私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
人の数程世界は存在する
19・10・15
・・・今朝のメッセージの映像は、温泉場の様子が映り出されて来て、其処には泥湯などが有り、人間の癒しの場として利用されている事が示されて来た。
其処には、食べ物や、師や、人材などが、最高のレベルで整えられ、其処を訪れる人間が、何時でも受け入れられる事が可能であることが雰囲気で理解出来た。
此のメッセージの意味は、旧約聖書に載っている「神は 自分に似せて 粘土で人間を創った。」との言葉を裏付けるものであろう。粘土は、アルミと珪素の化合物である。現在の科学では、地球生命は36億年前に、ミネラルの泥の海で誕生した事が明らかに成って来ている。
其れは、植物の根の働きや、人間の胃腸の細胞に、其の始まりのシステムの証拠が残っているので、誰も其れを疑う事は出来ない。例え、宇宙人が存在したとしても、36億年より古い時代の生き物は、此の宇宙には存在しないであろう。そうで有れば、今朝の私のビジョンは、生命の1番古い魂しいの部分が、自分自身を思い出して(覚醒)いた事になる。
今朝のビジョンの世界から考えれば、人間の人格霊を祭祀する神社等には、もう行かないで良いと言う事に成るだろう。其れは、私に起きた神霊の思頼(みたまのふゆ)が、其の目的を果たした事に成るのであろう。
ようやく私に、24年振りに自分の時間が還って来たのだ。しかし、私には、屋久島の自宅も既に無くなっている。其れを考えると、是からが、私の本当の「タビ(家を離れるの意味)」の始まりだと言う事に成るのではないだろうか。其れこそが、釈迦牟尼仏陀や、イエス‐キリストや、松尾芭蕉などの乞食・こつじきの世界なのではないだろうか。
今朝の温泉場が、現実として此の世に存在するのであれば、其処に行って、皆の悟りの手伝いでもするのだが、未だ、現実にはそんな場は無いだろう。
昨日告げられて来た「人間の数ほど世界が在る。」との言葉の意味は、人間と宇宙の関係を示しており、世界は1つではなく、人間は個人個人がそれぞれ宇宙と繋がり、自分だけの世界を構築出来る理・ことを示して来ている。
其れは、人間は、他人の世界を覗いて、其れを、其の侭真似てはいけないと言う事である。そうすれば、自分の世界を持つ事が出来ないと言う事である。
其れが、本来の「神惟らの道」であるのだから、「見ざる・聞かざる・云わざる」の、三猿の訓えが、正しい事に成るのだ。其れを考えると、今朝のビジョンの温泉場も不必要な物に成ってしまうのだが、其れはどうであろうか。
全国の至る所の神社で、今の時刻は大祭の儀式が行われている事であろう。私は、其れ等から解放され、24年前の自分に返っている。いや、もっと、其れ以前なのかも知れない・・・・。
平成19年10月15日
礒 邉 自 適

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2011/2/16
風邪の恩恵
23・2・16
昨夜は、怪我の功名ならぬ「風の恩恵」で大事な理・ことが解った。風邪は、ウイルスに犯されて起きるモノであるが、其の作用で思考回路が停止し、脳の沈静化を伴う。
其れに拠って、神社で行なう禊ぎ祓いの様な効果が有り、通常では有り得ない現象が脳で起きる事に成る。
昨夜は早めに床に就いて、風邪の症状に身を任せていた。そして、自分の脳の働きが、言語中枢で停止している事を理解した。其れは、言葉を紡ぎ出す器官(容器・箱)が、用を成さず、空の侭であると言える状況である。
其の症状に拠って、私の意識は、人生が未経験の赤子の様に、言葉が失われた状況に有った。
・げんご‐ちゅうすう【言語中枢】
大脳皮質にある言語活動をつかさどる中枢。言葉を話したり書いたりする運動性言語中枢、言葉を聞き取って理解したり字を読んだりする感覚性言語中枢などがある。
私は、其の感覚から釈迦牟尼仏陀の謂う十二縁起の内容を改めて考えて居た。十二縁起の内容は、簡単に言うと、人間は歩く事で物を見て、其の物に名前を与えるから意識が生まれ、其の意識で5感が生まれ、悩みが発生する。だから、歩く事・進む事を止めて、言葉を使わず、自分の本性を見詰なさいとの理・ことである。
「十二縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
正に、私の肉体は風邪で動く事が出来ず、ウイルスと戦っている細胞は、36億年前から生き延びて来た、自己保全の戦闘態勢に入っていた。
其れに、今回の症状は呼吸器官だけではなく、胃にまで感染していたので、人体で一番古い細胞である胃腸も、臨界体制に入っていたのである。
其処には、新しい器官である言語中枢の働きなど、出る間が無いのである。
奇しくも、昨日2月15日は釈迦牟尼仏陀の涅槃会(命日)であり、ニュースでは「ルーシーの足には土踏まずが有った」の題で、次の様に載っていた。
・新たに見つかったアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の足の骨から、人類初期の祖先は現生人類と同じ直立二足歩行をしていたことがわかった。アファール猿人は、1974年に発見された「ルーシー」の骨格で知られている。アファール猿人の直立二足歩行はわかっていたが、歩行能力の程度は不明だった。
「今回発見されたアファール猿人の化石は、現生人類と非常に近い足の構造だった」と、この研究成果を知った米ケント州立大学の人類学者オーウェン・ラブジョイ氏はコメントする。「直立二足歩行の決定的な証拠だ」。
約320万年前の中足骨は、アファール猿人の化石が出土しているエチオピア北東部ハダールの地層から発掘された。足の甲に5本ある骨の1つで、足首やかかとを形成する足根骨と指の骨を繋いでいる。
骨のサイズと形状から、アファール猿人の足は現生人類と同様に頑丈で、アーチ型の土踏まずを持っていたことがわかる。この2つの特徴は、地面を蹴り出す強さと二足歩行の衝撃を和らげる役割も持つ。
類人猿の足の親指で物をつかむ能力は樹上生活に都合が良い。一方、アファール猿人は二足歩行の能力があり、もっぱら地上で生活していたと他の化石などを基に推測されていた。
今回の発見で、ルーシーは樹上から地上生活に完全に移行していたと裏付けられた。
類人猿の足は中央が柔軟に曲がり、木登りに適している。アファール猿人にも見られるヒトの強靭なアーチ形状の甲は、二足歩行で効率的に前進できるような構造だと、今回の研究を率いたミズーリ大学の人類学者キャロル・ワード氏は説明する。
アーチ構造は吸収材の役割を果たし、直立二足歩行の着地衝撃を和らげている。 現代でも、土踏まずのアーチが未発達な偏平足の場合、全身の関節に大きな負担がかかってしまう。アファール猿人の足は樹上生活の能力と引き換えに、二足歩行のデメリットに対応する構造に進化したとみられる。
「私たちよりも強靭だったことは確かだが、その分、木登りは下手だったかもしれない。現生人類が約200万年前に出現するはるか昔に、ルーシーは地上で生活していたようだ」とワード氏は話している。
また移動の様子も解明されつつある。「物をつかむ非常に便利な能力を捨てて、二足歩行に適した足を獲得している。生き残りと繁殖において、効率的な地上生活がどれほど重要だったかを物語っている。地上をスムーズに歩き始めた彼らは森林から抜け出し、食料を調達したり、移住先を求めて移動したに違いない」とワード氏は説明する。 〜引用終了〜
我々人類が、大脳の発達させて来たのは、言葉や文字を発達させて来たからである。其の大きな原因に、二歩足で立ち上がって、前方を見詰る事を始めた事が有るだろう。そして、脊髄の上に有る脳髄・古代皮質などが、其の影響で新しい次元を迎えたのだと思われる。
其の、原因の所まで、お釈迦さんは立ち入って行ったのではないだろうか。そうでなければ、釈迦は歩く事を止めて、座禅をしなさいとは謂わなかったのではないだろうか。
そして、人間はお釈迦さんの様に、言葉を使う事を止めて、古代皮質で意識を使えば、他の生物とも意志の疎通が可能と成るのである。
今朝のメッセージの映像では、人間界の意識が完全に2つに分かれる事が示されて来た。其れは、言葉(言語中枢)を、単なる金儲けなどの自我意識だけに使っている人々と、人間が生きる為の環境を全体的に考える人々が、分離し始めるとの事であった。
そして、生き残る為の活動を始める人々が、集まる建物の議長席の様な所に、岡山の愉伽さんが一人ニコニコ笑って座って居た。其の建物は、大きな会社が倒産して、空きビルと成った施設の様であった。
岡山には、「鳴釜神事」が行なわれる「吉備津彦神社」が有る。そして1月26日に、岡山で最大の会社「林原研究所」が1400億円もの負債で倒産し、会社更生法の手続きに入っている。若しかしたら、林原の再生にこそ、新しい社会秩序の創造が隠されているのであろうか。
其の出来事を考えると、確かに社会現象は、大きな転換期を迎えている事は間違いない。海外でも、エジプトを始めとし、貧しい者達が暴動を起こす気配が高まって来ている。
我が国も、食料自給率が30%しかないので、イザと言う時には暴動が起きる事は間違いない。
しかし、其れは天災ではなく、人災で起きる事なので、人間の努力で解決出来る事である。だが、其れに付いて語る政治家は未だ現れてはいない。其れを考えると、少なくても良いから、意識を共有出来る者達を、早急に増やさなければ成らないだろう。
しかし、其の者達の意識が根本から外れていれば、人々の救いに成るどころか、新しい迷い道に誘い込む事にも成る。其の為にも、意識の元に有る言葉・言霊を正しくする必要がある。
経済が風邪を引いてしまえば、取り返しが着かないが、人間が掛かる2〜3日の風邪なら、大した害を社会に与える事は無いであろう。
其れを考えても、今回の風邪の症状は「風邪の功名」と言えるのではないだろうか。
平成23年2月16日
礒邉自適

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2009/12/26
ブッダの周期
21・12・26
どうやら「ブッダ・仏陀」の周期が、今朝示されて来た様である。其れは、表に立つ「基督・キリスト・天皇・統帥権を持つ者」とは違い、もう1つ大きな、裏のサイクルの様である。
昨夜、12時前に宿舎に帰って、シャワーを浴びてから、ベッドに入って目を瞑って居ると、瞼に鏡に映っている映像が現れて来た。其れは、据わって居る私の背後に、1人の女神が立っている映像である。私は其の映像を見て、私が将棋で戦っている向こう側の王将は、もう1人の自分自身である理・ことが解った。
其の意味は、自分の中に公私・陰陽・表裏・損得・善悪が存在し、絶えず競い合っていると言う理・ことである。其れが「えらぶ・選択・チョイス」であり、「ヘルメスの杖」の蛇や、神社の鳥居の「左右の柱」の意味なのであろう。そして、其れを生み出している思考の元は、人間の細胞の中に有る二重螺旋構造の「DNA・遺伝子」の働きなのである。
今朝のメッセージの映像は、6段階に分かれて映し出されて来た。其れは、古事記の「伊耶那美命・いざなみのみこと」から、「天御中主神」までの17段(1+左右の8段)の「神名・はたらき」ではなく、現代風の捉え方である。
先ず始まりは、1段下の左側から映像が始まり、其の映像は、・屋久島町の町議会議員である「日高順一氏」が動物・家畜の糞尿問題を相談に来た。其れは、現在世界中で1番問題に成っている環境汚染問題である。・次に、様々な問題に取り組む為の、若者の活動拠点と成る事務所(溜まり場)が映し出されて来て、既に5〜6人の男性が集まって居た。・次に、学校の様な建物が現れて、壁に子供達が活動している写真等が澤山貼られていた。
其れから、1段上がると、左側から右へ政治家の人達が澤山並んで居た。其の1番左側には、現在の国土交通大臣や、外務大臣等が地位順に並んでいた。
其れからもう一段上がると、今度は右側から左へ、縦書きの箇条書きで是から遣らなければ成らない課題が、数え切れない程、次々に書き出されていった。
其の上の段には、其れ等の事の為に、宇宙の質量が、電磁波がショートして光る様に点滅しながら消費されている映像が映り、其の中心に、やはり光が点滅しているイルミネーションの様に、1人の女性が立って居た。其の女性の名は「紺野美紗子」であると示されて来た。
そして、其の上の段には、大きな木の根元が映し出されて来て、其処は「仏陀・ブッダ」の座であり、釋迦牟尼佛が以前座って、成仏した席である事が示されて来た。
今朝のメッセージの映像は、神の働きの新しい階梯を示して来ているのであろう。一番上の位置は、木の根元に有るブッダの席である。しかし、1番下の始まりは、地表の環境問題であり、やはり、木の根元と同じ地表が舞台である。其れは、全ての事が此の地球の地表に有る理・ことを意味している。
其れに、今朝の映像が町議会議員から始まったのは、公務員に付いて4日連続メッセージが続いている事に成り、「日高順一」の名は「順位が一番」との名であり、姓の「日高」とは日本国が「日高見の国」と呼ばれているので、日本の国を意味している。其の名前からすると、日本国は環境立国であり、其れに付いては順位が一番であるとの意味に成り、「素戔鳴尊・すさのおのみこと」が3000年前に、家族で国土に植林をして回った事が、現在でも天皇家の伝統として伝えられている事を、示唆して来ているのであろう。
其の日本の伝統を、世界に広げる活動の為に、活動拠点と成る事務所が必要との事であるのだろう。若しかしたら、既に、何処かに其の溜まり場は存在するのかも知れない。であるなら、既に活動を開始している人々が居ると言う事に成る。
そして、其の活動で大事なのは、子供達の教育に有るとの理・ことなのであろう。其れは、森山さんの意識がロシアの教会に行き、子供達に接触していた事にも関係が有るのだろう。ロシアで、木を植える風習が有るのかどうかは判らないが、戦争の訓練を子供の時からさせるのは、今朝のメッセージの内容からすると反対の世界である。
そして今朝のメッセージには、数知れない、何百もの箇条書きのテーマが書き出されて来た。其の、縦書きの箇条書きのテーマは、何が書いて有ったのかは、数が多すぎるので何も覚えてはいないが、是から未来社会を創造して行くに当たり、課題が山積しているとの事ではないだろうか。そして、其の課題を解決して行く為には、大臣を初めとする政治家を動かす必要が有る理・ことを示して来たのであろう。
其れに付いては、日本を観光立国にする為に、民主党が予算を倍増させたので、前川国土交通大臣に頼んで、予算を付けて貰う計画を立てると、ビリケンさんが云って居たし、福岡の青年達は、「勝手連」の光永氏と関わりが有り、岡田外務大臣とも会えると云っていたので、全く根拠の無い事ではない。其れに、「勝手連」の光永氏は、アースデーでも数度行動を共にした事が有り、私が居た四国の道場に来たりして、寝食を共にした事もあるので、協力はしてくれるだろう。其れに、末松氏、福山氏、江田五月氏にも会った事は有る。
そして、其の背景に紺野美紗子の存在が有るとの事。紺野美紗子の誕生日は9月8日であり、大本教の出口王仁三郎は9月8日に12の秘密が有ると謂っている。
紺野美紗子(本名・佐藤美佐子)の名が現れたのは、一昨日の映像で、庭に広げて干して有った傘が、東風で飛ばされて、西の空に飛んで行った事に関係が有るのだろう。何故なら、1984年の12月15日?に十和田湖の湖畔に寝ていた時に、紺野美紗子が夢に現れて「パラソル パラソル」と云ったからである。其れに佐藤美佐子の名は、12月2日に告げられて来ており、私の背後にいる守護霊が紺野美紗子であると、祭りの責任者に告げられている。
「神・はたらきの再編成」http://green.ap.teacup.com/20060818/1358.html
何故、「パラソル・傘」と紺野美紗子に関係が有るのだろうか。1984年12月に現れたのは、十和田湖のみずうみであった。そして、一昨日の映像では、干していた傘が東風で西の空に飛んで行き、其の後に、天上から水が流れるブルーホースが、三本降りて来た。と謂う事は、「パラソル・傘」は水と深い関係が有ると言う事に成る。
「パラソル・傘」を検索すると、「雨傘」も元々は「日傘・パラソル」であると載っている。
アンブレラ (umbrella )は、元々は日傘の意味だったが、のちに主に雨傘の意味に使用されるようになり、その後 日傘にはパラソル (parasol )と言う言葉を割当てることが多くなったため、現代ではアンブレラ は雨傘、パラソルは日傘のことを指すことが多い。広義にはアンブレラで総称する。
上から降下してくるものに対して直被しないように防護する目的の用具で、頭部に被って使用する用具である「笠」と区別し、手に持って差しかけて使用する用具の総称をさす。現代においては、通常は雨や雪などの降水時に体や持ち物を濡らさないために使用されることがほとんどであるが、夏季の強い日射を避けるために使用されることも多い。 日本には、欽明天皇の時代に渡来した外来品で、当初はもっぱら日射を避ける「日傘」として用いられていたが、その後日本独自の構造的進化も見られ、降水に対して使用されることが多くなっていった。日本における傘文化の経緯詳細については和傘節を参照。 ―引用終了― ウィキペディア辞典
此の説明に拠ると、「アンブレラ・umbrella」とは「否触れ・アン触れラ」で「直接には触れない」との意味である。其の意味を考えると、メッセージの「日傘・パラソル・parasol」や「雨傘・アンブレラ・umbrella」は、直接には触れないモノを意味しており、何らかの理・ことで「水に直接は触れない」との意味を伝えて来ている。
其の意味は、「一月に35日雨が降る」と言われている屋久島で育った、私の生活とは反対の世界であり、私が感じている水と人間の関係性とは反対である。其れに、「釈迦」や「イエス」や「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が、水の禊ぎに拠り、神の世界に入った事とも反対である。何故なら「禊ぎ祓い・バプテスマ」とは、直接水に触れる事が、決まりと成っているからである。其の為に、神社は清水が流れる川辺に建てられ、鳥居の入り口の所には「御手水」が用意されているのである。
「雨の島だから」http://sun.ap.teacup.com/20061030/21.html
其れを考えると、紺野美紗子が何故「パラソル」と云い、私の背後に守護霊として付いて居るのかの意味が判らない。「美紗子」とは、キリスト教の「ミサの子」を意味しているのであろうか。「ミサ」を辞典で調べると、次の様に載っており、日本の「みそぎ・ミソギ」と同じ様なモノである。
「ミサ(ラテン語)missa」 ・ローマ‐カトリック教会で、イエス=キリストの十字架上の犠牲を継承・再現する重要な祭儀。キリストの体と血であるパンとぶどう酒を、司祭の手をもって神に献(ささ)げ、信者もこれに参与し、キリストとともに神に自分を献げる。ミサ聖祭
・ミサはカトリック教会でおこなわれる聖体祭儀のこと。司祭が執り行い、信徒が参加するカトリック教会のもっとも重要な典礼儀式である。古代以来1960年代までラテン典礼におけるミサはすべてラテン語でおこなわれていたが、第2バチカン公会議以降の典礼改革により各国語でおこなわれることになった。「ミサ」という名称は、式の最後のラテン語の言葉「Ite, missa est」(ミサを終わります。行きましょう。)というフレーズの中の語に由来している。 ―引用終了― ウィキペディア辞典
日本の神社は、本来は、神の依り代としての「磐境・いわさか(岩石)」や「神籠・ひもろぎ(神木)」が有り、清水が流れている聖地に建てられる物である。だから、今朝のメッセージの最高位には、生きている大木の根株が「ブッダ・仏陀」の座席として現れて来たのであろう。
其れを考えると、紺野美紗子を守護霊とする私の上には、沙羅双樹の根元で悟りを得た釋迦牟尼佛の存在が有るとの理・ことだろうか。
良く考えて見れば、水の禊祓いをした「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」や「釋迦牟尼佛」や「イエスキリスト」もみな男性であり、「バプテスマのヨハネ」や「モーゼ」や「マホメット」も「老子」も全員男性である。其れを考えると、確かに、女性には水に拠る禊祓いは、必要ではないと言う理・ことに成る。だとすれば、禊ぎ祓いの世界は、男性が創り出した世界であり、女性に其れを勧める事は、神の道に反していると言う事ではないのだろうか。
確かに、神社で祓い清めるべきモノは男性の理屈であり、純粋な女性の本能である生殖・生命の世界ではない。寧ろ、神社の禊祓いの儀式は「命・いのち」の元気を、寿ぐモノである。其れに、女性の働きは大地の母としてであり、生命の畑と成るべき役割である。其れを考えると、女性は、男性が起こした罪を祓う為の、天の禊のトバッチリを受ける必要は無いと言う事に成る。だとすれば、確かに、女性が「否触れ・パラソル」を要求するのは、辻褄が合って来ると言える。
25年半前の夏に、師の自宅が有る平野地区の、海岸の海が見える丘の上で、椎の木の根株に寄り掛かって座って居ると、目の前の海に、行き成り火柱が立ち上がって、其の中に、「末法」の文字が書かれているビジョンを見せられて、身体にズシンと何かが飛び込んで来て、仁王立ちに成った事が有る。其れから、私の意識に大きな変化が起きて来た。今考えると、其れは釋迦牟尼佛が経験したブッダとしての感覚に、似たモノ・現象であったのだろう。
そして、其れから11月まで荒野を彷徨いながら色んな体験を積み、11月の半ばに屋久島を出て、11月21日には伊勢の磯部町で「天照皇大神」とのコンタクトが起きた。そして、過去に8回、人類の次元上昇に失敗しており、今回が9回目で最後のチャンスであると告げられた。そして、「早稲田や慶応に 澤山の孫がいるので 助けて欲しい」と、車椅子のお爺さんの口を借りて、告げて来たのである。其れは、学校教育の大事さを示して来ている。
「自然と子供達」http://green.ap.teacup.com/20060819/
今朝のメッセージで、何百ものテーマが箇条書きで示されて来たのは、私が神の計画と言うか、未来社会の創造プログラムを引き受ければ、其れだけの案件に取り組まなければならなく成るとの事であろう。其の背景には、9月9日の宵宮祭である9月8日に「括り姫・ククルカン」の働きが、在るとの理・ことだろうか。
今日は、神奈川の高橋智恵美さんから今朝のビジョンを知らせて来た。其の内容は、赤い服を着たダライラマが現れて、智恵美さんの頭に両手を置いて情報を読み取ると、ローマ法王の姿に変身してしまったとの事である。其れから、ロシア産のボルゾイ犬が白と黒の二匹現れ、次に土の属性が7で、水が5で、風が3であると示されたとの事である。
チベットのダライラマが、高橋智恵美さんの頭に両手を当てて情報を読み取ったら、ローマ法王に変身したとの事は、智恵美さんが教会の施設で育っているので、チベット仏教より、キリスト教の情報・メモリーの方が、優先するとの理・ことではないだろうか。
ボルゾイ犬の「ボルゾイ」とは、ロシア語で「俊敏」との意味で、狼退治に使われた足の速い犬との事である。
そして、土の属性が7で、水が5で、風が3との意味は、7・5・3は日本の注連縄の意味でもあり、「土・水・風」は、チベット密教の万物を構成する四つの元素「地・水・火・風」の中の3つである。
其の智恵美さんのメッセージは、キリストの情報の方が「白黒」の決着が早く(俊敏)つくとの意味なのかも知れない。其れに7・5・3の数字は「地・水・風」で、地球の自然環境を意味しているかの様である。
イエスキリストの言葉には、「貴方達は 神は 何物かと訊かれたら 【此の大自然】と答えなさい」と有る。其れは、確かに歯切れの良い言い方である。
今朝のメッセージの内容は、私の分も、高橋智恵美さんの分も、新しい事が始まる前兆を伝えて来ている様な気がする。何が始まるのか、何をさせられるのか、未だ良く判らないが、いまの処はメッセージを受け取って行くしかないであろう。
今朝のメッセージで、理解出来た理・ことは、女性には精神世界に入る為の水に拠る禊の修行は必要ではなく、其の世界は、男性の理屈を祓う為に、考えだされて来た方法であると言う事である。女性は、元々生命を生み出す事が役割である。だから、迷いを生きている男性の真似なんか、する必要はないのだ。其れが、釋迦牟尼佛や老子の言い分なのではないだろうか。
奈良の「矢追日聖氏」は、常々「雌なら猫でも好き」と云って、理屈を捏ね回す男性の存在は面倒くさいと謂って居た。私も、其の面倒くさい男性の1人なのである。
しかし、智慧の根本の所に座っているのが、女性ではなく男性であるのだから、今回のブッダの作業を中止する分けにも行かないだろう。
平成21年12月26日
礒邉自適

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2009/10/25
神手の夢枕・かんだのゆめまくら
21・10・25
今朝のメッセージは、どうやら昨日のメッセージの映像で、握り潰されたコップと、2センチぐらい残っていた液体に、関係が有りそうである。
今朝の映像には、私が夢の中で、目的地に行く時に近道なので、時々通る、山越えの狭い曲がりくねった道が現れて、何時もは誰も居ないのに、今朝は、山越えの峠の入り口の所に、通せんぼの踏み切り棒が渡されていた。
私は、黙って其の棒を外して、通り抜ける譯・わけにも行かないので、近くに建っている木造の家の方に歩いて向かった。すると、其の建物の方から、教会の門番の様な黒い服を着た、細身で長身の男性が此方に向かって歩いて来た。
そして、其の男性は、「此の土地は 個人所有なのだが 他人が勝手に通り抜けるので 今後は通り抜け禁止にする事にした」と謂う。私は事情を話すと、今後は此処を通らない様にする事を条件に、通してくれる事に成った。
私は、其の男性に平地のルートでどの道が良いかを尋ねると、21号線ルートが近いと云う。すると、近くまで来て居た其の男性の妻が、「36号線も有るよ」と教えてくれた。
私は、2人にお礼を言ってから、通せんぼの棒の所まで引き返して、棒を外して車の所に行くと、もう一台後ろにトラックが来ていた。私が其の車の方を見ると、運転して居るのは25年前に離婚した前妻で、結婚した頃の年頃で、通れる事に成ったので、笑顔で喜んで此方を視ている。
私は、何も云わず、自分の車に乗り込んで出発すると、妻の車も後ろに付いて来た。そして、麓まで下ると広い国道が走っており、バックミラーで後ろを見ると、前妻の車は左折のシグナルランプが点滅している。私は、右折の合図をして右側に避けた。そして、通過して行く前妻の運転する平ボディの4tトラックの荷台を見ると、荷物は全部下ろしたらしく空であり、荷台にはロープの様な物しか乗っていなかった。其のトラックの荷台には「神田の夢枕」と、会社の名前が書いて有った。
私は右折して、出掛ける前に、スーパーの駐車場に止めて有った、古いバイクを積み込んでから、妻の行った方向に引き返した。そして、町の中に着いて、誰かの家の中に上がって、亡くなった方の命日の法事の儀式に参列した。其の、民家で行われている法事に参加して居る人間は、私の他は家族だけの様である。私は事情を知らないので、仏壇に向かって「南無妙法蓮華経」を唱えると、其の家の人に「此処は 南無阿弥陀佛だよ」と注意された。私はしまったと想って、「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と唱え様としたのだが、「なむあみだぶつ」を言い馴れないので戸惑っていた。
私は法事が終わってから、しばらく座敷でお坊さん達と話して居たが、トイレに行きたく成ったので、その場から離れる事にして其の場面は終わった。
そして、次に行った先は、ドレミ村の代表である「天波博文氏」の知り合いの会社の事務所であった。其処には、3〜4人の男性社員が居て、会社の仕事が終わってから、天波博文氏の家族と、会社の人達も一緒に、夕方の食事に出掛ける事に成った。私は、天波博文氏が、其の会社に遣って来るまで退屈だったので、其の会社に有った魚釣りの、竿や糸や鉛で遊んで居たので、慌てて其れを片付けて後に付いて行った。
今朝のメッセージの映像の場面は、是だけである。私が、今朝のメッセージで感じた事は、人間は精神的な世界を極める為には、誰も他人の居ない山に登る必要が有るが、平地には平地での旅のルートが有るとの理・ことであろう。
其のルートして、21号線と男性に教えられたのは、弘法大師空海の命日は21日なので、弘法大師空海の意識ルートを意味しており、奥さんが「36号線ルートも有るわよ」と云ったのは、釈迦の弟子であった「弥勒菩薩・みろく・36」の思考ルートを意味しているのではないだろうか。
私が、今朝の映像の中で、仏壇に向かって唱えたのは、日蓮聖人が唱え始めた「南無妙法蓮華経」の題目である。何故、私が「南無妙法蓮華経」を唱える事に成ったかと謂うと、今朝の夢に出て来た妻の影響である。私の前妻の父親は、屋久島の創価学会のトップの立場であり、公明党所属の町議会議員でもあった。そして、天波博文氏一家も創価学会の会員である。
私は、其の妻と結婚してから、妻の父親に勧められて、創価学会に入会したのである。其の縁で、1984年の3月13日の夜明けに、「神だから守れ」との声が聞こえ目を開けると、太陽が太平洋の水平線に半分顔を出して居たのである。其の「神だから守れ」との神はとは、師の事であり、師を守る為に、全てを掛けた事が、現在の自分を創り出す・鍛え上げる事に繋がったのである。
今朝のメッセージは、其の前妻が晴れ晴れとした顔で、幸せそうに運転するトラックの荷台が、積荷を下ろして空に成っていた事と、其のトラックの荷台の枠には「神田の夢枕」と、明るい水色で書かれていた事に、深い意味が有るのだろう。
其の意味を考えると、昨日のメッセージの映像に有った、神の手がコップを握り潰した事と、1リットル入りの透明なボトルに、2センチ程黒い液体が残っていた事に関係が有り、私に残っていた「カルマ・業・濁り・血液」が、「神田(手)かんだ」で握り潰されと言うか、浄化・消去されたとの意味なのではないだろうか。其れに、私のメッセージの映像は「神の手に成る夢枕」であるとの事なのかも知れない。
「神田の夢枕・かんだのゆめまくら」とは、「神手の夢枕・かんだのゆめまくら」であるとの事だろう。歴史を振り返ってみても、是まで夢枕で多くの人達がヒントを得て、ノーベル賞を貰っている。其れに、夢枕に神が現れた事を切っ掛けとして、多くの人達が宗教の教祖に成っている。
其の現象を考えると、神は夢枕で科学を発展させ、人間の精神世界も導いている理・ことに成る。だから、自分の家に神棚や仏壇を設置して、神仏を身近に引き寄せるのであろう。
私は今朝、其の事に対して、遠近法が関係有ると想った。何故かと謂うと、高い三角形のオベリスクを建てる事は、神を遠くに設定する事に成り、五体投地は自分の身体の中に、神を呼び込む事に成るとの理・ことである。何故なら、神を遠く、高くに置く事は、何時までたっても、「神」が自分の中には入っては来ないからである。反対に、水で沐浴をして、皮膚感覚の世界に神を感じれば、神は自分の内側に入って来る。
だから、仏教の教祖である「釋迦牟尼佛」や、キリスト教の教祖である「イエスキリスト」や、日本の神道の元である「伊耶那美命・いざなみのみこと」も、皆水で禊を行って、神の働きを生み出しているのである。
アジア大陸の屋根である、チベットのシュール山・スメル山に、五体投地で近づく事は其の理に無意識であっても近づく事に成るのであろう。其の理を、無意識で取り扱っているのが、インドのリンガである。リンガは、女性器の真ん中に、男性器が立っている物である。其れは、中国の「道・タオ」と同じ考えであり、現在の機械になくては成らない「ボルト」と「ナット」の組み合わせである。
其れを、自分の中にイメージする事は、自分の中に三角を入れる事で有り、「凹凸・陰陽・雄雌」の働きを、自分の中で統合する事に成るのである。其の、単純な「陰陽・色」の世界を、難しく説いているのが宗教家である。
其れに、宗教を興している者は、殆どが思い込みの世界に住んでいる者達であり、他人に迷惑を掛けている事に成る。だから、中国の老子は「精神的な理・ことを 他人に云っては成らない」と謂っているのである。
精神世界は、自分の中に三角形を取り込む事であり、他人は関係が無いのである。其の三角形こそが、昨日のメッセージの映像に現れた、三つの器・皿の関係性なのである。
其の三つの器とは、三つの島の理・ことであり、其れは、「見る者」と「見られる物」と「其の関係性・理」の、三角形の三つの関係性なのである。
今朝のメッセージの映像では、私はもう山の上には上がらないで良いとの理・ことであり、麓に三角形の関係性を創出して行けば良いのであろう。其のルートは、弘法大師空海の思念を選んでも良いし、弥勒菩薩の働きに従っても良いとの理・ことであり、どのルートを選ぶかの選択権は、人間自身に与えられているとの理・ことであろう。
そして、私の最終ゲートに前妻が姿を現して、晴れ晴れとした笑顔で、積荷が何も無いトラックを運転して居たのは、私だけではなく、何の落ち度も無いのに離婚された妻も、役割を無事に果たした事を示唆しているのであろう。
其の様に考えると、私を此処まで運んでくれた、霊界の神霊達と、此の世の人々に、感謝しなければ成らないであろう。
老子の謂う、「嗇(しょく)にしくはなし(神は 種子を蒔いて 育てて 収穫する。其れより 他に無し)」の言葉の世界が、改めて理解できて来る。
そして、全ては、自分の脳内の出来事であるとの理・ことである。人間は、自分の意識で、全てを創り出しているのである。だから、他人には何等関係が無いのだ。
今朝は、朝まで色々な理・ことをイメージして居て、宿舎を出て車のエンジンを掛けて、時計を見たら、時刻は9時27分「9+(999)」であった。何かの結論に達した事は、間違いないのであろう。
今朝私が想った事は、屋久島の「鯛ノ川・登龍の滝」から、中瀬川までの地域を、新しき村造りの地域とし、昭和55年に村造りで天皇杯を授与した事を、もう一度実現する事である。其の事の為に、昨日は、私に残っていた「カルマ・業・穢れ」を、神が代わりに処分してくれたのかも知れない。
平成21年10月25日3時33分
礒邉自適

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2009/10/23
煩悩の世界
21・10・23
本日10月23日は、私の父親の45回忌である。私は父親が亡く成った時17歳であり、其れから45年が経ち、既に62歳と成ってしまった。私は、自分の人生が、この様なモノに成るとは夢にも想って居なかったが、何となく自分の役割が何であるのかは、見えて来ている様な気がする。其れは、人間の意識の世界と謂うか、霊魂の存在の不思議である。
昨日私の意識は、光の世界に在り、上空から、金色に輝く地上の「ピラミッド・オベリスク」を、此の世の全てを見通す「プロビデンスの目」として見下ろしていた。其れは、人間に取って究極の世界なのであろう。
そして、今朝の私の意識は、其の神の光の世界から、一段下に有る世界を覗いて居た。其の世界は、人間の意識行動と、神の「光の世界」の中間に位置する世界である。其の世界には、引っ切り無しに、人間が願い事をする為に書かれた、絵馬やお札の文字が届けられていた。
其の文字は、現代文字だけではなく、筆で書かれた草書体の漢字文字や、数字も含まれていた。私は、草書体の漢字を読めないので、何が書かれていたかは判らないが、人間の願い事が、短い言葉で書かれている事だけは理解できた。そして、何を書いて有るのかを気にして居ると、カタカナの単語が3つ映し出されて来た。其の、カタカナの単語の真ん中の語だけは覚えたので、忘れてはいけないと想い、直ぐに枕元に置いてある紙に書いた。其れは「リトリップス」の単語である。
今、ITで「リトリップス」を検索して見ると、多肉植物の一種であり、其の形は植物の葉の原型の様であり、動物の受精卵が細胞分裂を始めて2つに別れる様子と同じ形である。しかし其れは名詞であるので、「リトリップス」の言葉としての意味が解らない。其の意味を知りたいと想い、検索して見たが出て来ないので、「リトリ」だけで検索すると、リトリートが有る。
リトリート【retreat】 1 退却。撤退。後退。2 隠居。避難。また、隠居所。隠れ家。避難所。仕事や家庭などの日常生活を離れ、自分だけの時間や人間関係に浸る場所。
葉肉が2つに分かれる植物の名である「リトリップス」と、「リトリート」の「隠れ家や自分だけの部屋の確保」の意味を考えると、2つの言葉の雰囲気では「リトリ」は分裂か、別れるの意味が有る様である。其れを考えると、今朝の「リトリップス」の単語は3つの中の真ん中に位置していたので、左右・前後のカタカナには、左右か前後の意味が含まれていたのかも知れない。
其の様に考えると、昨日と今朝のメッセージは繋がりが有り、此処のところ続いていた3つの空間・嶋の事に関係が有るのではないだろうか。そう言えば、多肉植物の「リトリップス」の形は、人間の大脳の形に似ているし、新しい成長点が中央から生まれて来るので、其れは新しい自分の意識であり、左右の情報を基にして、未来を創造するモノのイメージがされて来る。
其の、新しい世界を導き出す成長点は、宇宙ロケットの頭の部分の衛星をイメージさせるモノが有る。何故なら、宇宙衛星こそ人間の行動意識の最先端を意味するからである。其れは、クリスマスツリーの形と関係が有り、伸びて行く針葉樹の先端は、人間の成長意識に重なるので、神に対する願い事を託すのであろう。其れは、エジプトの「オベリスク」の意味に通じるし、日本の「天の逆鉾」と同じ概念を含んでいるのではないだろうか。
そして、其の人間の願い事が、天上の神の光の空間の床下に、突き当たっているのである。
「オベリスク(obelisk)」は、古代エジプト(特に新王国時代)に多く製作され、神殿などに立てられた記念碑(モニュメント)の一種。
オベリスクの呼称自体は後世のギリシャ人たちがオベリスコ(串)から名付けたものであり、元来は「テケン(保護・防御)」と呼ばれていた。(テケン?手剣・天の逆鉾)
ほとんどは花崗岩の一枚岩で作られており、四角形の断面をもち、上方に向かって徐々に細くなった、高く長い直立の石柱である。
先端部はピラミッド状の四角錐(ピラミディオン)になっており、創建当時はここが金や銅の薄板で被覆され、太陽神のシンボルとして光を反射して輝くようにされていたらしい。また、その影を利用して日時計としての役割も果たした。
側面には王の名や神への讃辞がヒエログリフで刻まれ、王の威を示す象徴とされた。大きいものではその重量が数百トンにも及ぶ。
起源は、太陽信仰のヘリオポリスのベンベン石を模式化したものと考えられている。
ベンベンとは、古代エジプトのヘリオポリス(現在のカイロ周辺の街)にある丘のこと。ここベンベンの丘を模した四角錐の石を「ベンベン石」(Benben stone)といい、再生と復活をつかさどる精霊が宿るとされ、後に太陽神ラーと同一視された。ベンベン石はオベリスクの上やピラミッドの頂上に置かれる。 ―引用終了―
此の説明にも「オベリスコ(串)」と有る様に、オベリスコは人間の願いを、神の世界に串刺しする物である。其れは、日本の神話に有る「櫛稲田姫・くしいなだひめ」や其の夫である「素戔鳴尊・すさのおのみこと」の別名「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」の「櫛御氣・くしみけ」の「櫛・串」に関係が有り、又神社で神に奉納する「玉串奉納・櫛玉奉納」の儀式の意味とも通じている。
そして、其の概念が進化したのが、七夕の短冊やクリスマスツリーの飾り付けなのである。其の七夕の短冊と、神社で願い事を書く絵馬は同じ概念である。其れは、文字が開発された事に因って行われる様に成ったモノである。今朝の、私のメッセージの映像には、絵馬や短冊の物の形は見えないで、書かれている文字だけが映されて来た。其れを考えると、文字が書かれていたからこそ、私の意識に映り出されて来たのであって、もし文字が書かれていなくて、人間の意識だけでは目・意識に認められる事は無いだろう。
しかし、今朝のメッセージの映像では、其の書かれている文字は、神の光の空間の床に当たって、全て下に落ちて行った。其れは、人間の願い事は、ことごとく神の光の世界には受け入れられないと言う理・ことである。
何故なら、神は人間に「使命・みこともち」を与えて地上に降ろしているのだから、其の使命を果たさないで、自分の願い事を親神にするのは、筋が通っていないからである。
日本に伝わる神事は、禊祓いの儀式の伝統に有る。其れは、自分の罪穢れを祓って、本来の「使命・みこともち」を思い出す事に有る。其れは、インドの釈迦が「全ては 自分の此の肉体に有るのだから 精進しなさい。何物にも 依存してはならない。」と謂っている理と同じなのである。だから、神に願い事をするのは、違反なのである。今朝は、其の理を示す為に、人間の文字に拠る願い事は、門前払いと言うか、1つもカウンターで受け付けられなかったのであろう。
私は、神に願い事をした事は、是までに1回しかない。其れは、私が19歳から始めた農業経営が、牛の価格が暴落して大赤字に成ってしまい、屋久島一の借金を抱えてしまった為に、弟も高校を中退させて農業を手伝わせ、何とか乗り切ろうと考えた時に、「神様 何とか 4人弟妹が一人前に成るまで守って下さい。私の人生は 其れからで良いです。其の後は 神様の為に何でもします。」と、願い事と言うか、神と契約を交わしてしまったのである。其の約束が有った為に、25年前に告げられて来た、此の神の計画を断れなかったのである。しかし、其の他には、自分の事の為に、神に頼み事をした事は無いのである。
そして、私は特別な宗教に関わって居るわけでもない。其の私に、4311体もの「御霊の思頼・みたまのふゆ」が起きたのである。「御霊の思頼」とは、神社で唱える「大祓い祝詞」の中の一節であり、言葉の通り「神霊の思いや頼み事」を引き受ける事であり、自分の煩悩を神仏に頼む事でないのである。だから、現在の人達が、神社で行っている事とは反対の世界である。
此の私は、25年間自分の事を一切考えずに、神の命ずる侭に動いて来たのである。其の結果が、此の3日間の意識の世界なのである。
今朝、私が考えた理・ことは、何故、大天使であった「ルシフェル」が、悪魔の「ルシファー」として名前を変えられてしまったかである。其れは、人間界での宗教のドグマに拠るモノで、石工・メイソンの神である「ルシフェル」の存在が、都合の悪い宗教団体(キリスト教・イスラム教・?)が有ったからではないだろうか。其の、宗教団体・組織が何であるかは別として、ルシフェルが何故ラテン語の「光を運ぶ者」から「悪魔・ルシファー」に変わってしまったのであろうか。其の原因には、光の天使「ルシフェル(ルチフェル)」は、人間を救う為に地上に降りたとの説が有る。
其の説から考えると、私の意識は、今朝、其の二の舞を起こそうとして居た事に成る。其れは、人間の願い事が、全部、目の前で光の床に当たって、跳ね返って地上に返って行くので、私は其の願い事を読み取ろうとして居た。若し私の意識が、其の願い事の内容が読み取れたら、私は其の事を叶えて遣る為に、せっかく辿り着いた光の部屋を出て、再び地上の人間世界に降りてしまったかも知れない。其の私の弱さと言うか、優しさを神が配慮して、文字に書かれた願い事の意味が理解出来ない様にしたのかも知れない。
確かに、其の内容を理解出来れば、其の人間の無限に尽きる事の無い「願い事・煩悩」を解決する為に、私の意識は、再び地上に落ちてしまう事に成ってしまったかも知れないのである。其の様に考えると、家族まで捨てて、他人の事に関わってしまうと言う、此の私の弱さと言うか、優しさは、「ルシフェル」の働きに因るモノなのかも知れない。
其れが、「自由な石工・フリーメーソン」の本来の意味なのではないだろうか。確かに、自由な身に成らなければ、地球の岩石と意識の交流は起きないし、イエスキリストの様に、岩を相手に祷る事(帰命する)も出来ないであろう。大本教の教祖である「出口ナオ」の言葉にも、「岩がモノ言う時が来る」と有る。確かに、私には其れが25年前に現実として起きたのである。其れは、岡本天命に告げられた日月神示に有る「148(石屋)の救世主が 日本から現れる」が、真実であると言う事にも成る。
確かに、私には、25年前に全島が花崗岩である屋久島の岩山と、何万ボルトの高圧電線に関係して、他人に説明できない様な事が起きた。だから、其の体験から「石工の秘儀」の内容が能く理解出来るのである。
・「石工の秘儀」には「岩の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 生ける力のダイナモ・dynamoを 正しく応用する事であると知るとき 彼は 結社の神秘を学びとり ルシフェルの力は 彼のモノと成る。」と有る。
私は、其の理・ことは、25年前から体験を通して感じて居たのだが、昨日と今朝のビジョンで其の世界がどう言うモノであるのかが、能く理解出来た様な気がする。何故、古代から、岩山が信仰の対象と成り、日本の古い神社の奥の院の社の御神体が、全部丸い球石であるのかの理由も良く理解できる。其の球石は、人間が作った仏像や神具等よりも真実を伝えているし、効力を発揮しているのである。
そして、「オベリスク」の存在は、日本では諏訪神社などの「御柱」と成り、仏教では花崗岩の墓石と成り、カナダでは「トーテムポール」と成っているのである。其の、オベリスクや、墓石や、トーテムポールに文字や絵が刻まれるのは、七夕の竹やクリスマスツリーと同じ物なのである。其の、文字や絵を書いて神の願い事をする人間の行為は、人間の煩悩を意味している。
仏教には「煩悩即菩提」との言葉が有る。其の意味は、次の様に説明されている。
・「煩悩即菩提」原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより悟りが得られるとされていた。
しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった。
したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。
この色(しき、物質的)の世界は空であるが、それ自体がすべて真如の表れである。したがって悟りを妨げる煩悩も真如の一面から現れたものである。したがって煩悩を離れて菩提は得られない。また逆に菩提なくして煩悩から離れることなはい。これが煩悩即菩提であるとする。
なお、煩悩即菩提といえば、矛盾する言葉が「即」でつながっていることから、煩悩=菩提、煩悩がそのまま悟りである、と考えられやすいが、これは誤解であり、危険と言われる本覚思想につながるため、間違いであると言われる。あくまでも紙一重、背中あわせで相対して存在しており、煩悩があるからこそ苦を招き、その苦を脱するため菩提を求める心も生じる、菩提があるからこそ煩悩を見つめることもできる、というのが煩悩即菩提の正しい語意である、と言われる。 ―引用終了― ウィキペディア辞典
此の文書の中の、[「煩悩」と「菩提」は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これを而二不二(ににふに)と言い、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。] の内容を考えると、今朝のメッセージで告げられて来た、多肉植物「リトリップス」の形状が気に成る。其れは、2つに分かれているが、2つではないとの説明を、生物の形として現しているからである。其れは、人間の大脳の仕組みとも同じ形状であり、両方に分かれているからこそ巧く機能しているのである。
其の様に考えると、神・天上の神の世界と、地上の人間界とは両方が「而二不二(ににふに)」の関係であって、どちらかが欠けてしまえば、両方の世界が消えてしまうと言うか、成り立たないと言う理・ことに成る。だとすれば、「ルシフェル」の光の世界の世界と、人間の煩悩・願い事の世界は双子であり、どちらも欠かせないと言うか、両方が求め合いつつ、支え合っている事に成る。
其の間柄を保つのが、「キリスト」や「如来」や「聖者」達の、役割であるのではないだろうか。そして、其の関係性を形にしたのが「オベリスク・串」であり、日本の「玉串奉納」の儀式の意味なのであろう。そして、其の玉串に通す球が、仏教の坊主が瞑想して居る周囲に配置されている「如意宝珠」なのであろう。
「瞑想」とは、目を閉じて「冥府」を想う理・ことである。其の「冥府」の中心の存在こそが「天帝」であり、其の天帝の意識を地上世界に現すのが「現人神・皇帝・みかど」の存在なのである。其の「ミカド」こそが、ユダヤの王なのである。其の「ミカド・帝」は「プロビデンスの目」を有していなければ成らないのだ。其の目を有した者こそが、「天照皇大神・あまてらす素目おおかみ」や「ラーの神官」の働きが出来るのである。
そして、其の者は、人間のカルマ・業である願い事を、決して取り上げては成らないのである。何故なら、此の宇宙のシステムは人間サイドに有るのではなく、神・天の側に主体が有るからである。其の存在が、人間の願い事に耳を傾けて居れば、神の働きを停止させてしまうからである。其れを、そうしないのが大日如来の姿なのである。
何故、現在世界中が精神的に行き詰まっているかと言うと、其の原因が民主主義に有るからである。何故かと言うと、民主主義には、神が主体であるとの本来の考えが、消されてしまっている。「民」の漢字は「目+矢」の組み合わせで、戦いに負けて矢で目を潰された奴隷の意味で、眼暗・盲人を意味しているのである。だから「民主主義」とは「目暗主義」の意味であり、「プロビデンスの目」とは反対の世界なのである。
・「プロビデンス」(Providence、プロヴィデンスとも表記)は、キリスト教における概念。「すべては神の配慮によって起こっている」ということである。日本語では「摂理」(せつり)、「神の意思」と訳される。用法等によっては、「天帝」とも訳される。
昨日と、今朝の意識までに、私が到達するのには、25年の月日が掛かってしまっている。私の人生に取っては、1番の働き盛りの25年間を、此の事の為に棒に振ってしまった事に成る。しかし、老子・釈迦・神武天皇・ピタゴラスの長年の念いを考えれば、私の25年間の時間は短いのであろう。
25年前に、4311体の霊魂の先頭に、私の父親が20年振りに冥府から帰って来て「お前に 苦労を掛けたのは お前の精神を 鍛える為であった もう心配ないから 此の人達に身体を貸せ」と告げられ、何とか聖霊との共同作業で、此処まで実情を持ち込んで来た。
私は、此の三次元世界では全てを無くしてしまったが、昨日上空から光の目で、地上に立つ金色に輝く「オベリスク・串」を眺めて居た。其れを考えると、私は冥府に金字塔を立てた事に成るのではないだろうか。
平成21年10月23日 父親の45回忌に
礒邉自適

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