阿房宮(あぼうきゅう)
20・9・6
今日の日付けは9月6日で、6月9日の反対向きの数字である。今朝は、茨城の森山さんから電話が有り、右下から左上に薄いグレーの龍が上るのが見えたと知らせて来た。
私には、明け方「あぼうきゅう」との言葉が伝えられて来たので、PCで検索して見ると阿房宮(あぼうきゅう)と有り、中国の秦の始皇帝が造営した宮と載っている。
どうやら、相対的な世界が、今日から動き出した様な気配である。
昨夜は、早めに宿舎に帰ってシャワーを浴びてベッドに入ると、やたらと和歌の枕詞が頭に出て来るのである。其れは、9月1日から、脳髄の中に和歌のフレーズがこびり付いている様な感覚が有ったので、其の事が表層意識に上がって来たモノ・現象の様である。其れは、日本では「敷島の道」と言って、自然の風景の中に、自分の気持ちを詠み込む和歌の世界を意味している。其れは昨日、「天智天皇」と「昭和天皇」の気持ちが伝えられて来た和歌に触れた事に関係が有るのだろう。
昨夜は、「秋茜 霊宿星見ての 虫の声」のフレーズから始まって、「おもてをもて・面を持て」「あにあらん・吾に在らん」「ことといし・言問いし」「こぞこえのうた・去年越えの歌」「あぼうきゅう ことといしみち ふみこえて のにあらん よきひとを なみのせに のせれば・(阿房宮 言問いし道 踏み越えて 野に在らん 善き霊宿を 波の背に 乗せれば)」、「あすこそ ゆきはれたと おもいしや・(明日こそ 雪晴れたと 念いしや)」等有り、「名も無き人々が 伝え残した 惟神の道」と有った。
其の「あぼうきゅう」が、秦の始皇帝の意志を意味しているので有れば、始皇帝の気持ちは都の造営よりも、日本の言霊の世界に興味を持って来ている事に成る。其れを考えると、人類史上最大の相対世界の王の「霊魂・たましい」が、物に対する煩悩から離れて、私の意識に便乗して「次元上昇・アセンション」をしようとしている感が有る。
「言問いし」とは、大祓い祝詞に「神掃(かむはらい)に 掃(はらい)給(たまい)て 言問(こととい)し 磐根(いはね)樹根立(きねたち) 草の片葉(かきは)をも言止(ことやめて) 天(あめ)の磐座放(いはくらはなち)天の八重雲を厳(いづ)の 道分(ちわき)に道分て 天降(あまくだし)依(よさし)奉(まつり)き・・・」に、使われている言葉である。だから「言問いし」の単語は、霊宿・ひとが自然の有り様に問い掛ける仕種を意味している。其れが、「敷島の道(御地)・和歌」に取り組む為の、意識の原点と成るものではないだろうか。其れこそが、「スメラギ・皇帝・天皇」が紫微垣の写し絵である紫禁城の玉座に座る、心構えなのであろう。
今朝は、其の世界まで「みち」が開いたので、白い龍が上ったのではないだろうか。しかし、其の龍は真っ白ではなく、薄いグレー色だったとの事であるから、未だ100%澄み切ってはいないとの事なのかもしれない。其れは未だ、「スメラギ・天皇」の「ミマ・御身」が100%完成していないとの事であろう。
其れに関しては、埼玉の高橋伸氏にメッセージが来ており、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が祀られている浅間神社に、弟(山幸彦)の言霊が入った箱が届けられ、富士山を纏いとして使い、其の纏に綱が張られ、世界中の国旗が下げられていたとの事である。そして、其の国旗の選択の権利は、高橋伸氏(海幸彦)の守護神が持っているとの事らしい。
其れは、文字や言霊の世界で、中国よりも日本が優秀に成ったからとの事である。どうやら、大山祇神の娘である木花咲耶姫は白山菊理姫の化身であるらしい。其れは、大山祇神(大権現・大山の大蛇)の身体を乗り物にしているのが「菊理姫・括る神・ククルカーン」だからであろう。其の様に考えると、私と高橋伸氏は木花咲耶姫の息子の霊魂であり、母親に使われている事に成る。
今朝のメッセージの映像は、私が新型の車に乗ると、何も操作をしていないのに其の侭車が走り出したのである。私は慌てて、ハンドルやギアを捜したのだが、其れらしき装置が着いていないのである。私は仕方が無いので諦めていると、其の車は行き先が判らない様で同じ道筋を何回も往復しているのである。
其の原因を考えて見ると、新しい車は音声で動くのか、行き先を設定しさえすれば、自動的に安全に目的地に着くものらしい。
次は宿舎から、畑に農作業に向かう為に、私は軽自動車に道具を積んで前に出発し、近道をして出来たばかりの新しい道路を通って畑に向かった。処が後の人達は、カーナビに従って走っているので、一端国道に出てから目的地の畑に向かった為に、随分遠回りをして居るのである。其れに新しく出来たばかりの道は、まだカーナビには登録されていないらしいのである。
其れは、コンピュータ制御されている物は、あくまでも人間が入力した情報でしか動かない事を意味しており、入力する情報を持つ人間の方が、しっかりしなければ成らない理・ことを示している。
そして、ようやく畑に皆が着いて作業を始めたのだが、其の日どの様な作業をしたら良いのかが全く判らないらしいのである。其の日の作業は、農作業の中で1番簡単な里芋の植え付けなのだが、その作業さえ出来ないのである。それだと、種の蒔き方の難しいほうれん草や、人参や胡麻等の小さな種撒き等はとても出来ない事になる。
其の意味は、各作物の種蒔きの時期や、収穫の時期を表にして於かなければ成らないし、先ず農作業の手順を1から訓えなければ、急には役に立たない理・ことを意味している。
今朝は最後に「紋斑金・もんぱんきん」との言葉が告げられて来た。私は阿蘇の蘇陽町に住んで居る時に、地元の人達8名と堆肥工場を建て、私は其の責任者として8ヶ月間働いて、軌道に乗ってから若い人に譲って、其の工場を離れた。だから、菌の活動に付いてはある程度の知識は有る。だから「糸状菌(菌類のうちで、糸状の菌糸をもつもの。一般にはカビとよばれる。)」等の事は知っているのだが、「紋斑金・もんぱんきん」との名は、耳にした事が無い。PCで検索しても、其れらしき物は出て来ないのである。
其れだと、どうも実体の有る菌の名前ではなく、其の言葉に意味が有るらしい。紋斑菌との言葉から連想されるモノは、紋斑で拡がる菌の意味であるから、先日のメッセージのビジョンに有った、昆布に着いていた赤錆びの様な、微生物の塊りの様な形態であると謂うことに成る。其れは、陸上とは違い水中での繁殖だから、陸上の糸状菌の様に、横に糸状に伸びて行く必要が無い繁殖の仕方である。
其の意味からすると、空気中でも繋がり無く転移し、繁殖出来る形態の菌が居ると言う事に成る。其れは、単なる菌の繁殖形態の意味ではなく、是からの村造りや、概念の転移が、昔の阿房宮の様な巨大な都の建設や、ジンギスカンの様な国土拡大の侵略的な行動は必要ないと言う理・ことを意味しているのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝「紋斑金・もんぱんきん」との言葉を送り付けて来た神霊は、出雲で1番古い宮である「神魂神社・かもすじんじゃ」の祭神なのかもしれない。
「かもす」とは「醸す」で、酒造りや、味噌や醤油を造る時に、麹菌・こうじきんを繁殖させる意味である。其の醸すに、「神魂」の名を与えている処に、古代人の神の働きの概念が籠められている。其れに、其の神魂神社には、鳥居の原形が伝えられているのである。
今朝のメッセージは、神霊がどの様に働いているかを示して来ている様な気がする。其れは、人間の言葉・言霊が、何処から生じて来ているかである。私には、其の原因が「神霊の思頼・みたまのふゆ」の「神魂・かもす」に有るのではないかと想われる。「かも」とは、京都の上・下両「賀茂神社」の祭神「賀茂別雷大神・かもわけいかづちのおおかみ」の名に有る、「かもの分けは雷」であるとの意味から、「神とは雷である」との事に成り、神・雷は地球上なら何処にでも落ちる事が出来るのである。
其れが、何処に「落ちる・通じる」かと謂えば、人間の首の後ろに有る盆の窪である。其の、盆の窪から入り込んだ神霊の御魂の情報が、神経の中核である古代皮質の蛇の脳に作用して、詩・うたとしての言霊を生み出すのである。其れが、お告げであったり、自動書記であったりするのであろう。其れはまた、言葉だけではなく、人間の感情までに影響を与えているのである。
そして今朝理解されて来た事は、其れを実行するには、自我意識の発動を止める為に、ジーとして動かない訓練と、歯全体の組み合わせが正確であり、顎が定位置にしっかりと固定・安定出来る事である。其れが正しく行われない人間は、スメラギの役割は出来ないと言う事である。だからこそ、今回の岩戸開きは歯医者からなのである。
其れは、日本の「食国の政(まつりごと)」である御饌殿の伝統儀式が、顎が正しく組み合わさっていない者には出来ない事と、是から始まる、アセンションの波動調整に耐えられないからであろう。最後の瞬間に、奥歯を噛み締めて耐えられなければ、意識が崩れてしまい次元上昇出来ないからである。そして其れに成功しなければ、中途半端な段階に終ってしまうので、スメラギにはなれず人間霊に憑依されて、単なる宗教家に成ってしまうのである。
龍のエネルギーが、流れ込んで来る衝撃に耐え切れなければ、スメラギに成る事は不可能であるし、久遠仏として、宇宙の森羅万象の流転を操る事は出来ないのである。此の世は、全て、龍が操る時の中で生じている縁・情報で出来上っている物である。其の縁の主役が、人間なのである。其れは、蝉が羽根の付け根を擦り合わせて鳴いて居り、伊勢海老は角の付け根を擦り合わせて鳴いている事と同じく、人間は頭蓋骨が乗っている咽仏の奥骨の内側に有る、声帯を震わせて声を出しているのである。其の器官を、どう操るかが言霊の世界であり、和歌の世界なのである。
其の場の働きが「阿房宮」の阿房であり、大日如来の「阿」でありマントラの世界である。其の理が、アステカの鏡に現されている「葦の芽・ケイン」であるのだ。私の意識も、漸く「阿・あ」の言霊を抜けて、12時の方位の葦北に辿り着いたのではないだろうか。其処は、紫禁城の王の玉座ではなく、6400万年前に「泉守・イモリ」として隠れ住んでいた、沼の葦の根元である。
1昨日のビジョンに現れた、沼の土の中に棲んで居た、強い吸盤を持ちブラックホールの様に、何にでも喰い付いて吸い込む生き物は、どうやら私自身の姿であった様である。其の生き物は、薬の所為で焼け焦げて死んでしまったが、私の意識は未だ、無言の自然に向かって「言問いし」を止める気配が無い様である。困ったものだ・・・。
平成20年9月6日3時3分
礒 邉 自 適