2009/8/27
シャクティ(根本的活動力)
21・8・27
昨夜も、午後11時から12時まで1時間、「井上陽水」がNHK教育テレビ番組に出演して居た。私は、芸能人に付いてあまり興味を持つ事は無いのだが、井上陽水に対してはとても興味が湧いて来たので、3夜連続で陽水の番組を観た。今夜が、其のシリーズの最後なので、今夜も観る事にしている。
井上陽水は、他の歌手とは違い、レコード会社に1本のテープを送って自分の歌を聞いて貰い、其れが認められて、いきなりプロとしてデビューしたので、下積みの期間が何も無いらしい。其れに、誰か先生に付いて学んだわけでもないので、独学で現在の地位にまで上り詰めたらしいのである。其れは、オリジナルで生きて居ると言う事に成るだろう。
其処の処に、私は自分との共通点を見出して、陽水に魅力を覚えるのかも知れない。私は、自分は師の指導で神の世界に入ったと書いているが、それは便宜上の事で、師の相談に乗っている内に、自分の中に眠っていたモノが表に現れただけである。だから、師の方が、私を救世主として敬っていたのである。しかし、師に其の様に云われても、私には其の様な自信等は湧いては来ないのである。
何故なら、私を導いたのは師ではなく、師の息子を始め、全国の1歳から4歳までの幼い子供達が、私を、言葉や仕草で導いたので、この宇宙には大きな力が存在して、私を育てる為に、純粋な子供の身体や口を借りていた理・ことを知っているからである。
だから、私は無宗教だし、誰かの弟子に成って、修行をして宗教を学んだ分けではないのである。学んだ事は、師に拠ってマクロビオティックの世界を学んだ事と、田中真海禅師に禅を習ったぐらいである。其の意味で、師に感謝しているので師と謂っているのである。其れに、師が私の所に訪れなければ、現在の礒邉自適は無い事は確かである。
井上陽水の話を聞いて居て、私が気付いた事は、陽水が「笑いを 生み出している人達は 良いよね」と謂った1言から、私に起きた4311体の「霊魂の思頼・みたまのふゆ」の中には、「チャップリン」や「えのけん」等の、笑いを生み出した人物の霊魂が、存在しない事である。
其れは、笑いを生み出していた人物には何等カルマ・業が無いので、自分の霊魂の浄化や、この世に残したモノの整理をする必要が無いからであろう。
しかし、逆に考えると、笑いを職業にして居る人々は、人間を一時的に「間抜け」にして居るのだから、「真面目・間締め」に真理を追究したり、学問に取り組んだり、儀式を執り行っている人達にとっては、邪魔な存在である事にも成る。
特に、廣池千九郎が創設した「モラロジー」では、笑いを引き出す様な講演の仕方は禁止されている。何故かと言うと、人間は笑ってしまうと、考えている理・ことが脳から飛んでしまうからである。だから、老子や釈迦牟尼佛やイエスの様な聖者の話には、笑いは無い。何故かと謂うと、冗談が混ざっていると、聞く側の人間がまた冗談なのではないかと想い、笑いの方に意識が行って、真実の方に意識が向かなく成ってしまうからである。
私に「霊魂の思頼・みたまのふゆ」として、遣って来た人々は、殆どが宗教家か、天皇霊か、社会運動家などであり、お笑いを振りまいて生きた人々ではないのである。そして、其の人格霊(精霊)の背景に、龍神や宇宙神(はたらき)が存在するのである。
今朝のメッセージの映像には、其の子供達の身体や口を借りていたモノの正体が、姿を現して来た様である。是までにも、神霊や女神が数多く現れたが、今朝現れた神霊・女神は、是まで出て来たモノとは違っていた。
昨夜は12時に宿舎に帰り、シャワーを浴びてベッドに横に成って目を閉じて居ると、食事が準備されている長い食卓が映し出されて来て、其の食卓に霊魂が集まって来て、食事を始める様子が映し出されて来た。其の集まって来た霊魂を、一体づつ良く観ていると、姿が大きく成ったり小さく成ったりしながら、顔も様々に変化して行くのである。其れは、一体一体が何百回も輪廻を繰り返しているので、食べ物が変わる度に、其の食べ物が常食であったか、好物であったかに因って、食べている身体の情報・思い出が入れ替わるからであろう。
私は、其の食卓の様子を見ながら、まるで、妖怪の集まりの食卓の様だなと想って居る処で、眠りに落ちて行った。
そして、眠ってから現れた映像は、何処かの一軒屋の畳が敷いてある広間に、大人の男女のが10数名集まって居た。私は、皆よりは少し遅れて参加した様で、入り口に近い所に座って居た。そして、大体の参加者が揃った処で、瞑想に入る事に成った。
其の日の、瞑想・ヨガの先導者が私の役割の様で、私が「では 皆様 今夜は 私が先導します」との意味の様な事を云って、瞑想・ヨガの体制に入ろうとすると、左側に2名の参加者が新たに現れた。
其の二人を良く見ると、姉弟の間柄か、年下の夫を持った40歳ぐらいの女性で、女性の方が私の左横に座り、男性の方は其の向こう側に座った。其の女性は、体格が良く、色白で顔は面長でナカナカの美人である。そして、相棒の男性は、痩せ型で役者の様な風体であり、「色男 金と力は 無かりけり」の言葉が、其のまま当て嵌る様な男性である。其れに、何故か、其の男性は下半身に下着を着けておらず男根が丸出しであった。
私は、其の男女の存在が判らずに困って居ると「シャクティ」との言葉が告げられて来て、其の言葉の意味に意識が向かったので、其の瞑想・ヨガの部屋の場面は消えてしまった。私は、其の言葉を忘れない為に、枕元のスタンドを点けて紙に「シャクティ」と書いて、また眠りに入った。
すると今度は、違う瞑想会場が現れた。其の空間は、お寺の本堂の様な広い部屋で、電灯が消されて暗いので、夜間である事が判った。其の部屋には、蝋燭が澤山灯されていて、その蝋燭の明かりの中に、数多くの白百合が透明なガラスの花瓶に挿されていた。
私が、其の部屋の中央に進んで行くと、7年前に亡く成った小倉の樋口寿子さんが現れて、笑顔で私に「是は シャンカラ・・」と告げた。
其れから、蝋燭が消されて暗く成った部屋で瞑想を始めると、前の場面で「シャクティ」と告げられた女性の姿が、衣装を変えて現れて来た。其の女性は、ヨガの体勢で口を少し開けて気を吸い込んで、舌先で其の吸い込んだ気を丸めて居た。其れに、左手の指先を揉む様に捻ると、指先から青いトマトか毬藻の様な、薄緑色の丸い玉が次々に現れて、上の方に昇って行くのである。
私の意識が、其方の方を見ると、上に昇って行った丸い球は水面まで上がって、ぷかぷか浮かんでいることが判った。どうやら、其の女性は、水の中で生きて居る事が出来る霊体らしいのである。
私は、今朝は随分と変わった映像を見せられたモノだと考えながら、事務所に出て来て早速「シャクティ」と「シャンカラ」の言葉をYahoo辞典で検索して見た。すると、次の様に載っている。
・「シャクティ」シャクティ派(しゃくてぃは) ヒンドゥー教シバ派の一派。性力(せいりき)派と訳されることもある。この派の聖典はタントラとよばれ、7世紀ころから多数編纂(へんさん)された。狭義のタントリズムというのはこの派の教義をさすが、その内容は一定ではない。ただし、シバ神の妃であるドゥルガーないしカーリーを宇宙開展の根本的活動力(シャクティ)とみなして崇拝し、その女神とシバ神の合一を自らの身体において実現し、神通力(じんずうりき)ないし解脱(げだつ)を得ようとする点に共通性がある。大まかに分けて、この派には左道派と右道派がある。左道派は、女神に動植物の犠牲を捧(ささ)げ、輪坐(りんざ)儀礼、呪術(じゅじゅつ)を行う。 輪坐儀礼においては、酒、肉、魚、焦がした穀物、性交の五つが享受される。この五つはすべてMを頭文字とするサンスクリット語で表されるため、五M字(五摩(ごま)字)とよばれる。左道派はとくに10世紀ころに栄え、タントラ仏教に影響を与えた。一方、13世紀ころから盛んになった右道派は、特別の儀礼を行わず、身体を宇宙と相同であるとみなし、ヨーガの力でその身体を生理的に操作することによって目的を達成しようとした。
・「シャンカラ」(シャンカラ(しゃんから) 700ころ―750ころ)
インドの宗教家、哲学者。インド哲学の主流をなすベーダーンタ学派のなかの不二一元論(ふにいちげんろん)派の開祖。その生涯を正確に知る資料はないが、伝説によれば、南インドのケララ州カーラディでナムブーディリというバラモン階級の子として生まれた。幼いときに父を失い、出家してゴービンダに師事。全インドを遊行(ゆぎょう)し、他の諸学派の指導者たちと議論を闘わせ、スレーシュバラらの弟子を得、正統バラモン教史上初めて僧院を建立。この派の僧院は今日インド各地に存在するが、総本山は南インドのカルナータカ州シュリンゲーリにあり、そのほか東部のプリー、西部のドバーラカー、ヒマラヤ地方のバダリナータ、タミル・ナド州のカーンチーにある僧院が主要なもの。それらの僧院の長はシャンカラ・アーチャーリヤ(師)といわれる。
彼の生涯は短く、伝説では32(または38)歳でヒマラヤ地方のケーダールナータで没したという。彼には300点を超える著作が帰せられているが、大部分は偽作と考えられる。主著はベーダーンタ学派の根本聖典に対する現存最古の注釈『ブラフマ・スートラ注解』。このほか真作と考えられる作品には『ブリハッド・アーラニヤカ』などの古ウパニシャッドに対する注解があり、独立作品で真作と思われるものに『ウパデーシャ・サーハスリー』がある。シャンカラの哲学の目ざすものは輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)であり、その手段は、ウパニシャッドの説く宇宙の絶対原理ブラフマンと個人の本体アートマンとは同一であるという知識である。
現実の日常経験がこの真理と矛盾しているのは無明(むみょう)のためであり、肉体を含めたいっさいの現象世界は無明によってブラフマンに付託されたものにすぎず、本来実在しないとして幻影主義的一元論、すなわち不二一元論を説いた。彼の思想が後代に与えた影響は大きく、インド最大の哲学者とみなされ、不二一元論は今日のインドの思想界の主流をなしている。 引用終了
この説明に拠ると、今朝のメッセージの映像の内容と、辞典の説明は大体において符号している様である。
今朝の映像で、白百合と共に現れて「シャンカラ」と私に告げた「樋口寿子さん」は、岡田茂吉の救世教の熱心な信者であり、自然食の普及に尽力していた学校の教師であった。其の樋口寿子さんが、笑顔で現れたのは迷いが晴れたと言うか、真理を悟ったからかも知れない。其れとも、「食育」が一般社会で叫ばれる様に成って来たからであろうか。
そして、蝋燭の灯りと白百合は、世界共通で神に捧げられる物である。白百合はキリスト教の絵画でも神に捧げられる物であり、日本では奈良の三輪神社等で「さいぐさ祭り」と言って、巫女さんが「白百合・笹百合」を手に持って舞が舞われる。「さいぐさ」とは、神に捧げる「斎草・さいくさ」であり、百合の花が三枝付くので「三枝・さいぐさ」とも書かれる。
其の、「白百合・笹百合」の香りには、成分的に麻酔作用の様な効果が有り、笹百合を手に持って舞うと其の香りを吸うので、我を忘れて舞う事が出来るらしい。其れは、私が奥出雲の横田町に有る「稲田姫神社」で、1998年6月16日に安部忠宏氏と共に「さいぐさ祭り」を開催し、其の祭りで実際に3人の巫女さんに起きた事なので、間違いは無い。
「稲田姫 斎草まつり」http://moon.ap.teacup.com/20051112/327.html
其れは、空気中に漂う香りの成分・気を吸う事で起きる事であるが、今朝現れた女性は、水中で口から気を吸い、其の気を指先に送って「毬藻・まりも」の様な、植物性の球体に変える事が出来るらしいのである。其れは、水の中から、藻と言うか葉緑素の働きを造り出せる力を持っている事に成る。其れこそが、生命の「根本的活動力(シャクティ)」であるとの意味ではないだろうか。
今朝現れた女性は、「水」と「葉緑素」と「太陽光線」の働きを示しているのかも知れない。そして、其の女性は、自分が主体・主人である理・ことを示しており、連れの男性の方は単なる「生殖・性力」の補助的存在でしかない理・ことを、示しているのではないだろうか。
其の様に考えると、住吉三神や、宗像三女神の根本には、今朝現れた女性の働きが在ると言う理・ことにも成るだろう。
今朝のメッセージの映像は、釈迦牟尼佛の教えである仏教の世界ではなく、其れ以前のヒンズー教の世界に私の意識が入り込んで、見えて来たモノなのかも知れない。
今朝のメッセージの内容が、解かり易く説明されているのが、次の文章ではないだろうか。
・・ヒンドゥー教の姿の一つであるシャクティ主義はヴェーダーンタ、サーンキヤ及びタントラ教ヒンドゥー哲学と密接な関係がある、徹底した一元論である。バクティ・ヨーガの伝統も深くこれに関係している。シャクティという女性的なエネルギーがヒンドゥー教における現象宇宙のあらゆる存在や動きの背後にある。宇宙そのものはブラフマンであり、これは不変の、無限の、内在的であり超越的な、「世界精神」である。男性的な能力は女性的なダイナミズムによって実現され、そのダイナミズムは様々な女神によって体現され、その女神は元を正せば一人の母神である。 ウィキペディア辞典
昨夜から、今朝に掛けてのメッセージは、昼間の世界である「天照界」ではなく、夜を意味する「月読界」か、海原を意味する「スサノオ界」からのモノの様である。其れが、台湾や香港を通り越して、インドのヒンズー教の方にまで伸びて行った事に、何の意味が有るのだろうか。
若しかしたら、西方浄土が有ると信じて、旅立った人達の、霊魂の吹き溜まりだったのであろうか。
この続きは、また明日の楽しみである。また、今朝の女性が現れて来るだろうか、まるで、霊界の連続ドラマの様に・・・
平成21年8月27日
礒邉自適

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