恋憐歌:詩・恋歌・短歌みたいなものを,つらつらと書いています
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2008/4/27
さて、藤原高子の他にも伊勢物語に登場する在原業平の恋のお相手として、名が挙がっている女性がいました。それは、伊勢斎宮だった恬子内親王やすいこないしんのうです。
恬子内親王は文徳天皇の皇女で、母は紀静子、同母兄は惟喬親王これたか。彼は文徳帝の第一皇子でありながら、藤原良房よしふさらの画策によって皇太子になれず、良房の娘・明子あきらけいこの生んだ惟仁親王これひと(のちの清和天皇)が生後すぐに立太子されました。在原業平は惟喬親王に仕えていましたが、親王は業平の父が第一皇子でありながら、皇太子になれなかった事を自分の身に置き換えて、共感するものがあったのではないでしょうか。業平は彼の従妹を妻としています。
さて、文徳天皇が天安二年(858年)8月に崩御したことにより、清和天皇が即位すると、恬子内親王は翌年伊勢の斎王に卜定ぼくじょうされました。その後、宮中に設けられた初斎院、野宮と場所を移しながら潔斎精進を重ね、貞観三年(861年)九月、伊勢へと旅立っていったのでした。貞観八年(866年)に母・静子が亡くなりました。普通は帝の代替わりや親・近親などの死去によって任を解かれ、都に戻ってくるものなのですが、このときは斎宮を去ることなくそのまま留まります。貞観十年(868年)には同母兄の惟条親王が亡くなり、貞観十四年(872年)には、惟喬親王が病を理由に二十九歳の若さで出家し、山城国愛宕郷の小野に隠棲してしまいました。貞観十八年(876年)十一月、陽成天皇が譲位したことによって、ようやく恬子内親王は任を解かれ、都へ戻ってくることとなりますが、翌年、妹の珍子内親王よしこが亡くなると、親しい人はすでに彼女の周りにはいなくなっていたようです。ですが、彼女本人はその後も生き続け、醍醐天皇だいごの御世、延喜十三年(913年)六月に無品のまま薨じました。
伊勢斎宮の任を解かれた頃、内親王は三十歳くらいでしたが、その後も結婚はしなかったようです。斎王だった女性は結婚しなかったことの方が多かったようですが、奈良時代では光仁天皇の后となった井上内親王や桓武天皇の妃となった酒人内親王、平安時代では村上天皇の妃となった徽子女王などいますので、結婚できなかったということはないでしょうが、やはり「斎王=神の妻」となった女性ということで、敬遠されたこともあったのでしょう。事実、ほとんどが天皇の妃となっています。ですが、彼女たちにしてみれば、幼い頃に両親・兄弟姉妹たちと別れ、都を遠く離れ、親しい人もいない伊勢の国へ行くことは、辛いこともあったと思えます。彼女たちの中には伊勢の国に行く前に亡くなったり、たどり着く前に死去したり、斎宮で死去した斎王もいたようで、仮に無事任期を勤め上げ帰京したとしても、親しい人がすでに亡くなっていたり、晩年は寂しく過ごすことになる女性もいたようです。
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