私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
人の数程世界は存在する
19・10・15
・・・今朝のメッセージの映像は、温泉場の様子が映り出されて来て、其処には泥湯などが有り、人間の癒しの場として利用されている事が示されて来た。
其処には、食べ物や、師や、人材などが、最高のレベルで整えられ、其処を訪れる人間が、何時でも受け入れられる事が可能であることが雰囲気で理解出来た。
此のメッセージの意味は、旧約聖書に載っている「神は 自分に似せて 粘土で人間を創った。」との言葉を裏付けるものであろう。粘土は、アルミと珪素の化合物である。現在の科学では、地球生命は36億年前に、ミネラルの泥の海で誕生した事が明らかに成って来ている。
其れは、植物の根の働きや、人間の胃腸の細胞に、其の始まりのシステムの証拠が残っているので、誰も其れを疑う事は出来ない。例え、宇宙人が存在したとしても、36億年より古い時代の生き物は、此の宇宙には存在しないであろう。そうで有れば、今朝の私のビジョンは、生命の1番古い魂しいの部分が、自分自身を思い出して(覚醒)いた事になる。
今朝のビジョンの世界から考えれば、人間の人格霊を祭祀する神社等には、もう行かないで良いと言う事に成るだろう。其れは、私に起きた神霊の思頼(みたまのふゆ)が、其の目的を果たした事に成るのであろう。
ようやく私に、24年振りに自分の時間が還って来たのだ。しかし、私には、屋久島の自宅も既に無くなっている。其れを考えると、是からが、私の本当の「タビ(家を離れるの意味)」の始まりだと言う事に成るのではないだろうか。其れこそが、釈迦牟尼仏陀や、イエス‐キリストや、松尾芭蕉などの乞食・こつじきの世界なのではないだろうか。
今朝の温泉場が、現実として此の世に存在するのであれば、其処に行って、皆の悟りの手伝いでもするのだが、未だ、現実にはそんな場は無いだろう。
昨日告げられて来た「人間の数ほど世界が在る。」との言葉の意味は、人間と宇宙の関係を示しており、世界は1つではなく、人間は個人個人がそれぞれ宇宙と繋がり、自分だけの世界を構築出来る理・ことを示して来ている。
其れは、人間は、他人の世界を覗いて、其れを、其の侭真似てはいけないと言う事である。そうすれば、自分の世界を持つ事が出来ないと言う事である。
其れが、本来の「神惟らの道」であるのだから、「見ざる・聞かざる・云わざる」の、三猿の訓えが、正しい事に成るのだ。其れを考えると、今朝のビジョンの温泉場も不必要な物に成ってしまうのだが、其れはどうであろうか。
全国の至る所の神社で、今の時刻は大祭の儀式が行われている事であろう。私は、其れ等から解放され、24年前の自分に返っている。いや、もっと、其れ以前なのかも知れない・・・・。
平成19年10月15日
礒 邉 自 適

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2009/5/7
安心立命
14・3・3
今朝はまどろみの中で、意識が捉えるものを失って、何も無い状態がしばらく続いた。私は、何も無い状態を、言葉にしようと意識すると、「安心」の言葉が出て来て「そうか、安心か。」と認識すると、次に「立命」が出て来た。「安心+立命」と、両方合わせて考えなければならない様なのである。
朝起きて、言泉で調べてみると、
『安心(古くはあんじんとも)』「(1)心が安じること。気がかりなことがなくて、心が落ち着くこと。また、そのさま。(2)「あんじん」信仰によって、心が不動の境地に達すること。」
『安心立命』「(1)人力を尽してその身を天命に任せ、どんな場合にも落ち着いていること。(2)天命を知って心を動かさないこと。」 と 載っている。
今日3月3日は、私が27歳の時、結婚式をした日である。其れから丁度10年目で離婚して、神の世界の修行に入った。其れから既に、18年が経過している。ようやく自分の心に、何も浮かばない朝を迎えた様である。是までの私の意識は、自分の本心ではなく、自分以外の何かの「念(おもい)・怨念」が、私を衝き動かして来ていたのだろう。
私の師が、1984年の3月5日に屋久島に引っ越して来て、其の日から玄米自然食の食事が始まった。18年の歳月も、経ってしまえば短かった様な気がしないでもない。しかし、18年間に出会った人達や、50冊にも上るアルバム帳を見ると、長い時間が掛かった証となっている。何か、目に見えない大きな力が、時を読み込み、創造へと繋いで来た事が理解される。其れは、私と、私に起きた現象を、共に目にした者にしか理解できない事である。
私の体験から云えば、何か、新しい事象の渦が此の地球に起きて、世界が大きく回転を始めている事は間違いない様である。私も其の出来事の1部として、此の様に動かされているのである。
聖書の、ルカによる福音書・第10章21、22、23には、次の様に載っている。
「そのとき、イエスは聖霊によって 喜びあふれて 言われた。《天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を 知恵ある者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ。これはまことに、みこころにかなったことでした。すべての事は、父からわたしに任せられています。そして 子が だれであるかは、父のほか知っているものはありません。また 父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして 子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません。》それから、弟子たちの方に振りむいて言われた。《あなた方が見ている事を 見る目はさいわいである。》」
其の、イエスキリストに起きた現象が、私の身にも、起った事に成るのである。
自然食を始めて、ちょうど3ヶ月目の6月4日に、師に見守られながらの安房川での禊に拠って、精霊に満たされ、荒野での修行が始まり、其れが秋まで半年間続き、11月から全国の旅が始まったのである。
旅の思い出を探って行くと、話すのには、何ヶ月も掛かるくらいの思い出が詰まっている。その思い出は、アルバムに綴じ込めてある。全国の、場所と多くの人々の顔、全てが過ぎ去った今、新しい芽吹きを待っているのだ。
私は、ただ、静かに瞑目して、トキの始まりを見詰めるだけである。誰かが考え付いた『安心立命』その言葉の熟成を計りながら・・・。
平成14年3月3日
礒 邉 自 適

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