山の神の太鼓の音
突然軽い太鼓の音が上向江方面からしてきた。
不審に思いてガラス戸を開けたところ音はハタと止まった。再び引き返そうとしたとたん、堂内中央でいきなり姿なきに、「ドンドン」と力強い太鼓の響きが天井にはねかえって、まるで酒盛りのような賑やかな叩きようであった。叩いている方はお1人であらせられた。余りの突然の神霊の御降臨に驚愕し、非礼をお詫びして引き退った。
永田岳 1866mをのぞむ
永田田の上神社
全文
田之神神社縁起考
・ 主祭神 左 豊受大御神
併祀 右 森山大明神
・神社の創立年
此の神社が最初に建てられた年は、当時の棟札や記録が無いので不明であるが、明治初年(1865〜68)の廃仏毀釈の嵐のあと、同9年信教の自由が認められ神社法が制定されたあとで、大体明治20年(1887)前とみて差し支えなかろう。
・ 社格
昭和20年(1945)5月に島内各集落地の神社調査を行なって神社庁に提出した控帳には、宮之浦の益救神社を除いて凡て無資格社となっている。
・ 祭日
豊作を祝い祭る秋祭りが、陰暦の9月1日に欠かすことなく毎歳、賑やかに取り行なわれている。
・ 勧請
田之神神社が、いずれから勧請されて来たかは不明であるが、伊勢神宮外宮のことに就いて「豊受大御神」は延暦23年(804)撰上の「止由気大神宮儀式帳」によると、第21代雄略天皇の22年、天照大御神の神託が天皇の御夢に有って、丹後の國比沼の真奈井から天照大神の御饌都神(みけつかみ)即ちお食事を差し上げる役としてお迎えしたとある。
この神は伊勢外宮の祭神で、農産物や畜産の神又は保食(うけもち)神として古くから農民の間で広く親しまれ、信仰されてきた。此の神が別名「お産の神」として尊崇されているのは、ひいては子孫繁昌にもという、人々の切なる願望からきているものであろう。
・ 併祀
主祭神の左側に祀られてあるのは御神位がわからぬので、確証を得る為歳月をかけて調べあげたところ、漸くにして判明したので、改めてご神名をご披露させていただきました。
森山大明神について 部落を最初に拓かれた方々を森の神として祀る習俗、嘗って昔、伝染病の為田舎(平・中野)を棄てて上向江・半田方面に移り住みし人々は、心の支えとして森山大明神を方限山の森に祀ることにした。(御神体は大岩)
人が死ぬと魂は遠くには行かず、自分達が住んで居た家や村の見える高い木(アコーやガジュマル等が多い)を依代(よりしろ)として、朝夕子孫を見守ってくれているという民族信仰に基づくもので、いわゆる「神仏混合」の時代であったが、明治維新政府は祭政一致の対場上神仏分離令を出して、日本全国のそれら風俗の廃止を行った。そして津々浦々に皇室の神々が祀られるようになったのである。
このようなことで、祀りどころを失った村人は役員が中心となって其の森山大明神を棄てきれず、この神社創立の際神名を隠して、そっと同居させて貰っていた。というのが実情のようです。
屋久島では今でも神社名として使っているものに、吉田の森山神社、石塔として文化財にも価する屋久町仲間公民館敷地内にある「森山大明神」と今も鮮やかに刻まれていて、近所の一老人が親しげに今に香華・御酒をあげていた。
種子島は神道が盛んで、何処の神社も管理が行き届いている。この森山にしても今に其れを伝えている神聖なところが、北は国上・南は門倉崎の西之に至る迄森山が見かけられ、きれいに掃除されて、海の小石をうず高く拾って来て積んでいるのを見て、思わず目頭が熱くなったのを覚えている。
・ 神の屋根筋
田之神神社は、諸々の神々の禊ぎ行事で立ち寄られる尾根筋に当たる地点でもある。神山・かんやまというのもうなずけられる。この屋根筋を上って行くと、問山・といやま、神之尾根・かんのおね、入口・いっくち、神川・かんご、土面・どめん-土でつくった面、にしても神がかかったもので、これは明治16〜18年にかけて来島した山岳信仰による修験者(ことに霧島教会等)たちの付けた地名が、いまでも生きているのである。
・ 神下りの日
このことは昔から村人の間でよく聞かされる口承であったが、筆者が体験したことを後学の参考に記しておきたい。昭和62年【1987】8月21日早朝7時前、何時ものように外境内を掃除し花と水を取り替えて、息災を感謝申し上げていたところ、突然軽い太鼓の音が上向江方面からしてきた。
不審に思いてガラス戸を開けたところ音はハタと止まった。再び引き返そうとしたとたん、堂内中央でいきなり姿なきに、「ドンドン」と力強い太鼓の響きが天井にはねかえって、まるで酒盛りのような賑やかな叩きようであった。叩いている方はお1人であらせられた。余りの突然の神霊の御降臨に驚愕し、非礼をお詫びして引き退った。帰宅して陰暦を調べたら旧の7月16日旧盆の精霊流しの朝でもあった。(現在は新の8月15日がお盆中日)この日は、地獄の釜の蓋が開く日ともいわれる閻魔大王のご縁日でもあった。初めの太鼓の音が、もとの方限山と覚えしは、其処は以前の森山大明神を祀っていた方向ではなかったろうか。
この日の他にも、旧の23夜や、山供養日なども神下りがあると思われるが、閻魔大王のご縁日は、旧の1月15日もそうである。
神々の禊ぎの為の神下りと思われるが、参詣される善男善女はこのような事があるので心して参詣されるよう、目に映して神の存在観をお伝えしておく次第である。
以上
・ 上は 屋久島全域(口永良部島を含む)の各集落地の神社や祠に亘って祭神名を知らぬ人が多いことを憂慮し、昭和51年(1976)から今年にかけての10年間に各部落を徹底して調べあげたものの中より抜粋したもので、ご先祖たちが遣ってくれた民族信仰の宝を後世に伝え、今一度部落の守護神おわす鎮守の森を見直し、聞き直して、語りあうよう御神意に副え奉り度いものである。
・
・ 参考資料
一 記紀以前の資料による古代日本出史
婦人生活社 会長・原田常治著
― 日本神社考 津野岩三郎著
―神社辞典 東京堂発行 ―神社綱要 宮路直一著
―民間信仰 桜井徳太郎著 ―山伏歴史 村山修一著
― 神道成立 高取正男著 ― 丹羽風土記 大法輪
― 吉田の森山神社縁起 ― 志戸子お宝文庫
― 宮之浦益救神社記録
・ 田之峰遺跡と水神の碑
神社周辺は石器が出るので、大昔縄文時代はこの高台に人が住んでいた。今の住宅地は深い入り江のあとといわれる。この神社より2百米上った粘土とりの右側の地に、田を開いた折の水神の碑がある。天保8年(1837)頃のもの。
昭和62年10月吉日
郷土の神社・寺院研究者 日本歴史学会員
S18年早稲田大学専高卒
日高義弘泰山(1年9月21日生まれ)
此の文章は、額に収められ、田之神神社に奉納されている文章を書き写したものです。
平成19年6月19日
屋久島自適塾 塾長 礒 邉 自 適

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