2017/8/30

越後を見る!4.家康公6男松平忠輝公の為に建てられた天下普請の城・高田城!  文化財研修記

慶長19年(1614)徳川家康の6男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗である。高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。約230メートルから約220メートル四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として利用した。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。天守はなく、慶長19年(1614)に3重3階の三重櫓を建てて天守の代用とした。当時の三重櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている。明治以降、旧陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備されている。創藩当時の高田藩は、親藩の大藩である越前福井藩と共に、加賀前田藩を丁度挟むような形で押さえ込む配置となり、幕府にとって重要な位置づけとされていたが、泰平の世が続き、前田家と将軍家も縁戚を重ねるなどしたため、次第にその役割は小さなものとなっていった。元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、幕府や諸大名にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば「座敷牢」のような位置づけが強くなった。

1.高田城内への極楽橋を見る!
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2.下記をクリックして、「動画」で高田城の濠や極楽橋と輪郭式平城の三重櫓を見て下さい!
https://youtu.be/_XfBQ3cXz0o

3.高田城案内図
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4.極楽橋を渡る!蓮のシーズンです!
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5.同上
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6.本丸跡
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7.城郭図
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8.見事な輪郭式平城の三重櫓(平時のための築城で天守閣の役目を果たしていた!)
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9.同上
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10.西堀橋を渡るとそこは、高田の蓮祭り会場だった!
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11.同上
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12.同上
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2017/8/28

越後を見る!3.越後守護代長尾氏が創建し上杉謙信公のお墓のある林泉寺!  文化財研修記

上越市春日山の麓には、明応6年(1437)、越後守護代・長尾能景が亡父の17回忌供養のため曇英恵応を開山に拝招して創建した。能景とその子・為景の保護を受けて守護代長尾氏の菩提所として発展した。 天文5年(1536)に為景が死ぬと為景の末子・虎千代(のちの上杉謙信)が7歳で林泉寺に預けられ、14歳で呼び戻され元服して景虎と称するまで林泉寺の六世住職・天室光育から学問を学んだ。景虎がのちに上杉氏を継承し上杉輝虎を称すると林泉寺は上杉氏の菩提寺となる。輝虎は七世住職益翁宗謙のもとで参禅し、元亀元年(1570年)に剃髪したとき師の諱から一字を取って不識庵謙信と号した。
天正6年(1578)に急死した謙信の遺骸を収めた棺は、謙信の号のもととなった春日山城内の不識院に埋葬されたが謙信の養子・景勝が慶長3年(1598)に会津へ、慶長6年(1601)に米沢へと移封されたのにともなって米沢へと移された。通説では林泉寺もこれにしたがって移転したとされている。開山以来の袈裟と持鉢は上越市の林泉寺に残されており法統上の正統を伝えている。上杉氏移封後は春日山城下に残された林泉寺は一時衰退するが上杉景勝に代わって春日山城主となった堀秀治によって再興され、春日山城主・堀氏、堀氏改易後高田城に入封した松平氏、18世紀前半から明治維新まで高田藩に在封した榊原氏と歴代の上越地方の支配者により菩提寺として尊崇を受けた。堀家は堀秀重、堀秀政、堀秀治3代の位牌と墓がある。
江戸時代の林泉寺は江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠から御朱印で寺領224石を授けられ、高田藩主から禁制の特権を与えられていた。しかるに寛永年間及び弘化4年(1847)の2度の火災で本堂や山門などが焼失する。

1.林泉寺の一図(春日山城跡の右下の麓です。)
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2.同上
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3.春日山城跡唯一の惣門を移築したものです!
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4.阿形の仁王像
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5.吽形の仁王像
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6.惣門の見事な天井画の一つ
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7.同上
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8.本堂へ向かう!
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9.大槻槃添翁作「春日山懐古」
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10.上杉謙信公への献上歌碑
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11.駒札
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12.見事な本堂
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13.本堂の見事な釈迦如来三尊像
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14.上杉・堀家のお墓の参道
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15.上杉謙信公のお墓
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2017/8/26

越後を見る!2.上越市の巨大な連郭式山城の春日山城址!2−2!  文化財研修記

新潟県上越市には上杉謙信の城と知られる国史跡の巨大な連郭式山城の春日山城跡がある。上杉の姓の発祥地は京都府綾部市(あやべし)の上杉荘(うえすぎのしょう)であり、詳細はあとで掲載します。この城は、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされる。永正4年(1507)、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放した。新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となった。上越市中部にある春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の4代の居城となった。しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、政治を取り仕切るに不便として、慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城はその役目を終えた。別名を鉢ヶ峰城ともいう。「春日山」の名称は、奈良の春日大社から分霊勧請(かんじょう)した春日神社に由来する。春日神社の創建年代は、天徳2年(958)説、守護上杉氏の築城の際とする説、文明年間(1469年〜86年)という説などがありはっきりしない。また、近くにある林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものであると言われているが、確証はない。しかし、最低でも慶長まではさかのぼるものであるとも言われ、春日山城で最も古い建築物であると思われる。多くの絵図には石垣や天守閣などが描かれているが、ほとんど空想であり、石垣も瓦も発掘されていない。 それらをふまえ、厳密な時代考証に基づいた初の復元模型が完成、2009年1月から12月まで開催の「越後上越天地人博」で展示されている。地域支配と侵攻に対抗するための拠点として、要害の地に支城・砦・館が配置されていた。山中には春日山城と支城・砦を結ぶ軍事用道路があった。
明治34年、 春日山神社が創建される。昭和6年に毘沙門堂が復元される。昭和10年主城周辺が国の史跡に指定される。昭和43年には本来の春日山城は、主城周辺に広範囲に配置された砦や土塁、堀などの遺構を含めて一体的に把握されるべきものとして、これらのうち、春日山から南東方向に突出する尾根先端部に構築された通称「東城砦(別名、春日砦)」部分が国の史跡に追加指定される。春日山の周辺、おおむね5から6キロメートル度の範囲内にある砦として、春日山から西へ伸びる稜線上に砦が列をなして並び、近いほうから番屋口砦・番屋砦・長沢砦・長浜砦・城が峰砦の順で並んでいる。北には沖見砦があり、南の複雑な地形のなかにトヤ峰砦・宇津尾砦・滝寺砦・中の俣砦の砦群、東の平地には長池山砦と東城砦および御館城があった。これら春日山を支える砦は、2キロメートル度あるいは至近距離に番屋口砦・番屋砦・長沢砦・長池砦・東城砦があり、3キロメートル程では沖見砦・長浜砦・トヤ峰砦が配置され、4キロメートル程度で城が峰砦・宇津尾砦・滝寺砦・御館城があり、中の俣砦は5キロメートルどである。春日山から西に伸びる稜線上の砦はいずれも砦単体での運用を想定した構造ではなく、春日山と直接の連絡路があり、また戦闘を維持するには春日山からの支援を受けなければならない。また、これらの砦は春日山と反対方向からの攻撃に備えており、これらからこの砦群も広義の春日山城を構成しているともいえる。春日山城本体も大きな城であるが、これらの砦群を包括した広義の春日山城は広大な城であったともされる。

1.正面の道は工事中のため、春日山神社からの道(裏道)から登ることにする!
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2.春日山城の駒札
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3.春日山神社参道
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4.春日山神社
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5.同上
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6.見事な拝殿
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7.拝殿と後部の本殿
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8.更に登っていきます!
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9.千貫門に至る!汗だくだく!
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10.空堀の駒札
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11.空堀
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12.家老・直江兼続屋敷跡!
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13.見事な春日山城への道
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14.見事な上越の山々
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15.再建された毘沙門堂
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16.上杉謙信公は良く護摩を焚いた「護摩堂」
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17.本丸跡
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18.見事な本丸からの上越の山々を、下記をクリックして、「動画」で見て下さい!
https://youtu.be/ywfRWclvHfA

19.上杉の姓の発祥の理由と実状を、下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1842.html

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2017/8/24

越後を見る!1.上越市の巨大な連郭式山城の春日山城址!2−1!  文化財研修記

新潟県上越市には上杉謙信の城と知られる国史跡の巨大な連郭式山城の春日山城跡がある。上杉の姓の発祥地は京都府綾部市(あやべし)の上杉荘(うえすぎのしょう)であり、詳細はあとで掲載します。この城は、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされる。永正4年(1507)、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放した。新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となった。上越市中部にある春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の4代の居城となった。しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、政治を取り仕切るに不便として、慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城はその役目を終えた。別名を鉢ヶ峰城ともいう。「春日山」の名称は、奈良の春日大社から分霊勧請(かんじょう)した春日神社に由来する。春日神社の創建年代は、天徳2年(958)説、守護上杉氏の築城の際とする説、文明年間(1469年〜86年)という説などがありはっきりしない。また、近くにある林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものであると言われているが、確証はない。しかし、最低でも慶長まではさかのぼるものであるとも言われ、春日山城で最も古い建築物であると思われる。多くの絵図には石垣や天守閣などが描かれているが、ほとんど空想であり、石垣も瓦も発掘されていない。 それらをふまえ、厳密な時代考証に基づいた初の復元模型が完成、2009年1月から12月まで開催の「越後上越天地人博」で展示されている。地域支配と侵攻に対抗するための拠点として、要害の地に支城・砦・館が配置されていた。山中には春日山城と支城・砦を結ぶ軍事用道路があった。
明治34年、 春日山神社が創建される。昭和6年に毘沙門堂が復元される。昭和10年主城周辺が国の史跡に指定される。昭和43年には本来の春日山城は、主城周辺に広範囲に配置された砦や土塁、堀などの遺構を含めて一体的に把握されるべきものとして、これらのうち、春日山から南東方向に突出する尾根先端部に構築された通称「東城砦(別名、春日砦)」部分が国の史跡に追加指定される。春日山の周辺、おおむね5から6キロメートル度の範囲内にある砦として、春日山から西へ伸びる稜線上に砦が列をなして並び、近いほうから番屋口砦・番屋砦・長沢砦・長浜砦・城が峰砦の順で並んでいる。北には沖見砦があり、南の複雑な地形のなかにトヤ峰砦・宇津尾砦・滝寺砦・中の俣砦の砦群、東の平地には長池山砦と東城砦および御館城があった。これら春日山を支える砦は、2キロメートル度あるいは至近距離に番屋口砦・番屋砦・長沢砦・長池砦・東城砦があり、3キロメートル程では沖見砦・長浜砦・トヤ峰砦が配置され、4キロメートル程度で城が峰砦・宇津尾砦・滝寺砦・御館城があり、中の俣砦は5キロメートルどである。春日山から西に伸びる稜線上の砦はいずれも砦単体での運用を想定した構造ではなく、春日山と直接の連絡路があり、また戦闘を維持するには春日山からの支援を受けなければならない。また、これらの砦は春日山と反対方向からの攻撃に備えており、これらからこの砦群も広義の春日山城を構成しているともいえる。春日山城本体も大きな城であるが、これらの砦群を包括した広義の春日山城は広大な城であったともされる。

1.上越市は行き難いので、京都駅発23時30分の夜行バスでJR長野駅へ朝5時33分到着
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2.JR長野駅発06;23分しなの鉄道で妙高高原駅へ07:07。乗り換え、07:11えちごときめき鉄道でJR高田駅07:52着。
途中の妙高高原など見て下さい!
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3.黒姫高原
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4、同上
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5.妙高高原
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6.上越市の高田駅近くの宿泊ホテルへ荷物を預ける!
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7.上越高田駅から越後ときめき鉄道で一駅で春日山駅へ!
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8.春日山駅にはタクシーが常駐していないのでJR直江津駅からタクシーを呼び春日山城跡へ!
タクシーで15分、徒歩だと55分位かかる!
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9.上杉家の菩提寺の林泉は後にして、上杉謙信公の銅像のある、春日山城址広場に着く!
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10.同上
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11.上杉の姓の発祥地については下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/275.html

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2017/8/22

遠州浜松を見る!(最終回)30.日本三大砂丘の一つ中田島砂丘を見る!  文化財研修記

静岡県浜松市にある中田島砂丘(なかたじまさきゅう)は、太平洋に面した東西4km、南北8kmに広がる砂丘で、鳥取県の鳥取砂丘、千葉県の九十九里浜とならぶ日本三大砂丘のひとつとされています。浜松では、有名な観光名所の一つです。鳥取砂丘ほどは広くないが、風によって風紋という模様が砂上に出来る。1月1日には初日の出を見るために来る人も多い。また夏はアカウミガメが産卵のために上陸する。産んだ卵は囲いに入れられ、孵化したら人によって放流される。また、砂丘という環境から、ハマヒルガオやコウボウムギといった海浜植物が多く見られる。毎年5月3日 - 5月5日のゴールデンウィークに開催される、浜松まつりの凧揚げ会場近くの観光地でもあり、賑わいをみせる。比較的容易に砂丘の風景が撮影できる場所として、映画やプロモーションビデオなどのロケ地としても有力である。2012年には、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が、かぐやに続く月探査計画で使用する予定の月面ロボット試作機のテストが行われた。天竜川の上流にダムが出来たため、上流から運ばれてくる砂の量が減少(特に佐久間ダムは堆砂が激しいことで知られ、浚渫作業で取り除いているものの毎年約90万平方メートルの率で堆砂が増加し続けている)。そのために波によって浸食される砂の量と天竜川から運ばれてくる砂の量のバランスが崩れ、その結果海岸線が毎年平均5キロメートルど後退し続けている。この問題を解消すべく、2006年(平成18年)7月に市は主に砂丘東側の防砂林の所まで風などで運ばれた砂を、特に侵食の激しい西側の個所へ運び、砂の流出を防ぐ為に堆砂垣を設置するなどの「堆砂移動工事」を行う方針を固め、2006年(平成18年)8月に実施した。しかし、問題の原因がこれで解消されるわけではなく、砂丘本来の姿が消えていきかけているという事実は憂慮すべき課題である。中田島砂丘には、堆砂垣(たいさがき)と呼ばれる施設がある。これは砂浜に砂が積もるよう促し、砂丘の面積が減少するのを防ぐ施設である。これが砂に埋まりそうになった時は上部に増やしていく。

1.中田島砂丘碑
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2.案内板
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3.中田島砂丘
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4.堆砂垣
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5.見事な砂丘です!
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6.同上
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7.同上
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2017/8/20

遠州浜松を見る!29.僧・行儀菩薩建立の古刹・真言宗の鴨江寺(鴨江観音)!  文化財研修記

浜松市中区鴨江4−17−1には鴨江観音、正しくは「高野山真言宗甲江山 鴨江寺」と申し、その創建は遠く奈良朝時代に遡ります。奈良時代の開山行基菩薩と芋堀長者です。今から1300年ほど前、遠州地方の民話で知られる芋堀長者が観音堂を建てたいと願っております時、(奈良の高僧)行基菩薩様が東国へ来られました。長者は菩薩に文武天皇の勅願所として観音堂を建てる事を願いでました。大宝2年(702)6月18日ついに帝の特許があり、一夜の内に用材が曳馬の里に信水に乗じて集まったと云われています。その後、工事は順調に進み七堂伽藍輪奐の美をなしたそうです。これが鴨江寺創建の因縁であります(今でも鴨江町一帯を長者平(ちょうじゃびら)と土地の人が呼んでいるそうですが、これは芋堀長者のことを指しているとということです)。平安時代は、鴨江寺に300余の寺々があり勅許を得ずに戒壇を作り殷盛でした。このため比叡の僧と戒壇のことで争い戦をしたと伝えられています。現在も戒壇塚とか鎧塚とか血塚とかいう処が残っています。一説には、「長暦年間、鴨江寺が朝廷に願い出たが、比叡の僧がこれを邪魔をした」と云われ、また、承保の頃には大江匡房の兄頼豪阿闍梨が鴨江寺に三味耶戒壇を作ることを朝廷に願い出たが比叡の僧の邪魔によりこれが成らず、頼豪は憤死、その跡を戒壇と云う」とも云われています。足利尊氏の反逆によって後醍醐天皇は吉野へ行幸されました。天皇は元弘2年(1332)と3年、鴨江寺衆徒にご綸旨を下されています。鴨江寺が南朝方にお味方申し上げていましたので、尊氏方は斯波氏をして鴨江を攻め立てました。歴仁2年(1339)7月27日、遂に鴨江の城は攻め落とされました。天正11年、徳川家康は善光寺如来を鴨江寺にお迎えしました。爾後慶長2年(1598)4月27日に後陽成天皇の勅により山城国(京都)方広寺に移されるまでの10余年、善光寺如来は鴨江寺でお祭りされていたのです。「死ねば善光寺へ行く」と古くから言われていますが、善光寺とのこの因縁と、開山行基菩薩が現在お地蔵様の前にあります泉(阿伽井戸)で亡霊の為に水を手向けられ、亡き人々が皆成仏したという因縁とが合わさって、「死ねば鴨江に行く」という信仰がこの地方の人々の心奥に染み込んだと云われています。鴨江寺観音堂は、豊臣秀吉の世の慶長13年火災で一端消失しましたが、そのときのお堂の規模は七間四方であったと記録に残っています。江戸時代に入って元和二年、徳川家康によって柱数十本を下し給うて観音堂が再建されました。その堂内に安置されていた宮殿が弁天堂の宮殿として現在も残っています。元和元年(1615)再建のお堂は百年余りで興廃しましたので、宝暦の頃からその再建に取りかかり、享保3年(1719)11月18日に上棟しました。これが戦災前まで存在した十四間四面の大観音堂です。空襲で焼失したお堂は戦後すぐに再建され(昭和22年)、昭和64年の大改修を経て現在に至っています。この観音堂(本堂)と昭和34年建立された弘法大師拝殿、更に、昭和54年建立に建立された成田山不動堂と呼ばれる三つの大堂がそれぞれの因縁を持ちながら現在の鴨江寺を形作っています。

1.巨大な仁王門
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2.阿形の仁王像
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3.吽形の仁王像
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4.仁王門から八角堂を見る!
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5.地蔵尊像
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6.成田山不動堂内
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7.中門を見る!
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8.見事な本堂(観音堂)
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9.大師堂拝殿
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10.見事な本殿(観音堂)を横から見る!
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11.見事な地蔵菩薩増
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12.七福神堂
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2017/8/18

遠州浜松を見る!28.大変珍しい浜松市指定天然記念物の「19番観音根上り松」!  文化財研修記

浜松市指定天然記念物「鴨江の根上がりマツ」(中区鴨江)の樹齢は、市が推定していた200年の倍に当たる、400年になる事がかった。2本のうち1本は付け根の部分から折れて倒れてしまったが、市は2008年度中に折れた松の年輪を調べて正確な「年齢」を確認する。同日開かれた市の文化財保護審議会で市側が報告した。鴨江の根上がりマツは、根の部分が2メートル以上にわたって浮き出ているクロマツ。古くから市民に親しまれており、「根上がりマツ」の表記で路線バスの停留所などの名称にも使用されている。だが、昨年7月下旬、2本のうち1本(高さ約20m)が根元の部分から折れた。当日までの雨の影響もあって倒れたらしい。市が倒れたマツの年輪を数えたところ、樹齢がこれまでの通説だった約200年ではなく、400年であることが判明。無事だったマツも同程度の樹齢とみられるため、専門家による鑑定が必要と判断した。市文化財保護審議会では、折れたマツについて市指定天然記念物の対象物から除外する一方、浜松の歴史を知る証人≠ニして保存していくことを申し合わせた。市は「マツのある場所は昔からの名所。折れた木も鴨江の根上がりマツ「記念碑」としての存在価値は変わらない」としている。

1.19番観音根上がり松の碑(昔、33ヶ寺観音霊場の19番札所があったためそう呼んでいます。)
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2.2007年倒壊し、調査した市天然記念物の松(樹齢400年と判明)
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3.駒札
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4.市指定天然記念物の根上がり松
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5.その他の根上がり松群
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2017/8/16

遠州浜松を見る!27.三方ヶ原合戦で家康公の身代わり戦死した成瀬藤蔵正義のお墓のある宗源院!  文化財研修記

浜松市中区蛽塚1−201には山号を宝蔵山(ほうぞうさん)という宗源院(そうげんいん)がある。西来院と同様に曹洞宗普済寺十三派の在天派に属し、華蔵義曇(けぞうぎどん)の法弟在天弘雲和尚が応永23年(1516)に開創しました。本尊は虚空蔵菩薩・釈迦牟尼佛・普賢菩薩です。 室町時代後期には、今川氏の庇護をうけ、義元自身が開基としての役割を果たし、堂塔伽藍の再建を行っています。そうした関係を裏付ける史料として、この寺には今川義元と氏真の判物残されており、この古文書は、浜松市の文化財に指定されています。 閑静な山内には、三方原合戦の際、家康の身代わりとして戦死した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重、遠藤右近の墓があり、また、浜松城主松平伊豆守信祝(のぶとき)が娘多世姫(享年18歳)のために建てたという墓があります。他にも、源太夫堀を構築した小笠原源太夫の千代子夫人の墓もあります。
また、徳川家康が在城した当時寺の東南一帯に的場があり、家康がここで弓の稽古に励んだといわれています。

1.宗源院山門
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2.弁財天堂
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3.見事な鐘楼
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4.駒札
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5.見事な本堂
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6.三方ヶ原合戦で家康公の身代わりで戦死した成瀬藤蔵正義公のお墓などへの道
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7.成瀬藤蔵正義公のお墓
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8.旗手として討死した外山小作正重、遠藤右近の墓
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2017/8/14

遠州浜松を見る!26.徳川家康公の正妻・築山御前のお墓のある西来院!  文化財研修記

浜松市中区広沢2丁目10−1には曹洞宗の古刹高松山(こうしょうざん)と号するで西来院(せいらいいん)があります。正長元年(1428)、寒厳(かんがん)十三派のうちの月窓派(げっそうは)の拠点として、月窓義運禅師(げっそうぎうんぜんじ)によってに開創されました。本尊は釈迦牟尼仏です。墓苑には徳川家康の正室・築山御前の廟堂(月窟廟)をはじめ、家康の異父弟・松平源三郎康俊、江戸時代の浜松女流歌人・杉浦真崎、森繁子などの墓があります。

1.西来院入口
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2.浜松でも最も古い6地蔵菩薩
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3.可愛い石仏
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4.戦災後、建てられた本堂
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5.築山御前の墓地(月窟廟)
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6.駒札
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7.築山御前のお墓
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8.禅師供養塔
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2017/8/12

遠州浜松を見る!25.遠州浜松の曹洞宗の古刹で三方ヶ原の戦いで炎上した普済寺!  文化財研修記

浜松市中区広沢町1丁目2−には曹洞宗の古刹で三方ヶ原の合戦で戦略上、炎上した普済寺(ふさいじ)は、広沢山(こうたくさん)と号する曹洞宗の寺です。15世紀のはじめ、寒厳義尹(かんがんぎいん)が開山、その後、肥後国(熊本県)大慈寺からきた華蔵義曇(けぞうぎどん)が寒厳禅師の遺志を継ぎ、東海の禅堂としてこの地に普済寺を建立しました。教派は13派(465ヶ寺)を数え、華蔵和尚によって浜松地方に禅宗が広められました。普済寺の本尊は釈迦牟尼佛です。普済寺は古くから由緒ある寺として徳川氏の保護をうけ、家康も客殿を寄進しました。その普済寺は三方ヶ原合戦当時、浜松城が炎上したかのように見せかけるため、戦略上家康の命令で火が放たれました。天正10年(1582)に七堂伽藍が再建されましたが、明治30年(1897)火災に遭い、その建物も昭和20年(1945)戦災を被りました。しかし、その後昭和39年に再建されました。境内には北山稲荷神社をまつっています。ところで、日本三大稲荷の一つに数えられている愛知県豊川市の豊川稲荷は、浜松普済寺の末寺になります。日本三大稲荷とは、伏見稲荷大社(京都市)、祐徳稲荷神社(佐賀県)、そして豊川稲荷(愛知県)の3社です。

1.普済寺山門
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2.普済寺の旧山門
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3.本堂
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4.北山稲荷社
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