2008/7/8
生命樹の本体
20・7・8
昨日の芙蓉峰のビジョンが、何であったのかが、今朝のビジョンで明らかに成って来た。其れは、生命情報発信のアンテナが「珪素・シリコン・ヌカ」であり、其のヌカ「松果体・額(ぬか)」が、全宇宙の森羅万象を支えており「時空」を支えていると言う理・ことである。
其の領域を、無意識の世界とか、仏(ほとけ)の世界とか、生命(いのち)の世界とか呼んで来たのである。
今朝のメッセージの映像は、黒い「えらぶうなぎ・エラブ鰻」の稚魚が、十匹程地底の水溜りの中で、泳いでいるのが映り出されて来た。次に、私の持っている辞書の「漢語林」と「古語辞典」が、左上の床の間の棚か、右側に有る玄関の下駄箱の横に、置かれる場面が映されて来た。
其れは、是から外界に泳ぎ出して行く稚魚達が、広い海原で、何を基準に生きて行くかを示唆して来ている。
「エラブウナギ」とは、屋久島の横に有る「口永良部島・くちのえらぶ」に生育する海蛇の事であり、「沖永良部島・オキノエラブ」と同じく、海蛇が産卵に上陸するので、其れを捕まえて食料にしていた古代海人が、島名に食べ物の名前を付けて、呼んでいた名残りを示している。其れは、屋久島が「鹿・やくの島」である事で理解出来る。其の蛇を、「エラブ」と呼んで居た事が「選ぶ・選択」の概念を表す言葉として、現在まで伝わっているのである。だから、世界中の古代宗教には蛇が絡んでいるのである。
漢字の「選」は「行+共+巳+巳」の組み合わせで、字義は「自分の中に 2匹の蛇が共に住んで居て どちらに行くかを競って 選択する。」の意味である。其れは、人間の脳の古代皮質である、蛇の脳の働きを意味しているのである。其の蛇の脳が、人間の自律神経を司り、ホルモン分泌の調節を行っているのは、現代科学の常識である。そして、其の理を知って居た釈迦牟尼佛は、人間は言葉に拠って「悩む(名病む)」ので、物に名前を付けて言葉を使う事を辞めろと、法華経の十二縁起の中で説いているのである。
其れは、日本の惟神の道では当然の理・ことであるので、神社では手や口を清めて拍手を打ち、言葉の元と成る意識を祓うのである。其れが、神社での本当の祓いの意味である。だから日本では、理屈を捏ねると「理屈を云うな」と戒められるのである。其れは、人間の意識が言葉に拠って組み立てられ、其の言葉に拠って「善悪」とか「損得」を考え、悩みを興して、ホルモン分泌を狂わせて病気に成るのである。だから「余計な事をかんがえるな」と言う日本語は「的・まと」を得ているのである。
其の事をはっきりする為に、今朝の映像は「漢語林」と「古語辞典」を映し出して来たのであろう。漢語林は、中国で創られた漢字の成り立ちを記しており、古語辞典は古代の日本語の意味を解釈しているものである。其れが、床の間の棚の上に置くか、下駄箱の横に置くかの「選択・チョイス・エラブ」が、今朝示されて来たのである。
其の意味する事は、言葉や文字を飾り物にして拝むのか、自分が歩く為の履物とするのかを明確に意識しろとの事であろう。
其れ次第で、今度日本から世界に送り出す般若波羅密(弥勒の情報)の智慧が、認められるか非かを示しているのであろう。其れは、智慧を象徴する蛇が、大地を這いながら二枚に分かれた舌先を空中に出し、臭いを嗅ぎながら行き先を選択する事と同じ行動を意味している。現代科学で解明されて来た理・ことは、人間の脳の仕組みが二者選択の情報整理で成り立っていると言うことである。其のシステムが応用され、現在の1か0かという磁気信号システムのコンピューターが開発されたのである。其の、磁気信号システムが人間の脳でも働いており、其のシステムこそ古代皮質である蛇の脳なのである。
其の古代脳のアンテナが、「珪素・シリコン・ぬか」の純粋な結晶体である、「松果体・松毬・第三の目・額の印」なのである。其の「シリコン・珪素」は、地球の酸素を除くと次に多い物質であり、大地を形成しているのは珪素であると言うことになる。だから地球上の全生物は、珪素を身体の基礎にして、水で循環機能を作り出して蠢いているのである。だから動物だけではなく、地球の全生命の意識の目は「珪素・シリコン」の周波数で開かれていると言うことに成るのである。
だから、其の宇宙の神秘を知ろうとする人間は、大地に額付(ぬかず)いて祷るのである。其れは、自分の意識と大地を結び付け様とする行為なのである。
そして、其の「珪素・シリコン・ぬか」の周波数の、携帯電話のスイッチが入って「本機・プロバイダー」に繋がる事が「覚醒・かくせい」であり「ブッダ・仏(成仏)」に成ると言うことなのである。そして、其の珪素の携帯電話で送られて来る情報が、全生命の情報と言う事であり、其れを釈迦牟尼佛が悟った世界、チャンネルした世界として、「仏の世界」と云うのである。だから、釈迦牟尼佛の謂う「衆生一切我が子」とか、天皇が謂う「国の民草」とは、其の携帯電話を持ってシリコン情報センターと遣り取りを開始した者の言う言葉なのである。
昨日の映像は、其の本機が日本の芙蓉峰・富士山であり、世界の峰に其の情報が発信されると言う事なのである。其れは、千葉県房総半島の東の鼻先で、海に揚がる太陽を観ながら育って、釈迦牟尼佛の法華経の神髄に触れた日蓮が気付いた事であり、日本の芙蓉峰から世界に向けて公宣流布が行われると預言したのである。昨日繋がった岩手の天海さんは、宮澤賢治の気持ちの代弁者と成っており、其の宮澤賢治は日蓮宗法華経の行者である。其れに、日本から世界に新しい精神革命が始まると、終戦の日天皇陛下の玉音放送の後に、神に告げられた矢追日聖の家も、代々日蓮宗の熱心な家系なのである。
其れ等の事柄を考えると、日蓮にも「ククルカーン・白山菊理姫」の御加護が有った事に成るし、其れは道元禅師と守護霊が同じであると言う事になる。道元禅師の教えの元は摩訶迦葉尊者で、法華経は舎利弗が聞き取りした釈迦の説法である。其の、摩訶迦葉尊者と、舎利弗は、同じ釈迦牟尼佛の十大弟子のメンバーである。其の事を考えると、是から様々な方向に分裂していた釈迦牟尼佛の教えが、白山菊理姫・ククルカーンの働きで1つに成るとの事ではないだろうか。其の様に考えると、今朝現れたエラブウナギの稚魚達は、地涌の菩薩と言うか、新時代の法華経の行者の誕生を意味しているのかもしれない。
そして、今朝、辞典が床の間の棚の上と、下駄箱の横に置かれていた映像の意味は、言葉は飾って拝むモノではなく、自分が歩く為の履物にする方が正しい「選択・チョイス・エラブ」である事を示唆しているのであろう。其れは、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」や「天照大御神」等と書いたお札を、床の間や仏壇に掛けて拝むのではなく、言葉や文字の存在は、自分が正しい道を歩く為の履物であり、道標であるとの理を示して来ているのだろう。
其れは、お金儲けや、権力獲得の為に、日常の行為を行っている者が、神棚や、仏を供養する仏壇に文字を書いた札を下げて、拝している事の間違いを指摘している。神や仏の名を書いた札を拝する事は、神や仏の行いが、自分にも授かる為に祷るモノであり、自分のエゴが増幅する事を願うモノではないのである。其の事を明確にしなければ、此の日本から新しい精神革命が起きる事には成らないのである。
現在の日本の状況は、テレビ番組の内容が世界一低俗であるし、食べ物に添加物や防腐剤が混入されているので人体が汚染され、世界一自然流産や奇形が多いし、先進国の中で1番食料自給率も低い国である。其れに、世界一地震の多い国であり、津波の心配も有る。其れ等の事を考えると、此の日本国は世界のお手本として良い国に当るどころか、悪い手本なのである。其れを考えると、是から日本で起きる事は、カルマの浄化であり、其の浄化の中から、新しい菩薩が、人心救済の為に立ち上がるとの事なのかもしれないのである。
私の師は「自適さん 広島や長崎に原爆が落とされたのは 広島や長崎のカルマが強かったからだ。」と云ったのである。其れは、広島や、長崎や、予定地であった小倉の町が軍事産業の港町であったからだとの事である。其の事を考えると、暴飲暴食を競ったり、世界一食べ物を捨てたりしている此の国は、1番先に天罰を下されても文句が言えない状況である。だからこそ、私が其の国難を避ける為に、選ばれたのかもしれないのである。
今朝の映像には、整理された文章が次ぎ次に映し出されて来た。其の完成された文章の意味は、日本に新しい価値観の理論が組み込まれ、正しい言霊・ことたまが世界に向けて発せられる準備が整った事を意味しているのかもしれない。そうであれば、其の言霊が発せられる準備を整えなければ成らないと言う事である。其れが、昨日の芙蓉峰のメッセージだったのかもしれない。
国産である日蓮の意識が、今どの程度までレベルアップをしているのかは解からないが、此の文章に「日蓮」の名と、「公宣流布・こうせんるふ」の言葉を打ち出した処で、私の身体に身震いが来た。其れは、日蓮の霊魂の喜びか、興奮が有ったからの症状だったのかもしれない。其の身震いが、日蓮1人のモノではなく、空海や、最澄や、一休や、歴代の天皇霊までが後押ししての事であれば、私に24年前に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が、念いを叶えたと言うか、愈々本番を迎えて此の三次元世界に現れるとの事なのかもしれないのである。
其の様に考えると、20年振りに、4311人の霊魂の先頭に立って姿を現した私の父親が、6月24に母親の所の還って来て、同衾した事の意味も理解されてくる。
私の父親は、私が17歳の秋に、49歳で此の世を去っている。其れが、38歳の6月4日に、20年振りに4311体の霊魂を伴って現れ、「お前に苦労をさせたのは お前の精神を鍛える為であった。もう大丈夫だから 此の人達に身体を貸せ。だけど仕事だと想うな。遊びだ 遊びだと考えろ。」と告げたのである。其の夜から、霊魂の侵入が始まり、私の手足や口は、私の意識とは違う動きを始めて、私は自分の身体のコントロールが利かなく成ったのである。
其の日から、24年の月日が経過し、ようやく私の父親は、其の大役から外されたのではないだろうか。其れは、私の意識から4311体の霊魂が外れても、私の意識が崩れ去る事が無く成ったからではないのだろうか。そうであれば、是から私は、何事も自分の顕在意識で判断しなければ成らないと言うことである。其れは、空海の謂う「虚空蔵菩薩求聞持法・こくうぞうぼさつぐもんじほう」が私の意識に収まったとの事なのかもしれない。そうであれば、昨日のビジョンで、富士山を背景に世界の山々の連峰を見回していた光景は、私の修了書であったとの事ではないだろうか。
そして、人間の意識に「生命樹」や「時間の柱」として考えられ、七夕やクリスマスツリーとして、樹木が立てられるのである。其れに、聖書に登場する蛇の住む林檎の木も生命樹であり、カバラの秘儀も生命樹を基本としている。だからこそ三輪山等の三室山にも蛇が住んでいるし、アステカのピラミッドにも大蛇が巻き付くのである。其のイメージの奥には、「珪素・シリコン・ぬか」で立ち上がった芙蓉峰が隠されていたのである。其れが、弥勒菩薩が住んで居ると伝えられている「兜率天・とそつてん」が存在する、「須弥山・しゅみせん」と言う事ではないだろうか。
昨夜は、午後訪れた大山高則氏と一緒に食事をした。大山高則氏には、毎回来る度に釈迦牟尼佛の御霊が付いて来ていたし、今年に入って大山高則氏と夜食事をする日は、毎回私に関する何かの記念日なのである。其れなのに、昨日7月7日は七夕節であるだけで、是と言った記念日ではなかったのである。其れを考えると、昨日芙蓉峰が映って来た事と関係が有り、7月7日は私の新しい記念日であるとの事なのかもしれない。
私は父が死んでから、自分の力で始めた事は牛飼いであるので「彦星・牽牛」と関係が無いわけでもないのである。能くは解からないが、何か目出度い事が起きている事だけは間違い無さそうである。
平成20年7月8日15時40分
礒 邉 自 適
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