2009/4/4
マラカスの神がミイラに還って来た
21・4・4
今朝のメッセージの映像は、メッセージと言うより「身体に起きた 現象」と謂った方が良いだろう。
今朝の映像は、先ず、私の意識が、楽器の「マラカス」を作る為に、瓢箪・ひょうたんの様な物の中身を、きれいに刳り抜いて居る処から始まった。
そして、其れが音楽に関係が有る働きだと理解すると、今度は、私の意識は足を伸ばして仰向けに寝ているミイラの身体に成り、其の身体に、音楽の神が重なって来て、ミイラの骨がダンスをする為に復活を遂げ始めた。
そして、元に蘇った人間の身体が、道路に出て行くと、道路の上の空中に、手足が火が燃えている長い炎の様に成って、揺らいでいる男性の姿が在った。其の男性は、服を着ていて、赤く揺らいでいる両手で、私を手招きするのである。
私が、其の男性が案内する方向に向かうと、山中に木造りの小家が1軒有り、其の家には3人の音楽家族が住んで居た。私は、其の家の中に入り、邪魔に成らない様に囲炉裏の側に座った。そして暫らくすると、其の小屋の入り口の戸の外に、マラカスを鳴らす神様が遣って来て、戸を開ける様に、私に催促をするのである。
私が立ち上がって戸を開けると、一段低く成っている庭に、3頭の馬が来ていて、3頭とも深く頭を下げるのである。私は、其の3頭の馬が、私に何をして欲しいのかを訊ねると、別の馬小屋に、歳を取って死に掛けている馬が、1頭倒れているのが映し出されて来て、私に其の馬の頭を冠って、馬神の後を継いでくれとの事なのである。
そして、次に、私が書いている様な横書きの長い文章が出て来たが、其の文章の内容は私の書いた物ではない事が判った。私は、誰の書いた文章だろうかと想い、其の紙を良く見ていると、其の紙は私の文章の上に、重ねられている物である事が解かった。そして、其の紙の上端を見ると、左右とも1ミリもずれていない事が判った。
どうやら、其の文章を書いたモノの意識と、私の意識は、1ミリの誤差が無い程ピッタリと合っているらしい。
どうやら今朝のメッセージは、音楽の神様と、人間のミイラと、馬頭観音の関係性が告げられて来ている様である。其のミイラが、何処の国の人間のミイラかは判らないが、音楽に関係の有るシャーマン的な人間のミイラである事は、間違いないであろう。
私は25年前、此の世界に入った時に、毎日狂っている様に踊っていた。私は、何1つ楽器を演奏出来ない人間である、しかし其の時は、バケツを反対にして草刈り鎌の柄で太鼓を叩いたり、山に向かって口笛を吹きながら踊ったりして居た。
今朝は、其の状態が再び還って来た様に、寝ているのに身体がリズムをとって動き出したのである。其の現象は、屋久島の音楽の神様である「ピーコドンドン」が身体に降りて来た現象なのであろう。
「屋久島の音楽神」http://moon.ap.teacup.com/20061108/402.html
漢字の「音楽」の「楽・ガク」は、種子が中に入っている、木の実が着いている木の枝の象形文字で、乾燥してカラカラと音が出る枝を振って、楽しむとの意味である。其れを考えると、マラカスは音楽の原点と言うか、基本を、意味しているのであろう。
「マラカス」、体鳴楽器に分類される打楽器のひとつ。一般にマラカスと呼ぶが、これは「マラカ」の複数形である。
手に乗るほどの大きさの柄の付いた中空の球の中に、小さな玉を入れ、これを振って音を出す。普通は音の違うものを2個用意し、両手に持ってそれぞれ鳴らす。鳴らすときに、ひとつだけ「シャッ」と音を出すためには、楽器を振り回すことなく、まず楽器を軽く持ち、急激に楽器の球の半径ほど下げて、強く柄を握るようにする。また円を描くように振り回す事で、連続的なノイズが得られる。
元来は、ヤシ科のマラカの実を乾燥させて作るが、現在では木製が多い。また合成樹脂製のものがあり、音質は劣るが安価であるためカラオケ店などによく置いてある。現代音楽の打楽器アンサンブルでティンパニやコンガなどの膜質打楽器をマラカスで打撃するという奏法があるが、鼓面を止めているクランプに誤ってマラカスを打ち付けると木製のものでは割れてしまう危険が高いため、合成樹脂製のマラカスで代用する場合も見られる。 ─引用終了─ ウィキペディア辞典
今朝のメッセージで気に成るのは、昨日のメッセージの「わたしの遊び場」の言葉である。今朝のメッセージは、確かに、此の三次元世界が「神の遊び場」である理・ことが示されて来ている。其の事と、私の文章を書いた紙と、神が書いた文章の紙が、1ミリの狂いも無くピタッと重なっていた事に、どんな関係が有るのだろうか。
文章を書く能力は、人間の大脳の働きに拠るものである。そして、心臓の動きや呼吸を司っているのは自律神経であり、小脳・古代皮質で、蜥蜴や蛇の脳と同じである。其の大小の中間に当る中脳は、カンガルーや、馬等の動物と同じ次元の物である。
其れを考えると、今朝馬が3頭出て来たのは、私の中脳が動き出した理・ことを意味しており、其の中脳が馬頭と繋がっていると謂うか、ピタッと同調・チャンネルしたとの事であろうか。
「馬頭観音」(ばとうかんのん / めづかんのん)、梵名ハヤグリーヴァ ([hayagriiva])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとる。
三昧耶形は白馬頭、三角形の中の棍棒。種子(種字)はカン(haM)。
梵名のハヤグリーヴァ(音写:何耶掲梨婆)は「馬の首」の意である。これはヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。 他にも「馬頭観音菩薩」、「馬頭観世音菩薩」、「馬頭明王」などさまざまな呼称がある。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。
転輪聖王の宝馬が四方に馳駆して、これを威伏するが如く、生死の大海を跋渉して四魔を催伏する大威勢力・大精進力を表す観音であり、無明の重き障りをまさに大食の馬の如く食らい尽くすという。師子無畏観音ともいう。 ウィキペディア辞典
屋久島で「馬頭神」を祭って有るのは、平内地区の屋久島おおぞら高等学校の真上に有る、小高い山頂である。其の位置は、東経130度30分の線上であり、其の線は屋久島の真北に有る矢筈岬から開聞岳を通って、久留米の水天宮→大宰府天満宮→宗像大社へと繋がっている。(此処で 右手の小指にカモ(神の電気信号)が来る)
「東経130度30分・自適塾案内に」http://www17.ocn.ne.jp/~yjj/yjj/top.html
其れに、今回設立された高平の会社の事務所の横の山には、「目の神様」が祭られている。其の「目の神様」こそ、「罔象女神(みつはのめのかみ)三つ葉目の神・328」なのかも知れない。
「目の神様」http://moon.ap.teacup.com/20070607/66.html
「馬」の事で思い出されて来るのは、イエスキリストと、聖徳太子が、馬小屋で生まれている事である。其れに、私も、名前だけは馬小屋で生まれたらしい。何故、聖者と馬小屋が関係有るのかは私にも良く解からない。しかし、今朝、夢に現れた馬達は、余りにもリアル感が強かったので、神と人間の存在の間には、馬の意識が存在する事は明らかである。(此処で 左手の薬指に 強いカモ(神の電気信号)が来る)
だからこそ、馬は天馬として絵画に描かれ、神の使いや天使の乗り物とされているのだろう。
・・・母親の話では、私の「自適」の名は、私が産れた次の日1947(S22)年1月30日に、父親が畑の農作業から馬を引いて馬小屋の前まで帰って来たら、突然頭の中に「自適」と言葉が飛び込んで来て、父親は驚いて、馬をそのまま馬小屋の前に放ったまま、自宅に走って来て「この子は自適だ」と叫んだとの事である。・・・
「自(ゆるやかに)」http://wave.ap.teacup.com/20060106/145.html
其れ等の事を考えると、此の137億年の宇宙の時間的流れには、地球生命の36億年の時間帯の中に、様々な生き物の存在情報が含まれており、其々の生き物・動物の身体や住み家には、其の生命の霊魂・たましいのバイブレーションが有って、人間の霊魂・たましいが其の琴線に触れると、其の霊魂・たましいとの情報と同調が起こり、霊的空間・四次元世界に入り込むのかも知れない。
其の世界が、アニミズムと言うか、シャーマニズムの世界なのであろう。
私の意識は、25年前の振り出しの処に還っており、再び、天馬と共に新たな次元へと飛翔しようとしているのではないだろうか。今朝は、其の世界には、音楽が欠かせない物である理・ことを示して来ており、霊的なたましいは、音を乗り物にしているとの理・ことではないだろうか。
昨日、安房の公民館で開催された、有名な永田農法の永田照喜治先生の講演会には、100名を越える人々が集まり無事に終える事が出来た。屋久島で、こう言う催しに100名もの人間が集まるのは、稀な事である。3日後の7日には、薬草園の井戸掘りの地鎮祭も行われる。現実界でも、順調に事が進んでいる。其の事も、神界に良い影響を与えているのかも知れない。
「自適の今日」http://wave.ap.teacup.com/894019/
平成21年4月4日
礒 邉 自 適

0
※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。