出雲学びの家
古代 大国主と少彦名神とで国造りが行われた出雲で 新しき未来創造の学びが行われます。
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2008/2/2
「大日如来の意識・自適氏の日記から」
学び
大日如来の意識
20・2・2
今朝のメッセージは、大日如来と名付けられている宇宙意志の現れが、人間の脳その物である事が示されて来た。其れは、人類全体に共通して繋がっているモノであり、其れが魂しいと呼ぶモノである事が理解された。そして、其の「魂しい(脳)」の外壁の1部が、松の木の外壁の皮の様に剥がれ落ちるモノが、人間の「心・こころ」である事が示された。
だから人間の意識は、其の大日如来の魂しい(脳・永遠の命)と、外壁である心(新陳代謝)との間で、揺れ動いているモノなのである。
其れは、大日如来と呼ばれる宇宙総体の意識が、森羅万象の流転を支えながら成長している事を意味し、人間は其の生長する木の外壁の役割を果たしている事になる。だから一生を終えると、細胞破壊が起きて塵として消えて行くのである。しかし、其の外壁が剥げ落ちる前に組み込んだ情報は、内側から遺伝子の船に乗って上がって来る、子孫に受け継がれ、其の子孫がまた新しい外壁と成って役割を果たして行くのである。其れが、正月の鏡餅に添えられる「譲り葉」に託される意味なのであろう。
だから、人間の身体が「空蝉・うつせみ」であり、「空だ・身体」とイメージされ、其のカラダに乗船する意識が「霊魂・霊宿(ひと・人)」なのである。
だから是まで、「神(カム)・道(タオ)・法(ダルマ)・エホバ・アラー」等と呼ばれて、人間の意識の拠り所と成って来た、目に見えない確かな存在は、自分自身の「いのち」であり、其の「命・いのち」を繋いでいるのが「DNA・遺伝子」なのである。そして、其のコントロール-センターとして働いているのが、人間の脳なのだ。
だから、人間が頼れる唯一のモノは、自分自身の脳であり、其れを受け継いでいるDNAの継続システムなのである。そして1番大事な「理・こと」は、大脳の細胞だけではなく、人間の身体の60兆個の細胞や、其の繁殖体である67億人の人体も、其の大日如来と名付けられている、宇宙のシステムの現象体である事に成る。
だから、其の理に気付いた釈迦は「真に頼れるモノは 此の己の身体である。だから 精進に務めなさい。」と謂ったのである。其れは、宇宙に大日如来と言う働きが在り、其の働きに拠って生み出されている物が、人間であり、其の大日如来の働きは森羅万象を支えているので、衆生一切が皆その仲間(仏)であると謂っているのである。だから、あらゆる生命は、歳を取ると次ぎの物に入れ代わって、身体・情報を繋いでいるのである。其の仕組みこそが、大日如来の存在と言うことに成るのだ。
そして、其のシステムに素直に従って行く事が、日本の「惟神・かんながらの道」であり、老子の謂う「無為自然」であり、親鸞の謂う「自然法爾・じねんほうに」なのである。其れを、漢字では「自由」と概念付けしてある。自由の漢字の意味は、「自」は鼻の形の象形で「己・おのれ」を指差す意味で、「由」は大きなモノに従うとの意味である。だから、自由に成る為には、此の世界で一番大きなモノに、自分の身を委ねなければ成らない。其れが、財産や、国家権力や、宗教団体や、人間が考えだした思想などの、不安定な物であっては成らないのである。
しかし、其れ等は、仏像や、建物や、人物の様には、直接人間の肉眼の目には見えないモノである。其れは何故なのか、其れ自体が自分の中に住む遺伝子の鎖だからである。人間は生まれながらにして、自分の中に大日如来を内蔵しているのである。ただ、其れが自分の身体に内蔵されていて、小さくて確かめ様が無い為に、外側に其の働きを投影させて、視覚で認識しようとしたのが仏像や曼荼羅や絵画なのである。
しかし其の世界も、電子顕微鏡の開発や、コンピュターの性能アップで、人間の視覚に捉えられ、脳で認識出来る様に成って来たのである。だから、ようやく釈迦牟尼佛が潜在意識で捉えた世界が、万民の目で視覚化出来る時代に成ったのである。其れは、釈迦牟尼佛の教えが、単なる宗教の世界ではなくて、生命科学の世界であった事が、証明される時節を迎えている事に成る。
今朝の映像では、自分の「心・自我意識」が、大日如来の身体から剥がれ落ちる場面の次ぎにも映像が映り出されて来た。其れは、私が故郷に帰る為に船が出る港に着くと、途中で同じ汽車に乗って居た男性が、同じ船着き場に遣って来た。其れは、インド人風の浅黒いハンサムな30代の背が高い男である。其の男性は、是から私と同じ所に帰る人間なのか、私を此処まで道案内して来た、釈迦の若い時の姿なのかは、其の男性が無言で何も話さなかったので分からない。
もしかしたら、其れは釈迦牟尼佛であるけれども、釈迦が繋いで来た般若波羅蜜の智慧を、私が受け継いだ様に、是から同じシステムを継ぐ「霊宿・ひと」が、今後私の前に現れるとの事かも知れない。其れが宇宙のシステムであり、今後も大日如来の働きとして、誰かの思考で組み込まれた情報が受け継がれて行き、宇宙の存続を支えるとの理なのかも知れない。
此の様に書けば、宇宙レベルから考えれば無きに等しい小さな人間が、宇宙を支えるとの意味に成るが、其れは別に不自然な事ではないのである。其れは、人間の親が子供を育て、自分の育てた子供の云う事を聞いて、願いを適えて遣るのと、同じ事である。其れに現在では、手の平に納まる小さな携帯電話から情報を発信すれば、人工衛星の角度や、地上に設置されているパラポナアンテナの方向を変えたりも出来るのである。其れ等のシステムの存在を考えれば、此の複雑な仕組みの人間を創造して来た意識体が、人間の技に負ける訳がないのである。
こうして、私が毎日行っている行為も、私自身の能力で出来ている訳ではなく、ハード面でITの世界とPCを創り出し、ソフト面として61年掛けて私の思考パタンを組み上げて来ているからかそ可能に成ったのである。其の流れの全体を考えれば、何か大きな意識体が存在して、全てを管理していると考えなければ辻褄が合わない。
それは、私の人生を変えてしまった師の存在や、4311体もの霊魂・精霊に因る「神霊の思頼・みたまのふゆ」の現象を考えれば、其の出来事の背景には、阿弥陀仏の「人間には 計り知れない、光と慈悲の存在。」の概念の意味が、正等であると言うことにも成る。
今朝のメッセージは、其の証と成っている私の存在や意識が、只、松の木の外皮の一片に過ぎないと言う理・ことである。其れを考えれば、其の1本の木の身体には、何千もの外皮が着いていて、全体を護っている理・ことになる。其の事に気付けば、私が一人が責任を感じる必要は無いと言う事になる。其の様に考えれば、気が楽に成り、肩の荷も軽く成ると云うものである。ようやく、師に止められていた笑いを、表に出せる日が近づいたようである。
私が、此の世界の真理に気付き、笑い出したら、師は「自適さん笑うな。」と云って、私の笑いを止めてしまった。「だって是は 全部ジョークではないか。」と私が云うと、師は「今 自適さんが笑ってしまうと 其の波動が世界に拡がって、其の日に向けて修行している人の修行が、止まってしまう。」と云うのである。其れから、私の笑いは止まってしまっていたのである。しかし、今朝の映像で示された様に、私は、其の生命の木の皮の一片であり、剥がれ落ちて行く物であるとなれば、私が笑おうと、泣こうと、本体にはさして影響は無いと言う事になる。
其れは、私の意識が、内部の身の役割を終えて、皮膚の垢に成った事を意味している。そうであれば、もう私の「心・ココロ」がコロコロ変っても、内部には影響が無いと言う事である。だとすれば、私が普通の人間社会に出て行っても、全体的には差し障りが無いと謂う事である。
昨夜は、年賀状を貰った長女に深夜手紙を書いた。私は、自分の子供に手紙を出すのは初めてである。娘とは23年会っていないので、何をどう書ければ良いのか戸惑ったが、父親として一応無責任な部分を謝る内容にした。しかし未だ、其れをポストに投函する決心は着いてはいない。しかし、今朝のメッセージの内容からすれば、私が人間感情・こころに落ち込んでも、全体的にはもう影響を与える事は無いのであろう。
是からは、六根清浄ではなく、人間として五感を使用し、喜怒哀楽の世界に身を措いても良いのかも知れない。そうする事で、新しき「六識・シックスセンス」が磨かれるのではないだろうか。其れが、仏教で言う大乗の世界なのであろう。ようやく、荘子の謂う「至人無己」の世界の場に、踏み込んで行かなければ成らないのではないだろうか。
今日は先ほど、出雲の安部忠宏氏より電話が久し振りに有り、私の31日の文章を読み、いよいよ新しい幟旗を上げる事にしたと伝えて来た。是からは、今までの様に、都会発信型の社会システムではなく、ITを利用した地方ネットの生活中心型の社会と成って行くであろう。
そうしなければ、これ以上エネルギーを無駄にする社会構造は、続いて行かないのである。人間が、自然の中で真に幸福に生きて行く手段は、既に可能に成っているのである。
政治の現状を見ていても、東京から新しい価値観が生まれない事は、万民の知る処である。古代に、日本の国造りが行なわれた出雲で幟旗が揚げられれば、其れは一気に全国に拡がるのではないだろうか。
どうやら、9月15日までに、情報の発信と管理が間に合うのかも知れない。
瑞穂の国造り
http://www16.ocn.ne.jp/~yjj2/mizuhonokuni/
平成20年2月2日
礒 邉 自 適
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投稿者: 安部忠宏
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