意識の基点 12・11・16
人間は自分を認識するとき、物体や現象として形になった物を捉えないと認識できない仕組みに成っている。その認識方法として様々な手段があるが、代表的なものが、立場を意識する事と、心(意)を向ける対象を確定することだ。
子供のうちは立場もなく意識の対象は母親だけなので、自分という認識は未だ出来ていない。
一般的に言うと、自己確立ができているものを「オトナ」という。しかし、現代では自己確立ができないまま成長して年齢だけを重ね、精神的には未熟な者がたくさんいる。
其の様な人達は「オトナ」と呼ぶには催・あたいしない。漢字では、未熟なものを「小人」と呼び、「大人」とは別けて呼んでいた。「オトナ」とは、古くは「オテナ」であり、さらに「オテナ」は「オキナ(翁)」からきている。
「翁」は、精神的にも肉体的にも完成した人間を示す言葉である。だから「オトナ」と、言葉は変化しても同じく精神的にも肉体的にも完成された人間という意味が存在するのだ。
自己確立のできた大人になると、信仰の対象としてすがりつく御本尊を必要としないので一見すると無宗教の様な人間に見える。しかし本当に神仏を理解した人は、宇宙の本体、真理を体験しているので、そのまま自然体に神惟、三昧、サマディ、悠々自適に生活しており、立場や対象物を必要としないのである。
そういう状態に到るまでの段階として、普通の人は仏像や神具を必要とする。自分で一番大事な物体を、心向ける対象として奉ることで、自分の心、おもい(意)を対象物に縛り付け、精神の安定を図るのである。
現在のおおかたの宗教はこのような状況にある。一方、すがりつく対象が変わり、紙幣、預金通帳、株券などが心を向ける対象物となれば、経済活動にのみに心を縛り付けることになる。このような人達は、金のためにだけ神仏に祈願していることに成るである。
これでは、神仏もたまったものではないだろう。その人達は、金を失うと心の支えを失うので、そうなったときには神仏を逆恨みすることに成る。この逆恨みは、心を向ける対象を間違っていることが根本にある。
また人間社会の立場にしがみついている人も、社会に変動があれば一瞬にして其の立場が消えてしまうようなものだから、人間が作り上げたものにしがみついているのは間違っていることに成るのだ。
では、どうしたらよいのか。仏像を安置している寺院や、神を祭るっている神社の信者という立場をとるのも一つの手ではあるが、形あるものは永遠に存在するわけではないし、その維持のために心を悩ませる結果となり、あまり良い方法ではない。
ここで、釈迦の教えに日を向けて見ると、釈迦は物を心の対象とするのではなく、大自然の働きを信じ、自分がその一部であることを認識しなさいと教えている。
この世に実在する此の自分の肉体こそ天地自然の働きの現れであるから、自分の肉体をよく保ちなさいと謂うのである。そのことが精進するという理である。釈迦と同じ理を老子もイエスも言っている。
つまり、天地自然の内に立つ自分の心が何を想っているかという、自分の心にこそ意識を向けなさいと言うことなのだ。
子供のときは母親と食物のこと、成長したら異性のこと、親になったら子供のこと、老いに至ったら死のことが心を捉える。これは天地自然の営みの遠大な循環作用だ。
このような循環を起こす宇宙の働きを、釈迦は「ダルマ・法」と謂い、老子は「タオ・道」と謂い、イエスは「永遠のいのち」と謂ったのである。
我々は心を向ける対象を、このような大自然の変わらぬ営みに置くべきなのである。
特に日本は、四季の移り変わりが素晴らしい国である。だからこそ、世界に類を見ない和歌の世界が日本に生まれたのである。日本の和歌の世界こそ、自然を前にして立つ自分の立場を明確にし、意識の対象を自然に向かわせてくれる物である。
その結果として、心象風景を言葉として表現できるのである。その自然を見る自分の目線こそが日本の伝統なのである。この目線こそ「意識の基点」と名付けてよいのではないだろうか。
日本には弘法大師空海作と伝えられる「いろは歌」がある。「色は匂へど散りぬるを 我か世 誰そ常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせす」日本語で使用するイロハ47文字を1字ずつ使って七五調の歌を作っている。そしてこの歌が「イロハ・‥・」と順序を表記するのにも使われる。このような例は世界にも例がないのではないだろうか。
記録されている最も古い和歌は、須佐之男命作と言われる「夜久毛立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る其の八重垣を」という歌である。これは島根県雲南市須賀に在る須賀神社に記録されている。この須賀神社の建つ地は、須佐之男命がこの地に立って「スガスガしい地なので ここに新居を構えて住もう。」と言ったことにより名付けられたという。また、此の地に来る前に地面に木の枝を刺した場所があり、そこは「サセ(佐世)」と名付けられている。佐世には佐世神社があり、其の境内には須佐之男命が刺した木の枝が根付いたといわれる木が有り、今その木は五代目である。
近くには熊谷という地区があるが、これも「クマクマしき谷」から成り立っている地名であろう。「クマ」とは古代、神のことであったのだ。出雲には、言葉の源となった謂われが各地に存在する
現代でも木内彗星のように、新しい物が発見されると発見者の名前を冠することが行われている。電話の「ベル」ディーゼル機関の「デイーゼル」など枚挙にいとまがない。私たち人間は、物に名前を与えることで共通の認識を確かめながら、言葉を増やし続け、大脳を発達させてきた。その言葉の成り立ちには自然との関係が切り離せない。
日本は自然が豊かで、五感の発達には最適の国である。人間の体には10数種類のミネラルが必要だといわれているが、日本の国土にはミネラルを含む様々な鉱石が、量は少ないながらも鉱石の博物館の様に多種存在している。この自然豊かな国土で、今一度、意識の基点について考え直してみる必要があるだろう。
人間の脳だけが「見ること」で「見られる側(対象)」との「関係(むすび)」を認識できるのだ。そして、その認識が言葉を生むのである。その理が、神社の阿件の狛犬と、鳥居に渡された注連縄に示されている。
正月に注連縄をくぐるだけでなく、自分が何を見ながらどの言葉を使用しているのかを確認し、子供達の目の前に「サキハエタマウ」姿を見せる大人にならなければ成らないのだ。
平成12年11月16日
礒 邉 自 適

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