土砂降りの雨雲を超えて、東京から青森へ戻った。冷やかな空気は芳しく、雲間に現れる高く深い夜空に、星はまたたいていた。清らな風に息をついた。
真心の励ましを惜しまれない先生方とすばらしき先輩方との懇親会で、遠方からわざわざ足を運んだ卒業生として最後に紹介された。思わぬことで、とまどったが、そこで、生きた絵画のような美に囲まれて生活していることを語った。
話終えたら、その日、会話が弾んだ教育哲学の先生が、再び強い握手を求めに来てくださった。この先生は、東大から8年前に移っていらして、いつも大変快く迎えてくださる。
院の仲間や後輩らは、「宗教団体の教祖のようで、皆が引き込まれてしまっていた」「演劇か朗読をしている人かと思った」「その存在感とオーラで、・・・ワールドになっている」「相変わらず、大変お美しい」「天衣無縫というか、一言で言えば『イノセント』」などと、おだてる。からかわれているような感じがした。
もっとも、翌日、いとこに意識の在りようについて語り、「自分と同じように、この話を必要としている人は多くいる。世の中の役に立つと思う」と言われた時、占い師か、教祖になったほうがいいのかもしれないと思った。
さて、「美しい自然に抱かれて」という表現は、私の感性とずれている。
もちろん、「美しい環境に囲まれて」という表現も、しっくりこない。
それは、まるで水に浸っているかのように、私と自然環境とは、相即の関係にある。それは、精神、肉体、全身において。それを、どのように表現したらよいのか分からず、言葉に詰まり、先のような安易な表現をすることになる。
自然に浸って生活している。
自然と共に生活している。
生きた絵画のような自然という舞台で生活している。
美しい自然の内に生活している。
どれも、ぴったりしない。
環境は私たちを取り巻くものではなく、私たちがそこに在るもの。それは、鏡に映る自分の姿を見るような対象ではなく、意識において私たちが一体となったり、別個となったりするもの。
この感性について、自然について、よく考えるために、和辻の『風土』を書棚から下ろした。
私は、北国の風土において、自然と交わって生活している。自然、環境、そして風土も、この交わり、関係性のことであるし、宇宙の営みや連関のことである。
自然、環境、風土に、繋がりにおいて、感性は息づく。
一方で、それらに左右されない、精神の内に広がる幻視の世界がある。こちらは、渋谷駅のホームでも、山手線の車両の中でも、その次元に移り霊感を受けることができる。そこに、自然の美や霊気は必要ない。
この二つの聖域と交感して暮らし続けたい。やっぱり、神秘主義系か。
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