2009/7/5
視覚と聴覚
21・7・5
昨日のメッセージには、一軒一軒の家の特徴が映像にて示されて来て、「麒麟」の文字と、「じゆう」と「そんちょう」との言葉が伝えられて来た。
そして、今朝のメッセージの映像には、日本語の縦書きと、横書きの文章が映し出されて来た。
横書きと、縦書きの文章が両方有るのは、日本だけの文化なのかも知れない。縦書きは中国の漢字文化であり、横書きは西洋の科学や数学文化の影響であろう。日本の学校の教科書は、現在はどう成っているのかは判らないが、私の子供時代は国語と社会は縦書きの文章で、数学と理科は横書きであった様な気がする。
若しかしたら、其の横書きと縦書きの勉強の仕方が、いまの私の脳の思考に関係しているのではないだろうか。
昨日のメッセージに現れた家並の映像は、私の故郷の景色を土台として組み立てられているものである。そして「麒麟・きりん」の漢字は、本で学んだ物であり、視覚神経を使ってビジョンとして映されて来ている。
処が、「じゆう」と「そんちょう」は、言葉で伝えられて来た物だから、聴覚神経を使って来ている物であるので、「お告げ」と言う事に成るであろう。
其れを考えると、「そんちょう」とは「尊重」ではなく「村長」であるかも知れない。もし「村長」であるなら、「自由な村長」と言う事に成り、「すめらの命」の事ではなく、いま始まっている村造りの「園長・村長」の事に成る。
其れだと、やはり漢字は、意味が固定されるので有り難い物である。其の様に考えると、数学を漢字で表記するのは骨が折れそうなので、「アラビア数字(元はインド数字)」の存在も有り難いと言う事に成る。 参考文献
「アラビア数字」http://www.aii-t.org/j/maqha/thaqafa/arqam.htm
面白い事に、昨日はテレビ局の人達がカメラを持って3名事務所に訪ねて来て、現在行方不明に成っている男性の写真が欲しいと言うのである。私が、大きなアルバムが60冊以上有るので、探し出すのに時間が掛かるし、今梅雨なので湿気取りを入れて収納してあると、応えると「自分達が 手分けして捜すから」と云うのである。
彼等が、私の所に遣って来たのは、行方不明の家族が写真の提供をしてくれないし、他にも写真を持って居る人が存在せず、誰かに「自適さんなら 持っているかも知れない」と聞いて、私の所を訪ねて来たとの事である。其の理由は、写真が無いので、どんな顔の人なのかが判らないから、どうしても写真が必要だとの事なのである。
其れは、可笑しな話である。見た事の無い人の顔を、どうしてアルバムの中から見付け出す事が出来るのであろうか。其処にも、人間の知識と、現実世界のギャップが有る。
私は、其の行方不明の人物が載っている雑誌の存在を教えて、其の役割を終えた。そして其の人達から夕方、無事に写真の収録を終えた事のお礼の電話が有った。
其の出来事からも、映像には「言葉・名詞」が付加されていなければ、役に立たないと言う事に成る。まして、個人の脳に浮かび上がる映像を、他人に伝えるのには、絵や言葉の文化が蓄積されていなければどうにも成らない。其れを考えると、人間社会とは「言葉」と「文字」と「絵画」の積み上げで、出来ているモノである事に成る。
だから「文化」「文明」の単語は「文」の文字が使われているのであろう。其の「文・ブン」の漢字は、胸に刺青をしている人の象形である。だから、漢字の始まりも、エジプト文字と同じく絵であると言う事に成る。
昨日のメッセージの最後には、昔の黒いカセットデッキが映し出されて来て、其のデッキに電源を入れて音楽を流すと、新しい世界が消えてしまう映像が現れて来た。
其の映像の意味は、文字や言葉だけではなく、過去の音楽を流すと、其の音楽を聞いた人間は、其の音楽に関係の有る自分の過去の情報が蘇ってしまい、癒し・禊ぎに成らないとの事であろう。
特に、自分の恋愛に関係が有る歌や音楽は、其の曲が流れた瞬間に、昔の思い出が一瞬にして浮かび上がって来る。だから、禊ぎ祓いを目的とする「園・ステージ・グランド」内では、音楽を流しては成らないと言う事なのであろう。其の様に考えると、禊ぎの村・邑の中では、誰も過去の話しをしては成らないと言う理・ことに成る。
其れは、聞く側も、話す側も、昔の出来事を思い出してしまうからである。
日本の諺・ことわざに「他人の噂も75日」と有る。其れは、75日経てば人々の噂話は消えてしまう理・ことを意味している。其の諺の意味を考えると、人間の脳は絶えず新しい情報を求めているので、新しい話題に接触すれば、其の話題が上書きされるので、前の情報は下の方に隠れて行く理・ことを意味していることになる。
其れに、PCと違って、人間の細胞は3ヶ月で入れ代わっているとの理・ことなので、当然、脳細胞も3ヶ月で入れ換わるから、過去の記憶も90日で消えてしまうのであろう。
だから90日間、以前の話題・情報に触れなければ、過去の記憶は脳から自動的に外れてしまうのである。其れが、人間が過去の出来事を忘れられる能力なのである。しかし、75日間内に、過去の話題が持ち上がって記憶が蘇ってしまうと、再び脳に新しく記憶され、また消去が90日間延長される事に成るのである。
其の過去の情報は、言葉や、人間の相手だけではなく、音楽や写真、其れに身に付ける装飾品や家財道具までが、過去・昨日までの情報を伝える存在なのである。
其れに、夜寝る事で忘れて居た自分の記憶は、朝目覚めた部屋の有り様から復活し、歯磨きをする行為や、鏡で自分の顔を見る事で、自分の日常を確認し、昨日の続きを始める事に成るのである。だから、人間は、朝起きた瞬間から、昨日の続きの人間を創り上げて生きている事に成る。
だからこそ、インドの釈迦牟尼仏は「出家」を薦め、イエスキリストは仕事や親兄弟を捨てて、自分に付いて来る様に謂ったのである。其れは、過去の情報・因縁を断ち切る為なのである。其れと同じ目的で、日本では古くから禊ぎ祓いの儀式や、山にお籠りする風習が伝え続けられて来たのである。
其れは、人間が「一家」を形成する事を止め、「大家」からも離れ、「国家」の権力からも離脱する事である。其れが、釈迦牟尼仏の下に参加する事であり、宇宙の「法・ダルマ・真理」を会得する手段であるのだ。其れが、仏教で云われている「小乗」であり、小乗でなければ悟る事が出来ないのである。
そして悟ってから、一家や大家や国家を超えた世界で、事象に関わる事が大乗の世界である。だから、悟るまでが「大変・大事」で、悟ってからがまた大変・大事なのである。其の理・ことが、現在の自称「仏教徒」の人達には理解されていないのである。其れが理解されていれば、一家・一宗を設けて、葬式商売などをしている分けが無いからである。
現在の葬式坊主の日常は、お経をすらすら読むのが金儲けに必須の事だから、毎日お経を忘れない様に読教を続けている。其れは、小学生が国語の本を、毎日声を出して読む事と目的が同じであり、教科書の文句を覚える為である。もし学校で、釈迦牟尼佛の訓えや、老子の訓えを護れば、お経の文句は75日で忘れてしまうであろう。
釈迦牟尼佛は、言葉を使う事を止めろと法華経の十二縁起で訓えているし、老子は「民に學問をさせると 賢しらが増えて 国が乱れる」と謂っている。
「法華経の十二縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
もし、現代社会に大悟した御仁が在れば、衆生救済の為に「政(まつりごと)」の世界に乗り出しているはずである。何故なら、其れこそが釈迦牟尼佛の悲願だからである。
「政(まつりごと)」の日本語の意味は、漢字では「公・コウ」で有り、日本語では「おおやけ・大宅」である。「大宅・おおやけ」とは、「三宅・みやけ・宮家」と読む様に「国家」の家を意味し、国の「経世済民・けいせいさいみん」を図る為の、大きな「邸宅・政府・城」の意味である。
しかし、現在の世の中には、インターネットとPCが有るので、何処かに大型コンピュータが存在すれば、大きな「大宅・建物・政府」は必要ではない。其れを考えると、現在叫ばれている「地方分権」や「道州制」は、理に適っていると謂えるであろう。
しかし其の前に、新しい情報を発信する拠点を準備する必要が有るだろう。其処では、新しい言葉や音楽を創造し、子供や若者に提供して行かなければ成らない。何故なら、其れが本来の教育だからである。「教育」の言葉は、英語の「エデュケーション・education」を訳す為に創られた言葉であり、英語のeducationの意味は、相手の内に秘められている「みこともち・使命・能力」を、引き出してやるとの理・ことである。
だから、現在の教育の様に、過去の情報を詰め込む事は、本来の教育ではないのである。
教育が行われていなかった時代であれば、新しい情報を入力するだけの学習で良かったのである。しかし、現代人は過去の情報を頭一杯に詰め込まれているので、先ず其の情報を消去しなければ成らないのである。其の意味は、寺に訪ねて来て質問をする客人に、住職が湯飲み茶碗から溢れる茶を注ぎ続ける逸話で、有名である。
其れが、現在、屋久島に造られている村の役割であろう。
「癒・(いやし)」の漢字は、「疒+兪+心」の組み合わせで、「疒」は「人がベッド(寝台)に寄り掛かっている形」で、「刖 」は「丸木船を造る為に、中の一部分を抜き取る・削る」意味で、「1部分を抜き取る」の意味に使用されている。 漢語林
其の漢字の意味からすると、相手の「身体」や「精神・心」を悩ませている原因を取り除いて遣る理・ことが、癒しの意味である事に成る。
「癒・いやし」http://wave.ap.teacup.com/20060106/153.html
其の意味からすると、現在進められている薬草園・祇園精舎の役割は、訪ねて来る人達の過去を癒し、新しい未来世界の情報をインプットして、社会に送り出す舞台・ランドである事に成る。
其の為の情報は、師の下で修行した私に、情報・ノーハウとして残っている。其の世界は、私自身が37歳まで業・カルマが深い世界に住んで居たので、他人の其れよりは内容が深く、どんな人間でも相手に成れるのではないだろうか。
其の様に考えると、私の人生が何故、此の様な状況なのかも理解されると謂うものである。私は是から、自分に起きた事が、何であったのかの、謎解きと言うか、説明をして行く事が必要なのであろう。
其れは、「人間は 何処から来て 何処に還って行くのか?」の、人類の永遠のテーマに取り組んで行く事である。そして、漢字の「自分」の意味が「自らを 刀で両方に切り分けて おのれの分けを知る」であるから、其の自分の答えを出す事にも繋がるのである。
其の作業が、新しき村を舞台にして、始まるとの事なのではないだろうか。其れが岡山から来島したIさんに告げられた「新しきランドセル」の意味なのであろう。其の、ランドセルの中に詰める教材こそが、視覚や聴覚を始めとする人間の五感を進化させるモノでなければならないのである。
其の為にこそ、新しき村が必要であり、其の村に来ることは、四国八十八箇所巡りをして六根清浄をはかるよりも、近道・効果的で有らねば成らないのであろう。
平成21年7月5日
礒邉自適

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