2017/7/31

遠州浜松を見る!19.織田信長公に武田側への裏切りを考えれ家康公の嫡男信康公が切腹した二俣城!  文化財研修記

遠州浜松市天竜区二俣には武田・徳川軍攻防の地、二俣城跡がある。二俣城といえば、家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。天正7年(1579)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、この二俣城からなら誰か家康の意を汲み取り信康を逃亡させるだろうとの意味でこの二俣城に幽閉した。さる雨の夜信康公は浜松城の家康公へ「決して父上様を裏切ってはいと訴え!」出ています。残念ながら家康公の意思を家臣は理解できず、できても信康公はこの二俣城から離れなかったと云う。9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る。(以上が旧来、広く流布されてきた説話だったが、近年では信康が切腹に追い込まれた背景には家康や家臣団との対立があったためではないかという説も強くなっている。)信康は時に享年21歳。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせた。

1.二俣城々下町
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2・二俣城跡への登り口
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3.雨のため登るのは中止!他から二俣城跡の写真借りて来ました!残る天主台跡!
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4.同上
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2017/7/29

遠州浜松を見る!18.武田家と内通の疑いで自刃させられた家康公嫡男・信康公のお墓のある清龍寺!  文化財研修記

浜松市天竜区二俣町二俣1405には徳川家康公の嫡男・岡崎三郎信康公のお墓のある清龍寺(せいりゅうじ)がある。応永12年(1405)に長安坊という僧がこの地に草庵を構えたのがはじまりです。天正7年(1579)年9月15日に徳川家康の嫡男である松平信康(岡崎三郎信康)が家康の命を受けて二俣城内で自害し、家康は信康の菩提を弔うために精舎を建立、行基が作ったとされる聖観世音像を奉納したのが実質的な開創とされている。翌、天正8年(1580)年9月には徳川家の菩提寺である三河の大樹寺(だいじゅじ)の一五世呑誉(どんよ)和尚を招いて本葬が営まれている。本堂内陣には安政4年(1857)年造彫の徳川家康の木像や、信康の位牌、それに徳川家歴代将軍の位牌が安置されている。 創建以来災禍によって本堂を幾度か失っており、江戸中期の宝永2年(1705)、六世伝誉龍巌(でんよりょうがん)和尚の代に堂宇が再建された。江戸後期の絵図をみると本堂は入母屋作りで二層の屋根をもった大伽藍であったことがわかる。しかし、明治3年(1870)に襲来した台風によって大破してしまっている。その後容易に再建されず、篤志家の寄付や人々の浄財を得て明治後期にようやく本堂が落慶した。山門は寛文3年(1668)年に建立された四脚門です。山城門前に「下乘」の高札が建っており、馬をもって乗り入れることが許されなかった。又、この寺には山城の生命線である井戸櫓(いどやぐら)は、元は二俣城にあったもので、廃城の際に清瀧寺(せいりゅうじ)に移築されたものです。

1.清龍寺の標柱
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2.岡崎三郎信康公の碑文
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3.信康公の木像について
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4.同上 木像
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5.山門
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6.駒札
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7.本堂
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8.本田宗一郎ゆかりの地
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9.鐘楼
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10.信康廟への登り参道
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11.駒札
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12.信康公廟
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13.同上
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14.二俣城跡から移築された「井戸櫓(いどやぐら)山城には必需です。)
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2017/7/27

遠州浜松を見る!17.遠州の二俣諏訪神社と二俣まつり!  文化財研修記

浜松市天竜区二俣町には全国に約25,000社の諏訪神社があり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。この二俣諏訪神社の「二俣まつりでは山車」の行列で有名です。二俣まつりに屋台が登場したのもはっきりした年代は明らかになっていないが古文書(田光甚八附込日記)
の慶応元年(1865)9月1日の記事に「天気よし新町屋台、横町土居まで来る雨降り出す。」との記述がありこのとき既に屋台があったことを裏付けている。また口伝では江戸大角力雲竜一行が栄林寺で巡業した年かそれに近い年とされている。巡業の年は元治元年(1864)だから、慶応元年より前から屋台が曳かれていたことは確かである。


1.天竜浜名湖鉄道・気賀駅(直虎一日乗り放題券で乗車)
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2.列車が来ます!
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3.車窓から見る風景!
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4.西鹿島駅で乗り変え「二俣仲町駅」に着くと「清龍寺」の案内板が目立ちます!
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5.本田総一郎伝統館前を通りますが、時間の都合でスキップです!
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6.二俣諏訪神社が右手上に見えて来ました!
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7.中々見事な神社です!
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8.同上
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9.下記をクリックして、「動画」で「二俣まつりでの山車の巡航」を見て下さい!
https://youtu.be/qb-F4akG7k4


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2017/7/25

遠州浜松を見る!16、気賀の関所跡と大河ドラマ館!  文化財研修記

浜松北区の井伊谷の龍潭寺バス停からラッピングバスで気賀関所跡・大河ドラマ館へ向かう。所要直虎のラッピングバスで15分でした。姫街道の歴史は古く、縄文時代にまで遡ることができますが、いわゆる「姫街道」と現代でも称される街道は、天正15年(1587)に、本多作左衛門が要所に新宿を設けたことから始まりました。その後、道路も次第に整備され、人馬の継所として発展してゆきました。慶長6年(1601)には東海道宿駅の制が幕府によって定められ、この街道も「東海道本坂越」と名づけられました。この街道は東海道の脇街道、脇往還で、見付から東海道と別れて市野に入り、気賀を通って三ケ日に出て、本坂峠を越えて嵩山(すせ)を通り、豊川を渡って御油(ごゆ)で最終的に東海道と合流する15里14町(約80キロメートル)の道程でした。街道の主な目的としては、浜名湖入口の渡しを避けることにありました。当時、浜名湖を渡ることは大変危険であったためです。宝永4年(1707)10月4日における大地震では、壊滅的な打撃を受けた浜名湖南部を迂回するため、被害の少なかった姫街道はそれまで以上の賑わいとなりました。あまりの混雑ぶりに、宝永7年(1710)には幕府により大名の本坂越通行が禁止されましたが、交通量は減ることはありませんでした。その後も幕府から度々禁止令が出ることにより、街道はようやく落ち着きを取り戻しましたが、公家や武家の奥方、姫君女中衆はこの街道を使用し続けました。これにより本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれるようになりました。気賀の関所は、この本坂道を監視するために慶長6年(1601)に徳川幕府によって設けられ、箱根、今切(新居)の関所とともに江戸に対する重要拠点となりました。慶長10年(1605)には気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失しましたが、関所は被災を免れました。このような状況から、関所では何度も茅葺の屋根を瓦葺に改装する願いを出しましたが、「権現様(家康)のとき茅葺であった」という理由で却下され続けました。その後実に100年以上経ってから瓦葺となり、幾つかの大災害をくぐり抜けて、規模と構造はほぼそのままに明治時代まで残りました。この大河ドラマ館横の「気賀の関所跡」は後日、離れた場所に再建されたものですが、一見の価値はあります。


1.龍潭寺バス停のラッピングバス
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2.左下側に気賀の関所と直虎大河ドラマ館があります!
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3.再建された気賀の関所門
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4.役所
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5、武士階級お調所
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6.庶民のお調所
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7.大名駕籠なども展示されています。
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8.再建された気賀の関所跡のすぐ横には「直虎大河ドラマ館」があります。
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9.場内撮影可能!着用された衣装の一部です!
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2017/7/23

遠州浜松を見る!15.井伊谷城跡(いいのやじょうあと)と麓の館との関係!  文化財研修記

浜松市北区引佐町には井伊谷(いいのや)城跡と館跡がある。平安時代末期、井伊家初代当主・井伊共保によって築城されたと伝わっている。南は三方からの敵の動きが分かり、北は標高が高い山が連なっており、攻めにくい地形に造られている城である。本丸、二の丸、三の丸などで構成されていた典型的な山城である。戦国時代以前は三岳城が井伊氏の本城だった。南北朝時代の記録は、三岳城を「井伊城」としている。この2つの城の関係はよく分かっていないが、南北朝時代は、井伊谷城が、普段、井伊氏が戦がないときに生活していた居城で、三岳城が、戦になったときに立て籠るための詰め城だったとされる。(しかし、戦国時代の井伊家の詰め城は三岳城から、背後の山に変わった。)南北朝時代の井伊道政は南朝の後醍醐天皇の皇子宗良親王を助け、井伊谷城に招いた。親王は道政の娘を正室として迎えている。また宗良親王の子・尹良親王も井伊谷城に生まれたと伝承されている。親王は井伊谷や遠江国についての歌を多く残しており、井伊谷城跡の山裾には宗良親王と、多遅摩毛理(古事記・日本書紀に登場する男性)とを祀る二宮神社がある。井伊谷城は、暦応3年(1340)に北朝方(室町幕府)の高師泰・仁木義長らに攻められ落城した。その後、井伊氏は、駿河の遠江守護となった今川の支配下に置かれることになった。戦国時代になると、井伊氏は今川に従軍する。永禄3年(1580)に21代目当主・井伊直盛が桶狭間の戦いで戦死。その後家督を井伊直親が継いだが、今川に謀反を疑われ掛川で殺害される。その後、直親の一児・虎松(のちの井伊直政。徳川四天王の一人)が城主となるまでの期間、井伊直虎(井伊直盛の娘で元井伊直親の婚約者)が城主を務めた。城の南にある井伊氏の菩提寺・龍潭寺は井伊谷城の防衛の役割もあった。直虎は井伊家を任されてからも身を寄せていた龍潭寺に留まることはできたが、井伊谷城に移る決断をした。理由は井伊家を継ぐのが確実な虎松に武将としての振る舞いを城できちんと学ばせる為と、城が醸し出す「戦場の一部」という雰囲気に慣れさせるためだと考えられている。今川で直虎への反感を持つ者が多くなった事と、甲斐国の武田氏が駿河国に侵攻してきたことによって、今川寄りの家臣小野道好が今川氏真から、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢せよとの命を受け入れたことで、直虎は城主の座を奪われてしまい、直虎と虎松は龍潭寺に追いやられてしまう。しかし、武田信玄が亡くなった事で武田の力は弱くなり、徳川家康と井伊谷三人衆の力を借りて直虎は再び井伊谷城を取り戻した。(ウイキペデアより一部抜粋・加筆)

1.井伊谷周辺図
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2.地域遺産センターで井伊谷城関係を見る!
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3.典型的な山城と麓の館の位置!
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4.雨降りなので「井伊谷城跡(城山公園)」へ登るのは中止する!
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5.地域遺産センターで撮影
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6.井殿の塚の駒札
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7.井殿の塚(天文3年(1544)、家老の小野道高の讒訴で謀反の疑いを掛けれれ、駿河で今川義元に殺された井伊直満と弟の直義のお墓。
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2017/7/21

遠州浜松を見る!14.井伊家の氏神・渭伊神社と天白磐座遺跡!  文化財研修記

浜松市北区引佐町井伊谷1150には玉依姫命・品陀和気命・息長足姫命の三神を祀る式内社で井伊家の氏神の渭伊神社(いいじんじゃ)がある。「井伊共保公誕生の井戸」付近は、昔は渭伊神社があったとされています。昔から井伊谷地域「井の国」の中心として、井戸や井水を祭祀対象として信仰されてきました。平安時代、井伊家初代の井伊共保公が渭伊神社内の井戸で誕生したことから、「渭伊神社」は井伊家の氏神となりました。南北朝時代に龍潭寺境内から現在の場所に移転したと言われています。渭伊神社裏には古墳時代より祭祀場として使われた巨石群があるので、信仰上あえてこの地が選ばれたのでしょうか。ご祭神は玉依姫命・品陀和気命・息長足姫命の八幡の三神を祀ることから、「正八幡宮」「渭伊八幡宮」とも呼ばれた時期があったようです。大河ドラマでは第1回この巨石がある天白磐座遺跡(てんぱくいわくらいせき)が登場しています。井伊直虎・井伊直親・小野但馬守の子ども時代の子役達が村人達を助ける「竜宮小僧」を探し回る場面で、この場所が使われました。

1.渭伊神社の鳥居
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2.渭伊神社の標柱
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3.拝殿と後部の本殿を斜めから見る!
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4.拝殿を正面から見る!
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5.見事なご神木
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6.駒札 1、
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7.駒札 2、
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8.天白磐座遺跡へ登る!
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9.本殿を横から見る!
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10.駒札
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11.天白磐座遺跡の一部(雨のため大河ドラマ第1回目の竜宮小僧を探す雰囲気は無かった!)
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2017/7/19

遠州浜松を見る!13.おんな城主直虎と南渓和尚の位牌のある妙雲寺!  文化財研修記

浜松市北区神宮寺28−3には渭伊神社の参道入り口にある鳥居脇に建つ妙雲寺(みょううんじ)がある。井伊直虎と龍潭寺2世住職・南渓和尚の位牌が安置されています。直虎の位牌は2015年11月に位牌堂の裏側から、南渓和尚の位牌は2016年1月にそれぞれ発見されました。2人の位牌は毎週土・日および祝日の午前9:30から午後4:00まで一般公開中です。ケースに収められていますが、戦国乱世を生き抜いた女城主の位牌を間近に見られる絶好の機会です。本堂内の床の間には直虎の大叔父にあたる南渓和尚の肖像画も飾られています。

1.井伊谷周辺図
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2.妙雲寺の山門
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3.駒札
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4.本堂
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5.右、南渓和尚の位牌、左、直虎の位牌
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6.同上
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7.位牌をフラッシュを出して撮影は出来ないので「パンフレット」を見て下さい!
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8.直虎のお墓は妙雲寺の敷地ですが、ぽつんと一つ立っています!
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2017/7/17

遠州浜松を見る!12.井伊家の家祖・井伊共保(ともやす)公出生の井戸!  文化財研修記

浜松市北区引佐町井伊谷には井伊 共保(いい ともやす、寛弘7年1月1日(1010年1月118日)〜寛治7年8月15日(1098年9月8日))84歳の長命で亡くなったは、平安時代の人です。遠江守藤原共資の養子で井伊氏初代当主です。井伊谷にある伝井伊共保出生の井(浜松市指定史跡)寛弘7年正月元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主が御手洗の井の傍らに男児の捨て子を発見した。その子の顔立ちは端麗で瞳が明るく、聡明であったという。7歳の時、神童と称され、その噂を聞きつけた遠江国司藤原共資の養子となり、藤原共保と称し共資の一女と婚した。長元5年(1032)家督を継ぐと故郷の井伊谷に居館(井伊谷城)を構えて井伊氏を称した。1093年、84歳で没し、八幡山地蔵寺(現:龍潭寺)に葬られた。また別説として、延喜年間に奈良より荘司として着任した三宅好用が井伊谷に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資に嫁し、共保はその実子として生誕したとも伝えられる(三宅氏の家紋は井伊氏と同じく橘です)。ウイキペデアより抜粋掲載。)

1.井伊谷周辺図
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2.正面の道は通れず横の板で作られた道を通って「井伊共保公出生の井戸」を見に行く!
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3.その井戸
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4.「井伊氏祖備中守藤原共保出生之井」と記された碑!
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5.時の大老・井伊直弼の歌碑・嘉永4年(1851)6月5日龍潬寺を訪れた時の歌碑!
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2017/7/15

遠州浜松を見る!11.臨済宗妙心寺派の古刹で井伊家伝来の墓地のある龍潭寺!2−2.  文化財研修記

浜松市北区引佐井伊谷1989には臨済宗妙心寺派の古刹で虚空蔵大菩薩を祀り井伊家歴代のお墓のある龍潭寺(りゅうたんじ)がある。寺伝によれば天平5年(733)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺であったが寛治7年(1093)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされる。元中年間(1384〜1392)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したともいう。戦国時代の永禄3年(1560に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。ちなみに龍潭寺のある井伊谷は井伊谷川と神宮寺川が合流する流域にあり、水が豊富にある。龍潭寺の「龍」は水神の龍でもある。直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、直盛の娘で直親の死後の永禄年間に井伊家を取り仕切った井伊直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。井伊家伝記によると、小牧・長久手の戦いにおいて井伊直政が先手大将として出陣する際に、寺に伝わる「日月松有之金銀の扇子」を陣扇として授けたとされる。関ヶ原の戦いの戦勝にともない、井伊氏が近江国に転封となってからも井伊氏の外護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられた。又、小堀遠州作の国指定名勝の「龍潭寺庭園」もあり、見事な景観が見れる。

1.本堂に入った所の仏像!(丈六の釈迦如来坐像ですね!)
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2.ご本尊「虚空蔵大菩薩」様を祀る見事な須弥壇
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3.ご本尊の左側には尼僧姿の直虎公が祀られています!
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4.本堂から仁王門を見ます!
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5.開山堂に向かう回廊の欄間には見事な龍の彫刻があります!
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6.開山堂への途中に祀られている地蔵菩薩立像です!
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7.井伊家寄進の籠
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8.井伊家寄進の赤備えの具足
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9.歴代の住職が祀られている開山堂内!
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10.開山の黙宗瑞淵大禅師が祀られています!
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11.井伊家霊殿への入口
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12.井伊家霊殿内(24代井伊直政公木像も祀られています。)
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13.本堂裏側には「小堀遠州作庭の国名勝・龍潭寺庭園}の一部です!
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14.同上
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15.下記をクリックして、「動画」でこの見事な庭園全体を見て下さい!詳しい説明も動画に掲載していますよ!
https://youtu.be/CRPcL5MjnN4


16.龍潭寺の「ナギの巨木」樹高19メートル,幹周2.6メートルもあります!
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2017/7/13

遠州浜松を見る!10.臨済宗妙心寺派の古刹で井伊家伝来の墓地のある龍潭寺!2−1.  文化財研修記

浜松市北区引佐井伊谷1989には臨済宗妙心寺派の古刹で虚空蔵大菩薩を祀り井伊家歴代のお墓のある龍潭寺(りゅうたんじ)がある。寺伝によれば天平5年(733)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺であったが寛治7年(1093)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされる。元中年間(1384〜1392)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したともいう。戦国時代の永禄3年(1560に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。ちなみに龍潭寺のある井伊谷は井伊谷川と神宮寺川が合流する流域にあり、水が豊富にある。龍潭寺の「龍」は水神の龍でもある。直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、直盛の娘で直親の死後の永禄年間に井伊家を取り仕切った井伊直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。井伊家伝記によると、小牧・長久手の戦いにおいて井伊直政が先手大将として出陣する際に、寺に伝わる「日月松有之金銀の扇子」を陣扇として授けたとされる。関ヶ原の戦いの戦勝にともない、井伊氏が近江国に転封となってからも井伊氏の外護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられた。又、小堀遠州作の国指定名勝の
「龍潭寺庭園」もあり、見事な景観が見れる。

1.龍潭寺境内図
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2.雨の山門
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3.松岳院跡地の駒札(画像をクリックされると拡大して読めますよ!)
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4.松岳院跡地
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5.仁王門
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6.駒札
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7.井伊直政出世の地碑
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8.同上 駒札
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9.鐘楼(本堂やこの鐘楼など6棟は江戸時代のもので県指定有形文化財です!)
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10.本堂(内部は次回で見学します!)
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11.井伊家歴代のお墓へ向かいます。この建物は開山堂です!
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12.開山堂と後部の井伊家歴代を祀る霊殿です!
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13.井伊家歴代のお墓!おんな城主直虎のお墓もあります!
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14.同上 駒札(画像をクリックすると拡大してよめますよ!)
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15.井伊家家臣団のお墓についての駒札
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16.井伊家家臣団のお墓の一部
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