2008/7/13
さて、紫式部が仕えた一条帝の后・藤原彰子ふじわらのしょうしとはどんな女性だったのでしょう。
藤原彰子は藤原道長を父とし、源倫子みなもとのりんしを母として生まれました。長保元年(999年)に一条帝に入内し、女御宣下を受けました。このときわずか十二歳でした。
彰子が一条帝に入内した時、すでに一条帝の許には藤原道隆みちたかの娘・藤原定子ていしが入内しており、一条邸から一心の寵愛を受けていました。ですが、この頃定子には後ろ盾とも言うべき父・道隆もなく、同母兄の伊周これちかも政権争いに破れ左遷・配流の憂き目に遭うという不運に見舞われていました。そんなことがあっても以前と変わらず一条帝の寵愛を受け、定子は内親王を儲けていました。そして、奇しくも彰子が女御宣下された日に親王(のちの敦康親王あつやすしんのう)を出産していたのでした。
そんな寵愛深い定子のいる後宮に入内した彰子はまだ幼く、懐妊の兆しはなかなか訪れませんでした。そんな中、皇后となっていた定子が難産の末死去したことで、名実ともに一条帝の一の后・中宮となってた彰子は寛弘5年(1008年)9月、敦成親王あつひろ(のちの後一条天皇)を、翌年にも敦良親王あつなが(のちの後朱雀天皇)を出産するのでした。
そんな彰子の許には紫式部をはじめ、赤染衛門あかぞめえもん、和泉式部いずみしきぶ、伊勢大輔いせのたいふという錚々たる歌人たちが女房として出仕しており、華麗な彰子の一大サロンを形成していたのでした。
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