うなど、神仏分離が行われた。しかし元禄4年(1891)に光頼は神宮寺の僧に訴えられて敗訴している。国学者の平田篤胤は、彌彦神社に聖徳太子が記した神代文字が存在すると主張したが、該当の文書は火事で焼失したと伝わる。明治4年(1871)、近代社格制度において国幣中社に列した。天長10年(833)7月3日、名神に預かる 。社殿は明治45年(1912)に焼失し、大正5年(1916)に現在地に移って再建された。拝殿の背後に弥彦山を仰ぐ本殿は三間社流造です。幣殿、拝殿、万葉道があり弥彦山頂には御神廟(奥の宮)が鎮座する。天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。朱の大鳥居は弥彦と吉田を結ぶ県道29号線上、矢作駅近くに立つ。昭和57年(1982)の建立で高さ30メートルで、建立当時は日本一であった。

1.弥彦神社宝物館
クリックすると元のサイズで表示します

2.国の重要文化財「志田大太刀」
クリックすると元のサイズで表示します

3.新潟県指定文化財「大太刀銘正吉」
クリックすると元のサイズで表示します

4.多くの国の重要文化財や美術品などが展示されています!
クリックすると元のサイズで表示します

5.二の鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

6.見事な参集殿
クリックすると元のサイズで表示します

7.見事な舞殿(此処で国の重要無形文化財の舞楽が演ぜられます!)
クリックすると元のサイズで表示します

8.随身門に至る!
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/23

越後を見る!16.越後一ノ宮の見事な弥彦神社!3−1!  文化財研修記

新潟県西蒲原郡(にしかんばらぐん)弥彦村には越後一ノ宮の弥彦神社がある。彌彦神社(いやひこじんじゃ、常用漢字体:弥彦神社)は、式内社(名神大社)、越後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。正式には「いやひこ」だが、地名などが全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる。越後平野西部の弥彦山(標高634メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わいます。ご祭神は天香山命 (あめのかごやまのみこと)「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現 長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。
江戸時代には、越後高田藩藩主・松平忠輝が500石の社領を寄進し、朱印地となった。朝廷からも篤く崇敬されたという。社家は明治時代まで高橋氏が世襲した。
この頃神主であった高橋左近光頼により、神道家・橘三喜の教えの影響下で、神社の神宮寺を廃して仏像を取り払い神葬祭を行うなど、神仏分離が行われた。しかし元禄4年(1891)に光頼は神宮寺の僧に訴えられて敗訴している。国学者の平田篤胤は、彌彦神社に聖徳太子が記した神代文字が存在すると主張したが、該当の文書は火事で焼失したと伝わる。明治4年(1871)、近代社格制度において国幣中社に列した。天長10年(833)7月3日、名神に預かる 。社殿は明治45年(1912)に焼失し、大正5年(1916)に現在地に移って再建された。拝殿の背後に弥彦山を仰ぐ本殿は三間社流造です。幣殿、拝殿、万葉道があり弥彦山頂には御神廟(奥の宮)が鎮座する。天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。朱の大鳥居は弥彦と吉田を結ぶ県道29号線上、矢作駅近くに立つ。昭和57年(1982)の建立で高さ30メートルで、建立当時は日本一であった。

11.JR長岡駅08時06分の普通列車に乗車、JR東三条駅に08」;32到着!
クリックすると元のサイズで表示します

2.乗り換え時間待ちが長いのでタクシーでJR弥彦駅へ向かう!3,000円余!朱の大鳥居を潜る!
クリックすると元のサイズで表示します

3.朱のJR弥彦駅
クリックすると元のサイズで表示します

4.弥彦駅から観光案内所に徒歩で向かう!
クリックすると元のサイズで表示します

5.地図(バスは1時間に1本)徒歩10分と書いてあるが、登り坂で大変だ!
クリックすると元のサイズで表示します

6.村の参道には「おやひこさま」の幟が一杯だ!
クリックすると元のサイズで表示します

7.漸く一の鳥居に至る!徒歩10と書いてあったがとても長く感じましたね!
クリックすると元のサイズで表示します

8.一の鳥居を潜り表参道を歩く!
クリックすると元のサイズで表示します

9.参道の橋の上から、「神様の渡られる玉の橋」を見る!ビックリだ!
クリックすると元のサイズで表示します

10.手水舎
クリックすると元のサイズで表示します

11.宝物館前の旧本殿跡
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/21

越後を見る!15.初代長岡藩主牧野忠成公によって開基された栄涼寺!  文化財研修記

新潟県長岡市東神田3丁目にある浄土宗の栄涼寺は、元和5年(1619、初代長岡藩主牧野忠成公によって開基されました。歴代藩主および藩士の菩提寺であった栄涼寺も戊辰の戦乱に巻き込まれ)であった栄涼寺も戊辰の戦乱に巻き込まれ、西軍の野戦病院となっていましたが、戊辰7月、長岡城奪回戦で長岡藩兵によって焼かれ、墓石の半数以上が倒壊したそうです。明治になって再建され、同38年に完成しました。


1.栄涼寺の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

2.栄涼寺標柱前の地蔵菩薩像
クリックすると元のサイズで表示します

3.栄涼寺の標柱
クリックすると元のサイズで表示します

4.見事な鐘楼です!
クリックすると元のサイズで表示します

5.本堂前の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

6.同上説明の碑
クリックすると元のサイズで表示します

7.見事な本堂を斜めから見る!
クリックすると元のサイズで表示します

8.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

9.駒札と墓石
クリックすると元のサイズで表示します

10.同 上
クリックすると元のサイズで表示します

11.同 上
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/19

越後を見る!14.中越の核であった長岡城跡!  文化財研修記

長岡藩の中心領域となった現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾氏(のち上杉氏)の一族古志長尾家が古志郡蔵王の蔵王堂城(現長岡市西蔵王)に拠って治めていた。その古志長尾家の景信が御館の乱により戦死した後は、上杉家の直接支配を受けることとなる。その後1598年に上杉氏が陸奥会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟堀親良が4万石を与えられて蔵王堂城主となるが、親良を継いだ甥の鶴千代が1606年に早世したため蔵王藩は2代で断絶した。さらに1610年、宗家の堀忠俊が家老堀直次・直寄兄弟の内紛を収められなかった罪で除封され、かわって徳川家康の6男松平忠輝が越後に入封すると、蔵王堂城もその属領となった。1616年、今度は松平忠輝が大坂の役における不始末から除封されると、6年前の騒動の一方の元凶であった堀直寄が8万石をもって蔵王に入封した。直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、城下町を移して長岡藩を立藩した。直寄は2年後の26188年には越後村上に移され、かわって譜代大名牧野忠成が6万2000石をもって入封する。牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、1620年には1万石を加増、さらに1625年に新墾田2000石を表高に加えて7万4000石となった。享保13年3月27日(1728)に起こった俗に「三蔵火事」と称される大火事で本丸から外曲輪にいたる城郭全てが全焼し、城の再建は幕府から7,000両借用して行われ、宝暦4年(1754)までかかった。また、天保15年(1844)の俊治火事では城門2つ、城塀324間が延焼している。また先述のとおり水害対策が長岡城建設の理由であったが、洪水で城内まで浸水することが5回あった。寛文11年(1671年)と延宝2年(1674年)に浸水しており、天明元年(1781年)と寛政元年(1789年)の洪水では2回とも城内まで8から9尺(単純計算で約2.4mから2.7m)浸水した。この他、文政11年11月12日(1829年12月18日)の三条地震では本丸を初め、役所、門、塀、柵など、ほとんどが大破し、翌年の大風で城内破損35箇所ほどの被害を受けている。戊辰戦争(北越戦争)を描いた浮世絵。画題は『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』であるが、時の政府に配慮して北越戦争を武田と上杉の戦いに見立てて描いたもの歌川芳盛作がるが、戊辰戦争(北越戦争)により長岡城はほぼ焼失した。焼け残ったのは、本丸の九間門橋・三階隅櫓・坤隅の櫓・かご部屋と二の丸の南櫓、そして千手口門だけであった。しかし、それらも士族の救済や阪之上小学校の教育費に充てるため売却された。現在本丸は長岡駅構内となり、二の丸跡が駅近辺にある。

1.JR長岡駅大手口にある本丸跡碑
クリックすると元のサイズで表示します

2.二の丸跡(厚生会館わきにある!)
クリックすると元のサイズで表示します

3.二の丸跡碑文
クリックすると元のサイズで表示します

4.城内の稲荷神社
クリックすると元のサイズで表示します

5.同上
クリックすると元のサイズで表示します
綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/17

越後を見る!13.中越長岡市の古城(平城)蔵王堂城跡とその周辺!  文化財研修記

金峯神社(きんぷじんじゃ)に隣接する蔵王堂城跡(ざおうどうじょう)があります。南北朝時代、当社に北朝方の中条氏が本陣を構えたことが始まりと伝えます。後に上杉謙信へと続く古志長尾家の長尾為重(謙信の叔父)が蔵王堂脇に本格的に築城し、会津移封までは上杉家及びその家臣が治めました。上杉家が会津へ移封された後は春日山城に入府した堀秀治の弟、堀親良が入り、蔵王堂藩の初代藩主となる。なお、蔵王堂藩は養子、堀鶴千代が坂戸藩の堀直寄の後見の元に継ぐのだが、9歳で亡くなった為に断絶。坂戸藩に編入される。堀直寄は飯山藩へ転封され、松平忠輝臣下の山田隼人が入城。この時は藩としての復活はなく、福嶋藩(高田藩)の属領扱いだった。忠輝が大阪夏の陣の不手際により改易されると堀直寄が寄蔵王堂城主として戻り、蔵王堂藩が復活する。堀直寄は以前の統治時代に開始し転封により中断していた長岡城建築を進め、長岡城完成と共に移動した為に蔵王堂城は廃城となり、蔵王堂藩は長岡藩へと移行する。またこの蔵王堂は天領(幕府の直轄地)となり、この地に蔵王代官所を設けた。長岡移転は蔵王堂城が信濃川のすぐ脇にあった為、水害により城の一部が侵食される程の被害を度々受け、城の維持が難しかったためである。

1.堀直寄の像(撮影失敗)と駒札
クリックすると元のサイズで表示します

2.蔵王城跡の濠を渡る!
クリックすると元のサイズで表示します

3.蔵王城跡へ登る!
クリックすると元のサイズで表示します

4.濠の跡
クリックすると元のサイズで表示します

5.濠を見下ろす!
クリックすると元のサイズで表示します

6.蔵王城跡碑
クリックすると元のサイズで表示します


綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/15

越後を見る!12.中越長岡市の古刹・金峯神社とその周辺を見る!  文化財研修記

新潟県長岡市西蔵王2−6−19には金峯神社(きんぷじんじゃ)がある。旧社格は県社で明治時代まで蔵王権現という。近辺では「蔵王さま」と呼ばれている。廃仏毀釈までの別当寺は安禅寺(金峰山静観院)であった。祭神は金山彦命を祀り。他に相殿に又倉神社他を祀る。蔵王権現以前は又倉村といい産土神又倉神社を祀っていたという。王神祭は又倉神社祭礼である。和銅2年(709)元明天皇の勅願により北国鎮護のため大和国吉野山の蔵王権現を分霊して古志郡楡原の地に創建されたと伝える。修験者秋葉三尺坊をはじめ僧徒山伏修験者数千人の勢力だったという。秋葉三尺坊は後に信州戸隠を経て遠州に渡り一大修験勢力を築いたという。しかし戦に破れ三島郡矢田の地に隠遁し仁治3年(1242)現在の又倉村の地に遷座したという。信濃川河川交通の重要地であるこの地に門前町を築き、軍事勢力を持ち蔵王堂城を築き長岡の町の基礎を築いた。河川沿いの長い丘状に発展した町の様から長岡という地名が起こったという。なお、『長岡市史』では楡原からの遷座年は不詳で、大島荘川崎郷保倉村に移転し、同村は蔵王村に改称したとされる。南北朝時代にはこの地を巡って激しい戦いが繰り広げられた。当時既に越後国を代表する霊場として広く知られていた。蔵王堂城主堀直竒は信濃川に欠けるこの地から平方原に城を築城した(長岡城) 江戸時代、天海により別当寺の安禅寺が真言宗から天台宗に宗旨替えとなる。元和年中に社殿炎上して古記録が焼失。慶安2年(1649)に徳川家光は朱印300石を寄進された他、越後長岡藩主牧野家は40石寄進し、守護神と崇め家督相続の折には必ず参詣した。明治維新に神仏分離令により神祇と決して別当寺の安禅寺は分離・廃寺となり、蔵王堂は金峯神社と改名。新潟県最初の県社に列す。明治40年に社殿炎上し、大正2年(1913)に再建した。

1.JR直江津駅です!ここで乗り換えJR長岡駅へ!
クリックすると元のサイズで表示します

2.直江津の海岸線
クリックすると元のサイズで表示します

3.JR長岡駅。近くのホテルに荷物を預けてJRで北長岡駅へ。
クリックすると元のサイズで表示します

4.JR北長岡駅かっら徒歩30分で金峯神社に至る!
クリックすると元のサイズで表示します

5.正面の参道
クリックすると元のサイズで表示します

6.見事な手水舎
クリックすると元のサイズで表示します

7.見事な古木の御神木
クリックすると元のサイズで表示します

8.見事な拝殿
クリックすると元のサイズで表示します

9.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

10.毘沙門天堂
クリックすると元のサイズで表示します

11.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

12.天井画
クリックすると元のサイズで表示します


綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/13

越後を見る!11.上越の名刹・西山国師ゆかりの来迎寺!  文化財研修記

紫雲山引接院・来迎寺(らいこうじ)は上越市高田寺町2丁目4−3にあります。西山国師ゆかりの名刹として有名で、重厚な山門、石畳の参道、樹木に囲まれた境内は、たいへん落ち着いた静寂なたたずまいです。承久3年(1221)浄土宗西山派の開祖証空が、現在の居多神社(五智6)の所に来迎仏と当麻曼荼羅の軸をかけ法談をされたのがはじまりと伝えられています。証空は、奈良当麻寺の別院の名を移して来迎寺としました。
高田城の築城とともに現在地へ移り、寛永9年(1632)に鎮西派(知恩院末)に改め、今にいたっています。境内の木立の中に証空の供養塔があります。

1.見事な山門と標柱
クリックすると元のサイズで表示します

2.重厚で見事な山門
クリックすると元のサイズで表示します

3.本堂への参道と境内
クリックすると元のサイズで表示します

4.見事な本堂
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2017/9/11

越後を見る!10.上越の古社で見事な神明造りを基調とした日枝神社!  文化財研修記

日枝神社(ひえだじんじゃ)は,上越市高田駅(えちごトキめき鉄道)の西の寺町に鎮座する。「神社明細帳」(明治16年)に「中頸城郡高田下寺町字寺中 日枝神社」とある。仁寿3年(853)に創立されたと伝える古社で,はじめ衾野という場所に鎮座したという。
その後,変遷の末,慶長15年(1610)に現在地に遷座した。一帯の産土神として篤く崇敬されている。祭神は大山咋命で,合殿で天照皇大神,豊受大神,健御名方命を祀っている。
明治15年(1882),郷社に列せられ、明治40年(1907),高士地区に鎮座した稲荷社(宇迦御魂命)を合併した。昭和8年(1933)に縣社に昇格した。日枝神社拝殿日枝神社本殿
など社殿は神明造りを基調としたみごとなものである。明治10年(1877)に焼失して12年(1879)に再建された。

1.日枝神社
クリックすると元のサイズで表示します

2.見事な鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

3.見事な神明造りの拝殿
クリックすると元のサイズで表示します

4.同上
クリックすると元のサイズで表示します

5.見事な扁額
クリックすると元のサイズで表示します

6.内陣を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

7.拝殿後部と本殿を横から見る!
クリックすると元のサイズで表示します

8.後部から本殿・拝殿を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

9.多くの境内社の一部
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ