出雲学びの家
古代 大国主と少彦名神とで国造りが行われた出雲で 新しき未来創造の学びが行われます。
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2008/3/28
「道具を使えない神々・自適氏日記より」
学び
写真 広島県比婆山山頂のイザナミの御陵
道具を使えない神々
20・3・28
今朝のビジョンは、短い映像であるが、短い故に大事な事を伝えて来ている様に想われる。
其れは、神霊や、霊界人は、実体としての手足を持たないので、此の三次元世界の道具を使えないと謂う事である。だからこそ、此の三次元世界に身を置く我々人間に頼って来るのである。
今朝の映像は、私が男女のペアーと一緒に、深い森の有る山岳に続く、登山道を歩いて居た。すると、途中で其の2人が水を飲みたいらしく、谷川に下りて行った。私が其の様子を眺めていると、どうして飲んで良いのかが判らない様子で、水を飲むのを止めて引き返して来た。私は、彼等に、上流に人家が無く、生活廃水が流れて来ていない川かどうかを確かめてから、こうして汲んで飲むのだと、岩から水が湧き出している所にペットボトルの口を当て、水を汲んで示していた。
其れから場面が変わり、女性の方が、3000の情報パワーを有している事を私に伝え、大型のパソコン画面の様な物が、明るい空白で映り出されて来た。そして次に、男性の方が、其れより大きくて明るい画面を現して、自分の方は5000の情報パワーを有していると示したのである。
其の場面が、どう言う意味を持っているのかは、私にも能く解からないが、もしかしたら「伊弉冉命・いざなみのみこと」と「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」のペアーの姿を、意味しているモノだったのかもしれない。
古事記の物語では、2人が夫婦喧嘩をして、「伊弉冉命」は「1日に1000人の人間を殺す。(消す)」と云い、其れに対して「伊邪那岐命」は「だったら1日に1500人の人間を生み出す。」と云ったと有る。其れに、「伊弉冉命」の身体からは、物が生み出され、「伊邪那岐命」の身体からは、神々の働きが生まれた事になっていて、「伊弉冉命・いざなみのみこと」と「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」は、モノとコトを生み出す働きとされているので、今朝の映像は、物事を生み出す力・パワーの量を示して来ているのかもしれない。
仏教の言葉に「色即是空・空即是色」と有り、此の世に生じている物は、空から生じたものである理・ことを伝えている。だから今朝の場面は、男女の物ごとを生み出すパワーの比率を、伝えて来ているのではないだろうか。其れは、女性は子供を産む働きと、育てる働きを持ち、男性は、此の現象界である三次元世界に、自然物ではない文化や文明を発明発見して、神の働きを助けて行く役割が有るとのことではないだろうか。
其の働きのパワーは、3対5の比率となり、男性の役割の方が難儀であるとの理であろう。
私が、今朝の数値で気に成る事は、私に其れを示して来た事と、3と5の比率の解釈である。其れが、10(全体)の中の3分と5分であれば、「10−(3+5)=2」で
残りが2分となる。それか、神の結びの働きを示す、神社の注連縄に差す稲藁の数の7・5・3であれば、数の多い7が残っている事になる。其の2と7の数が、人間が受け持つ生産力・パワーを意味しているのなら、道具を使わなければ、人間の力は神の働きの3と5より弱い2であり、道具を使えば、神の力より強い7に成るとの理・ことかもしれない。
2であれば、人間も動物と同じく、生殖活動をして、魂の器である肉体の遺伝子を伝え残すだけである。しかし、其の役割を人間が放棄すれば、神々も此の世界から消える事に成るのだから、2の世界は根本として大事なのである。そして、道具を使う事を発見し、文化・文明を発達させて来た人間は、脳を進化させ、神々の意識の進化を支えて来たので、7が人間のパワーを示していると考えても、間違いではないだろう。
しかし、今朝の場面から考えられる事は、男女のペアーが「伊弉冉命」と「伊邪那岐命」の様に、夫婦喧嘩(不調和)をしていれば、3対7か5対7の対応と成るので、どちらに対しても人間のパワーが優る事に成る。しかし今朝は、其のペアーが2人仲良く現れて来たので、既に仲直りしているらしいから協力している事に成り、「3+5=8」だから人間側の7よりは1分強い事になる。
そして今朝の映像では、私が其のペアーに、人間が自然環境に与えている影響や、近代社会の道具の使い方を丁寧に教えて居たので、神と力を合わせる事に成り「(3+5)+7=15」と成り、15のパワーを発揮出来ると言う事になる。其れは、ただ飲み食いと、セックスをして、遺伝子を伝えている2の働きとは、13もの開きが有ると言うコトに成るのだ。其の、2と13の数の差が、是から人間が生き残って行く為の、大事な理と成るのではないだろうか。
今朝の数値が3・5の数字ではなく「3000・5000」の千の数値で示されたのは、「3000+5000+2000」が1万に成るので、森羅万象の「万・萬(よろず)」「マン・満(みちる)」を伝える為ではないだろうか。今朝のメッセージは、其の「3+5+2=10」の働きに、人間の技である7が加われば、此の宇宙の森羅万象は安定もするし、未来へと繋がる理を、示して来ているのかもしれない。
其れにしても、男女のペアーが、パソコンの画面を応用して来た事は、私の日常と、意識の仕上がり具合を、良く知っている事を示している。と言う事は、其の2人の働きの背景に、未だ何者かが潜んでいる事に成る。まだまだ、此の世界は奥が深い様である。
平成20年3月28日
礒 邉 自 適
1
投稿者: 安部忠宏
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2008/3/27
「政(まつりごと)の助言・自適氏日記より」
学び
政(まつりごと)の助言
20・3・27
今日3月27日は、22年前(1986)衆議院議員二階堂進氏の鹿屋の自宅を訪ね、次の総理大臣に付いて話をした日であり、25日には皇居に手製のロケット弾が3発打ち込まれ、28日は大阪府警本部に火炎弾が3発打ち込まれてもいる。
そして、其の日に知った事は、本来の天皇家の菊の紋は、9つの花びらの菊花が、3つ三菱の様に組み合わされた物であると言う事だった。其れは「3x9=27」で、今日の日付けの「3・(3x9)27」と、数霊として因縁が有りそうである。
何故、其の様な事が、今朝、気に成るかと言うと、今朝のメッセージが「政治・政(まつりごと)」に付いての、助言の様な事ばかりだからである。
昨日の文章に、「新しい世界の創造」とのテーマ・題を付けたので、其れに対して神界・霊界人が、直ぐ反応をして来たのではないだろうか。
今朝のビジョンから考えられる事は、霊界人達が、過去の自分の「残念・怨念」を、私に「神霊の思頼・みたまのふゆ」して来るのではなく、私の是からの行動に対して、具体的な助言をして来ていると言う事である。其れは、私自身に、欲が無く成っているから、私に任していれば、何も行動を興しそうに無いので、私の行動を促す為に、色々な世界をイメージとして送り込んで来たのであろう。
先ず最初に、畑にブドウの木に実がたわわに実っているのに、収穫されないで、地面に落ちている場面が映されて来た。そして次に、作業を手伝う人達が派遣される場面が映されて来た。そして次に、其の作業員の派遣や、収穫された作物の流通を、航空会社が行なう事が示されて来た。
☆☆☆ 是は、「経済活動」が、広範囲で行なわれる事を意味しており、航空機が未来社会でも、飛ぶ事が許可されていることを、意味しているのではないだろうか。
次の映像は、師が現れて、私に水の入った雨靴を履かせて歩かせるのである。そして、其の雨靴の中の水が、立てる音を聴いて、聞こえる音から、歩く癖や、健康度を診察するのである。
☆☆☆☆ 此の場面は、健康に付いて示唆を与えて来ているのだろう。私の師は、出会って直ぐに、私に口を開けさせ、歯の状態を調べて、歯医者に行って歯を整える事を指示し、私が履いている靴の靴底を観て、其の磨り減り方から、病気の判断をしたのである。だから此の映像は、健康に付いての世界・概念を、根本の処から組み直せとの事であろう。其れは、人間は自分自身が健康管理をする事が大事であり、其れが医療費が下がる為の方法である理をも示唆しているのだろう。
次の映像は、前田氏とホテルに一緒に行き、私がロビーに居ると、其処に居る人達が私を見ながら、何かを云っているのである。私が、何故だろうかと怪訝に想っていると、前田氏が私に鏡を見る様に云うので、鏡の所に行って自分の姿を映して見ると、頭髪が寝癖で逆立っているのである。
☆☆☆☆☆ 此の場面は、身だしなみを整える理・ことを、示唆しているのであろう。
私は、其のホテルに居辛く成ったので、外に出て散歩して居ると、ホテルの裏の残飯を集めている所に着いた。其処には、繊維質の食物の残滓・ざんさいが堆肥の原料として積まれていた。私は其れを見て、資源が正しく使われていると想って居ると、其処に女性の従業員がバケツを持って遣って来た。処が、其の女性は、下水に通じている穴の所にバケツの中身の豆腐やケーキ等を出して、水を掛けながら潰して、下水に流しているのである。そして、残った繊維だけを、堆肥の材料として積んでいる事が判った。
☆☆☆☆☆ 此の映像の意味は、資源の無駄遣いをする事を戒め、下水に有機質を流して、川の水を汚しては成らない理を、示して来ているのだろう。
次の映像は、其の女性と話して居る場面で、原因を訊ねて見ると、其れはホテルの経営者の指示である事が解かり、色々話している内に、ホテルの従業員の中に新しい女性が居るが、其の女性がITで募集された人であり、素性が判らないので皆が困って居る事を私に云うのである。
☆☆☆ 此の映像の意味は、IT社会の欠点として、ITの情報は裏づけが取り難いので、裏づけの取れる、正しい情報が遣り取り出来る様に、社会システムを構築しろとの事ではないだろうか。社会が混乱する原因に、相手の資質や、背景が明確にならない事が有る事を、意味しているのだろう。
次の映像は、私が役所に出かけて行くと、丁度朝の朝礼か、新期入所者の入所式がロビー広間で行なわれる様な場面で、各部屋から職員が玄関ロビーに出て来る処だった。若い人達は、皆、身なりも動きもスマートで、優秀な人達である事が理解出来た。そして全体的な人間構成を見ると、管理職に歳を取っている人が居ないのである。
☆☆☆ 此の映像の意味は、役所が、人間社会では1番大事なので、優秀な人材を入所させる様にする事と、役所の人間は、自分の利益の為に働くのではなく、国民の為に働くのだから、一般的な会社の様に、歳を取って動きが鈍く成った管理職は、必要ない事を意味しているのではないだろうか。其れは、定年を早める事と、次の職場を用意しなければ成らない事を、意味しているのかもしれない。
次の映像は、私が役所から出て、外を歩いていると、70歳ぐらいの男性が、素裸の身体の上に、白い看護士が着る上着だけを着て、前をはだけて1人で歩いて居るのである。私がどうしたのだろうと想って、其の男性を眺めて居ると、後から看護士か看護婦の様な職業の格好をした女性が追い駆けて来て、其の男性を捕まえて連れ帰って行った。
☆☆☆☆☆ 此の映像は、老後の暮らしの介護や、援助に、国が力を入れなけれならない理・ことを示唆しているのであろう。人間は、老後の生活が心配に成ると、不安がつのり貯蓄に励み、財産に執着する様に成る。だから、壮年の時期から利己主義に陥り、ボランティア等の社会貢献をしなく成るのである。其れは、釈迦や、イエスの様な訓えが有っても、実行出来ない社会情勢が生まれる事を意味している。
今朝のメッセージは、昨日の「新しい世界の創造」のテーマに付いて、重要な基本と成る部分の指針と、為すべき処を示唆して来たものである事は、確かである。其れはまた、私に、是からの行動や、話す言葉が、如何に大事であるかを示して来ているのであろう。
其れは、私の存在が、新しい御世・御代を創出する為の最前線に、私の意志に関わらず立たされている事に成る。其れが、「すめらみこと・現人神」の役割と言う事なのかもしれない。
其の様に考えると、私の想いや、意識とは関係無く、事態が進み出している事に成る。其れが、神の意味である「天の働き」と言う事なのだろう。其れが、ITの世界が出来る迄は、ピラミッド型の、命令型絶対服従の縦社会が必要だったのである。其れは、猿型の社会構造であり、人間が猿の遺伝子から進化途中である事を意味している。だから「朕思うに」の皇帝の言葉や、天皇陛下の玉音放送などが必要だったのである。
しかし、そんな時代でも、皇帝が「相談・教えを請う」相手が、山中に「仙人・聖者」として存在したのである。
其れも、是からは、山中に聖者がPCを持って籠って居れば、其の体制が整う事に成るし、其の遣り取りも、デジカメで撮影して全世界に同時中継出来るのである。其の社会体制の中で、指導者がどう言う態度を採れば良いのかを、今朝のメッセージは示して来たのだろう。今朝の状況で判る事は、私はこうして、自分の役割を確実に果たして居ると言うことである。
是も、神々が、長い時間と、莫大な質量を、私の環境に次ぎ込み、今の私の「意識・認識・魂」を育てている事の証である。其の様に考えれば、私の存在など始めから無いのである。其の理を理解し、皆が「惟神の道・かんながらのみち」を歩く為に、神社の存在と禊ぎ祓いの儀式が、此の日本に伝え続けられているのである。其れに気付けば、私は、惟、其の伝統の中を、歩いているだけと謂うか、歩かされて居るだけに過ぎないのである。其れが、イエスの謂う「精霊に満たされる。」と言う事であり、日蓮の謂う「諸天善神皆加護に付く。」との意味なのであろう。
平成20年3月27日
礒 邉 自 適
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2008/3/23
「万物の霊長としての人間・自適氏日記」
学び
万物の霊長としての人間
20・3・23
今朝の映像も、大量の情報が頭脳内を通過して行き、其の流れの中から、内容を掬い上げて、意味を調べる事は出来なかった。しかし、文章の中の文字は拾えなかったが、其の情報の中から、画像を何枚かスキャンする事は出来た。其の画像で1番ハッキリと捉えたのは、一輪の蓮の花の蕾が、今開こうとしている寸前の様子である。しかし其の蓮の花は、植物性ではなく、エナメル質の花びらに、チタン金属の様な縁取りがある花の構造で、ブローチみたいな造花の様に見えた。
其れは、1昨日の金剛の心棒に続くモノで、いよいよ密教で謂う処の、金剛界の花が、開く時節が到来した事を、伝えて来ているのではないだろうか。そうであれば、1昨日の「金剛界の心棒」の「心棒」とは、正に「心の芯棒」であった事になり、其の芯棒がシッカリと治まるべき所に納まった事で、事象の新しい「花・情報」が開くとの事ではないだろうか。そうであれば、観音菩薩の台座が開く事でもあり、「有情の人・慈尊」の意味の「マイトレィヤー・弥勒菩薩」が、未来の情報を齎す時節が回って来たのだとも謂える。
「心棒」に付いては、18年5月29日のメッセージにも出て来ている。どうやら、1昨日のメッセージは、其のメッセージの続きに成っている様だ。
母系社会への復帰
http://moon.ap.teacup.com/applet/20060403/24/trackback
其の情報として、今朝の「みいつ・御出」されて行った内容は、大まかに言えば、男性は文字や言葉などの情報を創造伝達するのが役割であり、女性は物創りをして、其の作業を子供達に伝授して行く事が、本来の働きであるとの意味の様であった。
だから、男性は理論的であり理屈が多いが、女性は根気強く物ごとを伝えて行けるのである。
「茶道」や「活け花」、其れに「書道」や「弓道」など、皆、男性が創り出した世界であるが、其れが現在まで続けられているのは、女性が弟子と成って、根気良く支えているからである。其れは、男性は新しい物が好きであり、同じ事を継続して行く事が苦手である事を示している。しかし其れは、新しい世界を創造して行くのには、古い世界を捨てて行かなければ成らないので、本能的には自然な流れであるのだから、其れで良いのではないだろうか。
今朝の「みいつ・御出」は、簡単に言えば「男性は 言葉を司り」「女性は 生活(生命活動)の伝達を司っている」との理ではないだろうか。今朝、神の世界から、人間社会に流れ出して行った情報は、其の様なものであったのかもしれない。
其れと、今朝気に成ったのは、19日に書いた「森の中の映像が現われ、岩の所に染み出している水溜りに、ヒヨドリの様な鳥が1羽飛んで来て、水を飲み、咽を潤している姿が映し出されて来た。」の鳥の事である。もしかしたら、其の鳥こそ、神霊の姿であり、沖縄の「うたき・御嶽」の神であり、南米の音楽の精霊の姿だったのではないだろうか。
ウタキとは、村の上に斎祈される神所であり、其の神所の下方に巫女の住む家が有り、他の人達は其れよりも下方に家を建てるらしい。南米でも同じ様に、森の中の水が湧く所に楽器を持って訪れ、音楽を司る精霊が降臨するのを待つらしい。だから19日にビジョンに現われた鳥(時告鳥はヒヨドリより少し大きめ)は、其の精霊の姿ではなかったのだろうか。
其れは、北海道の「オジロワシ・尾白鷲」や、北米の「ハクトウワシ・白頭鷲」等の目立ち易い大型の鳥ではなく、余り人目に付かない静かな行動をする小型の鳥である。其れは、真実の神は、深い森の中の「水源・みなもと」に、静かに訪れるモノである理を示している。
本来、神社や、お寺が建てられるのも、森の中であり、木が茂り、岩が有って清水が流れている場所である。其れは、そう言う場所でこそ、精霊との交信が出来るとの事か、そう言う場所に行けば、人間自身が本来の霊性に目覚める事を、意味しているのではないだろうか。
屋久島では、ほんの半世紀程前までは、山中に在る神社の社・やしろに、若者が御籠りをする風習が伝えられていたし、アイヌ民族の風習でも「カムイコタン(神の住む場所)」との言葉が有り、神の住む聖地は、木の枝を折ってもいけないし、苔を毟ってもいけないとされているらしい。其れ等の事を考えれば、現代の人間社会が、如何に精霊の世界から離れているかが理解されてくる。だからこそ、昔は、神社や寺院が、人里から離れた山中に建てられたのである。
其れ等の事柄を考えると、現代社会の宗教世界の根源には、全て、自然崇拝のシャーマニズムの風習が、源に流れている事が理解出来る。だからこそ、人間は、「万物の霊長」であるとの概念も生まれたのであろう。
ウィキペディア辞典「シャーマニズムの定義」
森の中の、水源に辿り着いた「ホトトギス・時告鳥」が、時告鳥自体の意識なのか、私の意識体なのかの区別は難しい。其れを含めて、万物の霊長としての人間の存在を、根幹から見詰め直さなければ成らない様である。
時告鳥は、昼夜の区別なく鳴きながら飛び続けるので、よく咽が渇かないものだと想って居たが、森の奥の湧き水で咽を潤して居たのである。人間はこうして、言葉をPCに入力出来る世界を創造出来たので、時告鳥の様に鳴き続けなくてもよい事に成ったが、森が無く成った都会に暮らして居れば、時告鳥のメッセージも理解出来ないかもしれない。
平成20年3月23日
礒 邉 自 適
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投稿者: 安部忠宏
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2008/3/21
「金剛界の心棒」
学び
金剛界の心棒
20・3・21
今日は、弘法大師空海の1173回忌の日である。今朝のメッセージは、其の日に相応しいモノ・内容と言えるものであろう。
今朝の映像は、先ず、何層かに成っている金属の筒の中に、最後の中心と成る芯が、下方から差し込まれ、しっかりと納まる場面が映されて来た。其の、中心の芯に納まった心棒は、是以上、硬い物は他に無いと言える硬い金属で、黒光りを放っていた。
此の場面は、宇宙の意識の中心軸が、ようやく納まった事を意味しているのであろう。そして、其の芯と成る部分・部品は、是以上他に無いと言うほど堅固な物である。其れは、密教の「金剛」の言葉の意味を裏づけるものである。
「金剛・こんごう」とは、(梵)Vajraの訳。最剛、堅固の意。1金属の中で最もかたいもの。きわめて強固で破れないもの。2 「金剛杵(しょ)」の略。3 「金剛界」の略。「―童子」4 「金剛草履(ぞうり)」の略。 大辞泉より
其れが、無事に中心に納まったと言う事は、私の是までの努力が実ったと言う事でもあり、天界も新しい世界を創造するのに、手掛かりを得た事にも成るのだ。其れは、私が24年前此の世界に入った時に、「貴方は“事象の特異点”であり、神が新しい時空を創造する為の“座標軸”に成るのだ。」と告げられた事が、ようやく現実として完成された事を知らせて来たものであろう。
次の映像は、漢字が縦横に沢山正確に並べられており、其の漢字が、赤い線で方々に結ばれていた。其れは、漢字が含んでいる正しい意味が、間違いが無い様に組み合わせられている事が、理解されるものであった。其れは、漢字の単語が、正しい組み合わせに修正される事を意味し、其れが、大日如来の意志が、正しく此の世に反映されると言う事でもあるのだろう。
「大日如来」とは「ビルシャナ」の訳で、ビルシャナとは「宇宙の真理の本体」との意味なので、今朝は其のビルシャナの本体の中心軸が見せられた事に成る。そして、其の中心軸に関わる大事が、漢字の組み合わせに有ると言うことである。そして、其の中心が硬い金属で示されたと言う事は、漢字こそが「真言・マントラ」を正しく働かせる事が出来ると言う事であろう。マントラとは、「言葉が考える器である」との意味である。
だから今朝のメッセージは、密教の曼荼羅の金剛界の中心軸が現れて、言葉を正しく組み直す作業が始まった事が示されて来たのだ。
其れは、大日如来を本尊とする、真言宗を開いた弘法大師空海の命日に、相応しいメッセージであると言えるであろう。空海は、「弘法大師も筆の誤り・・」と、「猿も木から落ちる」の例えに使われる様に、他に例が無いくらいの評価を受ける程、書にも長けていたのである。其れは、単に筆が達者であっただけではなく、文字に「念を掛ける・願いを込める」能力も強かったと言う事でもある。其の事を考えると、今朝のメッセージは、正に弘法大師空海の命日に相応しいものであると謂えるだろう。
そして、今朝私が気付いた事は、1昨日の午前2時34分に男性の声で「自適さーん」と呼ばれて起されたのは、「234」の数字が「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・たり」の「ふみよ」で、其れを漢字に当てると「文代・文世」に成り、今朝のメッセージに繋がっている事に成る。「文・ふみ」とは、文字にて気持ちや考えを伝える文章の手紙・ふみの事である。そして「文・あや」とも読み、「あや」は「心のあや」であり、人間の気持ち其のモノを意味する言葉である。
其れは、神のメッセージが岡本天命の「ひふみ神事」から「ふみよ神事」に一歩・1段レベルアップした事を意味している。
そして、漢字の「文・ブン・モン」の字義は、人間が胸に刺青している象形で、人間が自分の大事な「気持ち・あや」を、胸に刻む事を意味している。だから「文」の文字は、漢字の始まりを意味している事にも成るのである。「ふみよ・文世」とは、人間の言葉や文字が、正しく使われる世を意味しているのであろう。其れは、正に、大日如来の世が完成する事も意味している。
其れに、三女神を祭る福岡の宗像大社の「宗像・むなかた」は「胸型・むなかた」で、胸に刺青の「像・かた」を刻むの意味でもある。
今朝は、更に、映像が送られて来た。其れは、穏やかな河川か、湖水に、屋形船が一隻浮かんでいて、人間が遊覧を楽しんでいる風景が映されて来たのである。其れは、新しい文世が完成すれば、人間に穏やかな遊覧の世界が与えられるとの事ではないだろうか。
遊ぶの漢字は、元は「游ぶ」で「しんにょう」ではなく「三水・さんずい」である。だから、水上の湖面を漂い遊ぶ事が、本来の游びである事になる。だから此の映像は、正しい文世を創造すれば、人間に本来の楽しみが与えられる理・ことを伝えて来ているのだろう。
其れは、弘法大師空海が出来なかった世界であり、空海の夢でもあったのではないだろうか。空海の生きた時代は、貴族だけが優雅な暮らしをして居て游んでおり、庶民には其の様な生活は許されてはいなかったであろう。しかし現代の世の中は、庶民でもお金を払いさえすれば、誰でも其の游びが可能である。しかし、此の侭世の中が進んで行けば、誰も其の様な優雅な行いは不可能に成る事は明らかである。
今朝のメッセージは、人間に対して、言葉を本来のモノとし、心が「宇宙心・大日如来」と同じに成らなければならない理を、伝えて来ているのだろう。そして、其の中心軸に、私がようやく「帰り・祷り(帰命)着いた」との事ではないだろうか。そして私の背景に、4311体の神霊の思頼・みたまのふゆが着いていて、事を進めて来ていたと言う事である。
そして其の霊魂達も、私と共に行動をして、同じ次元に達したので、過去の世界が必要無いと言う事ではないだろうか。だからこそ、過去の学びの教室・キャンパスの座席を、取り外してくれと頼んで来たのではないだろうか。
私が、初めてセミナーを始めたのは、1996年3月21日出雲の「学びの家」であった。其れも、私が空海の命日を指定したのではなく、家主の安部忠宏氏が勝手に決めた日付けであった。其れから既に11年が経過している。
其の時は、全国から20名程が集まって下さったが、今日は誰も身近には居ない。しかし、こうしてPCで文章を打ってITにアップすれば、世界中の人が毎日5〜6百人も見てくれている。其れは、私がこうして毎日文章を打つエネルギーにも成っているのだが、ITの出来た御陰でもある。其の事を考えても、大日如来は言葉・マントラの世界だけではなく、物質の世界も管理している事に成るのだ。
弘法大師空海は、釈迦牟尼佛やイエスキリストと違い、レオナルド・ダ・ビンチの様に、現実世界に対しても天才的な実績を残している。だからこそ、弘法大師空海は力を持っているのであろう。もしかしたら、2時34分に私の名を呼んで起した犯人は、弘法大師空海だったのかもしれない。そうであれば、私はこうして、弘法大師空海に身体を使用されているのかも知れないのである。しかし、遊覧船が準備されているのであれば、此の侭の状態で事を急いだ方が良いのではないかとも想われてくる。
とにかく、いまの処は、事は順調に進んでいる様である。
平成20年3月21日
礒 邉 自 適
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投稿者: 安部忠宏
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2008/3/14
「源へ還る意識・自適氏日記より」
有機栽培・自然農法
源へ還る意識
20・3・14
今朝のメッセージの映像は、雨期に湿った大地を、山へ向かって這い上がって行く「いのちたち」の最先端に、私の意識が存在している事が示されて来た。そして、私の母親や、26歳で亡く成った弟が、私の行く道を支えて居てくれた事が示されて来た。
其れは、私が男性だから、精子のカルマを潜在意識に持っているからかも知れないが、陸に這い上がった動物が、水が流れて来る「源・水もと」へと、這い上がって行く原因を示しているのかも知れない。其れは、稚鮎や、鰻の稚魚や、鮭が産卵の為に川を必死に遡って行く事に似ていて、人間の意識も、自分の生命の源が水の存在に関係が有る理を無意識で知っているのではないだろうか。
後6日で、春分の日(20日)で春の彼岸の中日である。私達は子供の頃から、春の彼岸には川を河童が山に上って行き、秋の彼岸には山から川を下りて行くと聞かされていた。今朝のメッセージの映像は、其の事が満更嘘でもない様に想われるものである。
其れは、人間の意識の中に「源・水もと」に引かれる潜在意識が潜んでおり、山の泉に神が住むと考えられ、「御嶽・みたけ・ウタキ」信仰が生まれる原因と成っているのではないだろうか。だからこそ「川上・かわかみ」との言葉が有り「神・シン」を「かみ」と呼び、自分の事を「みずから」と自覚するのかも知れない。
其れを科学的に考えれば、森林を形成している植物は、皆、数億年前に海から陸に這い上がって行った物であり、其の植物の活動で落ち葉が生まれ、其の落ち葉を微生物が分解して、森の栄養であるフルボ酸鉄が生まれ、其のフルボ酸鉄を含んだ水が川を下って水田を肥沃にし、更に海に流れ出して、植物プランクトンの餌と成り、其の植物プランクトンが動物プランクトンの餌と成り、其の動物プランクトンが小魚の餌と成り、其れを鰯や鯖が食べ、其れを鰹やマグロが食べているのである。
其の理を考えれば、生命の源は森に在る事に成り、其の生命・いのちの元に意識が還ろうとするのは当然の事と謂えるであろう。其の潜在的な生命情報が、人間に神・上の世界を創造させているのであろう。だから、古代に同じ様なビジョンを見た者が居て「人間は粘土(アルミと珪素の化合物)で創られた。」と謂い、其れが旧約聖書の物語に成って来たのであろう。更に最初創られたアダムの骨からイブが創られたと有るのは、動物が海から陸に這い上がる時に、カルシウムやミネラルを蓄える貯蔵庫として、甲殻ではなく骨格を用意した事を、潜在的に感じ取って説明したものではないだろうか。
聖書も、コーランも、お経も、皆人間が言葉や文字を発明したからこそ、伝えられて来た物である。だから言葉や文字がなければ宗教も無いと言う事に成る。そして言葉や文字がなければ、全ての人々が私の様に、毎日夢を真実の世界と憶いながら、生活して居たのではないだろうか。だからこそ、学校の無い自然の中で生活して居る現住民は、夢を大事に考え、其れを見せてくれる精霊を神として来たのである。だから学校が出来て、聖書やコーランやお経を机の上で勉強する様に成れば、神やブッダは本の中に閉じ込められ、もう夢の中には現れなく成るのである。
昨夜は、ベッドに着き眠りに入る前に、「あつらえる」との言葉が伝えられて来た。私は「イスラエル」ではないかと疑問に想ったが、やはり「あつらえる」との言葉である事が分った。 朝 PCで其の単語を検索すると、
* あつら・える【誂える】動ア下一] あつら・ふ[ハ下二]
1) 自分の思いどおりに作らせる。注文して作らせる。「洋服を―・える」2) 人に頼んでさせる。と有るので、ついでに似た言葉を検索して見た。
*しつら・える〔しつらへる〕【▽設える】
[動ア下一] しつら・ふ[ハ下二]《「しつらう」(四段)の下一段化》
1) こしらえ設ける。備えつける。「庭に物置を―・える」「部屋に飾り棚を―・える」
*こしら・える〔こしらへる〕【×拵える】こしら・ふ[ハ下二]
1)ある材料を用いて、形の整ったものやある機能をもったものを作り上げる。また、結果として不本意なものを作ってしまう。「弁当を―・える」「藤棚を―・える」「家を―・える」「こぶを―・える」
2)手を加えて、美しく見せるようにする。化粧したり衣装を整えたりして飾る。「顔を―・える」「身なりを―・える」
3) 工夫を巡らし、ないことをあるかのように見せかける。「話を―・える」「うわべを―・える」
4) 手を尽くして、必要なものを整える。用意する。「頭金を―・える
5) 友人・愛人などを作る。「女を―・える」
6 )なだめる。とりなす。 ウィキペディア辞典より
此の言葉から理解出来ることは、「あつらえる」は他人に注文して作らせる意味であり、「しつらえる」と「こしらえる」は自分で物をつくる事を意味している様である。
何故昨夜「あつらえる」の言葉が告げられて来たのであろうか。私が昨日書いた文章は、儀式の件と、藤原の姓に付いてと、虚空蔵菩薩に付いてである。虚空蔵菩薩に付いて触れれば、弘法大師空海の「虚空蔵求聞持法・こくうぞうぐもんじほう」の世界が有る。
虚空蔵菩薩とは、─引用開始─
・・・「虚空蔵」は文字通り「虚空を蔵する」の意で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。・・・・
と有り、弘法大師空海は四国の室戸御崎で其の事に成功したと伝えられている。
其の事と、今朝の私のビジョンとの関係性は何であろうか。私は、昨日の夕食でタラの芽の天麩羅を腹一杯食べたが、其の事で自然との結び付きが深く成ったとの事であろうか。弘法大師空海は、虚空蔵求聞持法を行じて、其れに成功し、金星が自分の口に飛び込んで来る現象を体験して、大悟したと伝えられている。其の弘法大師空海の霊魂が作用して今朝のビジョンを私に送り込んで来たのであろうか。そうであれば生命の最先端に立って居る意識体は弘法大師空海のモノであった事に成る。
今年の「春分・彼岸の中日」は3月20日だが、弘法大師空海の1173回目の命日は次の日の21日である。其の日まで残り7日である。昨夜の「あつらえる」とは、其の日までに、何かをあつらえる必要が有るとの事であろうか。もしかしたら、17日から来島する前田氏と4名の方々に、何かを伝える必要が有るとの事なのかも知れない。前田氏は、「自適さんが考えている事を 企画書にして 丹治史彦氏に渡してくれ。」と云ってもいる。しかし、私には企画書を作成する技がない。其れに、神が私に求めて来ている事は、地球全般の事に付いて全てを網羅する情報の組み込みである。
其れが、大日如来の化身である虚空蔵菩薩の意志であり、弘法大師空海の本願であれば、私一人の能力では手に負える事ではない。だからこそ「あつらえる」との言葉を伝えて来たのではないだろうか。
屋久島では「了解」の意味の言葉は「ジャー・ジャー」か「よー・よー」と云い、鹿児島弁では「じゃっど」と云う。昨夜、藤田さんにオランダ語で「イエス・yes」を何と言うのかと聞くと、「ヤー」でスペルは「ja」との事、それだと屋久島の安房の方言である「じゃー・jya」や「よー・yo」は「ヤー・ya」と同類の言葉である事に成るのではないだろうか。
私は、24年前の1984年6月4日に、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受け其れから、其の霊魂・精霊・神霊の云う事を聞いて行動して来た。しかし其の霊魂に対して、明確に「はい」とか「イエス」との返事を返してはいない。何故かと言えば、返事をしなくても、其の前に私の意識を占有し、手足の動きや、言葉を支配しているのだから、答えずとも其の様に働いていたからである。つまり、抵抗しても無駄だったからである。
しかし、昨夜の様に他人に向けて「あつらえる」事を依頼するのであれば、他人を此の世界に引き込む事に成るので、おいそれと「いえす」と答えられないのである。
何故、今に成って、私の意識が「返事・応答」を気にするかと言えば、私の応答しだいで、精霊や神霊が動く時節が到来している様に感じるからである。其れに、今朝のビジョンでは、生きとし生ける物達の最先端に、自分の意識が在るとの事だから、人類の都合だけで返事をする分けには行かないのである。其れは、万物の霊長の立場として「衆生一切・生きとし生ける物」の全体的バランス・調和を図らなければ成らないからである。
今朝、私に理解出来る事は、地球上の全生命には、基本的な処に共通のデータソース(DataSource)が存在し、其れが生命全体で情報を共有していると謂う事である。其れを、仏教では「仏の世界」と呼んでいるのであろう。
「誂える」とは、スーツを新調する意味でもある。其れは、是まで着ていた服を脱ぎ、捨てる事でもある。其の理・ことを考えれば、此処から先は、どんな宗教やイデオロギーも脱ぎ捨てて掛からなければならないと言う事でもある。
果たして全く新しいスーツを、何処に発注すれば良いのだろうか。其れも、データソース(DataSource)の中に、既に組み込まれているとの事であろうか。そうであれば、私は是からも現状維持を続ければ良いと言う事に成るが、今日の処は是以上の事は分らないので、明日のメッセージを待つしかないだろう。
平成20年3月14日
礒 邉 自 適
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投稿者: 安部忠宏氏
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2008/2/19
「猿田彦神」
出雲の風景
猿田彦神
20・2・19
今朝の映像は、私が文章棚の整理をしている場面から始まった。其れは、野草社の石垣雅設氏が発行していた80年代のシリーズを揃える事や、私の母親が長年書き続けていた日記等を集める作業である。だが、石垣雅設氏が発行した80年代は揃える事が出来ても、母親の日記帳は、私の弟が結婚する時に、過去の事が嫁に知られると恥ずかしいと云って、30数年前に母親が全部焼いてしまったので、既に無くなっているので集める事は出来ない。
其れと、場面が変って、今は既に故人と成っている、屋久島生まれのヤクザをしていた男性が出て来て、私は其の人と話をしていた。
其らの映像は、家の歴史と、左脳の働きである文化系と、右脳の働きであるヤクザな世界を意味しているのではないだろうか。しかし、其れ等は皆、過去の世界の事であって、未来を現してはいない。是も、肉食をした所為で現れた事であろう。
やはり邪食をすると、未来の事が現れないで、過去の事ばかりが現れるのは、間違いない様である。
今朝は、明け方に頭髪が真っ白で、凄く鼻の長い男性が左側から現れて、右方向を見ている映像が映し出されて来た。其れは、誰が見ても、猿田彦神と解かる様な雰囲気の男性である。猿田彦は、ニニギの命が此の国に遣って来た時に、道案内をした国津神であると古事記には載っている。だから猿田彦は、道案内の神の働きで「道祖神」とされ、白髭神とも呼ばれている。
今日気付いた事は、「猿田彦・さるたひこ」の「田・た」は、「手綱・たづな」や「手力雄命・たじからおのみこと」や「環・たまき(手巻き)」の「た」と同じく、「手・た」ではないかと言うことである。其れだと、「猿手彦・さるたひこ」となり、「猿の手を持つ男」の意味である事になる。其の意味から私に連想されるのは、エジプトのトト神である書記長である。トト神は、尾長猿科のマントヒヒで、猿は手が器用な動物なので、イメージ的には動物の代表であると言うことになる。
今朝、其の事に付いて考えるのは、国津神である大山祇神と猿田彦の関係である。猿田彦も国津神であるから、大山祇神との繋がりが有るのではないだろうか。其の大山祇神の元は、愛媛県今治市大三島町宮浦3327の大山祇神社になっている。私には、其の大三島生まれの知人として、松岡正氏が存在する。其の松岡夫妻は、私が出雲の安部忠宏氏の所に居る時(1997年)に訪ねて来た。そして、霊夢に出て来た映像を絵に描いて持って来た。
其の絵を見た安部忠宏氏が、其の絵は自分が生まれ育った横田町の絵であり、もう1枚の絵は、奥さんが生まれ育った仁多町の川の「鬼の舌振るい」の景色であると云うのである。そして不思議なのは、横田町が其の様に見える場所は「天狗山」の上からで、仁多町の川の景色は「天狗橋」から見た景色であると云うのである。何故、安部夫妻の育った故郷の風景が、松岡氏の自宅である神戸市で現れ、其れが両方とも出雲の「天狗」の名が付いている場所に立たなければそうは見えない景色なのか。
「天狗」は、猿田彦の神の化身であるともされているので、大山祇神の働きは天狗霊としても現れるのかもしれないのである。今朝現れた猿田彦が、大山祇神の霊であれば、いよいよ大山祇神が、現実世界で動き出す事を伝えて来たのかもしれない。
エジプト文化の、マントヒヒであるトト神は、言葉や文字を司る神・はたらきである。今朝現れた映像は、雑紙や日記等の続き物の整理であり、ヤクザは股旅者で旅人の走りである。其れも、書記官と旅人の関係性を暗示していると言えるだろう。其れは、旅人で在りながら、続き物・日記を書いて行く、「猿手の男」の登場を意味しているのではないだろうか。
昨日は、午後1時過ぎに、屋久島空港からヘリコプターに乗って硫黄島に行き、現地を見学してから熊野権現神社に参詣し、4時に硫黄島を離陸して種子島に渡り、ロケット基地や観光地の熊野を観光した後、西之表に出て夕食をして、知り合いのスナックに行ってカラオケで歌を唄ったりしてからホテルに宿泊した。
今朝の映像は、昨日に続いて、過去の人や場面が出て来たので、やはり俗世界に触れるのは良くないのかと考えたが、明け方に猿田彦が現れたので、一応いまの侭流れに身を任せていれば良いのだろうと考える事にした。
今朝の映像では、猿田彦が左側から現れて、右の方を向いて居たので、絶対界から相対世界の方向を見ていた事に成る。其れは、是から私を、相対世界に運んで行くとの意味に、受け取っても良いのではないだろうか。
考えて見れば、無料でヘリコプターに乗って、彼方此方行けるのも不思議な事である。夢の内容があまり良くなくても、現実は新しい方向に向かって流れているのかもしれない。
取り敢えずは、暫らく、周囲の動きや流れを見詰めている事にしようと想う。其れが、大日如来の働きなのであろう。
其れと、大山祇神に関係が有るのが、綱引きの行事と、神事相撲である。綱引きは、相手を自分の方に引き込む世界であり、相撲は相手を外に押し出すか、引っくり返して相手の動きを止める世界である。其れは、政(まつりごと)の実権を握る事を意味している。だからこそ、相撲は、国譲りの儀式に取り入れられたのではないだろうか。其れに、出雲の神事相撲には、最初に天狗が登場して、空に弓矢を放つ事から儀式が始まるのである。
今朝のメッセージは、いよいよ猿田彦が、神の世界から人間世界に、矢を放つ紀・ときを迎えたと受け取って良いのかもしれない。
平成20年2月19日
礒 邉 自 適
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投稿者: 礒 邉 自 適
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2008/2/3
「言葉より大事な行為・自適氏日記より」
学び
言葉より大事な行為
20・2・3
今日は、節分で、鬼を追い出す為に、豆を撒く行事をするが、其の行事が何で有るのかに付いて、今朝は知らされて来た様な気がする。
今朝のメッセージの映像は、光の世界に1人の男性が現れて、何かの蓋を開けたら、文字が滝の様に溢れ四方八方に流れ出して行った。其の文字は、文字や数字が混ざり合った意味不明の繋がりで、其れは鎖の様に流れ出して行くのである。其れは、岡本天明の日月神事の文章の様なものと、説明すれば判り易いだろうか。そして、ハッキリと示されたのは「131」の数字であった。
「131」の数字は、先日29日の私の誕生日に現れた「1―(3・3)―5」の数字の極限を意味しているのかも知れない。其れは、「5」の頭(知識)が、尾と同じ「1」と成り、手足の「3・3」が引っ込んで、「身・3」一つと成って、「申」の文字の形になったのだとも考えられる。
「申」は日本語の「申す・もうす」に使用され、漢字では「神」に使われる文字である。「神」の漢字は「示(ネ)+申」の組み合わせで、「示」は祭壇の形の象形で「申」は電の「雨+申」の組み合わせと同じく、雷の稲光の象形で、電気の意味を現している。だから「神」の漢字の意味は、「祭壇を設けて 神の知らせ(電気信号・磁気情報)を受け取る。」との意味である。
そして、受け取ったお告げが「知」である。「知」は、「矢+口+刀」の組み合わせで、意味は「手にしている、矢や刀を天に返して、手ぶらに成り(行為を止める)神の言葉(口)、知らせを受け取る。」との意味である。そして「智」は、其れを口(曰く)に出して、他人に伝えるの意味である。
これ等の意味を考えると、今朝のメッセージ映像は、神の言葉の入れ物(容器・箱)が開いて、神の言葉が溢れ出したと考えても良いのではないだろうか。そうで有れば、蓋を開けた男性は、京都の下賀茂神社の祭神「賀茂別雷大神・かもわけいかづちのおおかみ」なのかも知れない。
しかし、言葉が溢れ出した結果が、どう成るのかは、今朝の処では未だ判らない。
今朝は最後に、「鯖缶・さばかん」との言葉が告げられて来た。其れは、昨晩夕食のおかずが何も無く成ったので、自然食のお店で買って来ていた鯖缶詰を開けて、キャベツと煮て食べた事に関係が有るのだろう。其の鯖缶詰は、自然食品店の物だから、添加物や化学調味料や防腐剤などは入ってはいないので、悪い意味で、云われたのではないだろう。
其れで、考えられる事は、人間の日頃の手足(3+3)の使い方が、其のまま神に伝わる儀式に当る事を意味し、言葉よりも大事な事が、人間の日常の立ち振る舞いに有るとの理・ことではないだろうか。だから昨夜、私が鯖缶詰を開ける行為が、言葉の箱を明ける儀式に繋がったと言う事である。其れは、神社の神輿の蓋を開けて、言葉の神である「ケルビム(智慧の神)」の封を切ってしまった事に、成るのではないだろうか。
私が缶詰の蓋を開けたのは、ガス台の処である。其のガス台の直ぐ前には、弁財天のお告げにより、祭壇を設けてある。私は、キャベツが煮える間に、其の祭壇の水を取り替えたりもした。其れ等の事を考えれば、私は、祭壇の後ろで、蓋を開く儀式をした事に成ってしまうのだ。
其れは、悪く取れば「パンドラ」の箱の蓋を開けてしまい、賀茂別雷大神の働きが、此の三次元世界に溢れ出した事に成るのではないだろうか。雷神とは、角を生やした鬼で、風神と友達の神である。其れは、鬼を追い出すどころか、鬼神のモトを開けてしまった事に成る。其の鬼神が放出した言葉は、バラバラで意味不明の言霊である。其の繋がりの無い言葉が、人間の頭に流れ込んでしまえば、人間の潜在意識は大混乱を起こし、顕在意識の弱い者は、其れに負けてしまい自分の意識をコントロール出来なく成り、混乱を起こすであろう。
そうなれば、人間社会に混乱が起きる事は間違いない。其れは、毒入り餃子どころの騒ぎでは済まないであろう。現代社会はコンピュター社会だから、大事なポジションに着いている者が、頭脳に混乱を起こせば、株や為替の世界には直ぐ混乱が起きるし、軍隊や原発のパソコンの前に座っている人が、精神異常を起こせば、何が起きるか判らない。そう成らなくても、ウランをバケツの中でかき回して、臨界点を起したりする人間も居るぐらいだから、現代社会は何が起きるか判らないのである。
世界中で現在問題に成っているサムプライスローン問題も、住宅を買うと言う単純な事から発生した出来事である。其れは、人間に集団行動に巻き込まれる弱点が有る事を示している。
私の父が、私に小学4年生の時に教えてくれた事は「皆が走り出したからと言って、自分も走り出すな。」との短い簡単な事である。其れが、訳の判らない言葉が、行き成り大量に流れ込んでくれば、人間は意識の混乱を引き起こし、社会がどうなるかは誰も判らない。
はっきりしている事は、其の社会から逃げ出し、田舎で自給自足をして生き延びて、次の社会を新しく構築する事である。
誰もが、今の社会が、何時までも続くとは考えてはいないだろう。もし続くと想っている人が在るとすれば、無知としか言いようがない。石油が、後60年程で無く成ると言うのに、未だ高速道路を建設しなければ成らないと言う、無知な政治が行われているのである。石油が無く成ってからは、其の高速道路も壊せないのである。そんな政治が行われている国家(公務員の会社)を、当てにしている訳には行かないのである。
全てが崩壊する前に、次の時代を構築しなければ成らないのだ。其れが、新しい幟旗を揚げるとの意味であろう。缶詰を開ける行為だけでも、神の世界に働き掛け起きるのである。其れは、神の意志に適った幟旗を揚げれば、どんな動きが起きるのかを予測出来るものである。出雲の安部忠宏氏は昨日「環境デザイン会議」の名を、今は亡き東京農業大学名誉教授であった杉二郎先生から貰っていると云って居た。案外、其の幟旗は有効なのかも知れない。
「131」の数字は、「3」が神を意味しているのであれば、「3」は神の棺を意味し、左右の「1」は、棺に通された担ぎ棒を意味する事に成る。そうであれば、愈々神の棺が、お宮の中から此の世に担ぎ出された事にも成る。其れは、善き悪しきに付け、何かのマツリゴトが起きる前振れを意味しているのではないだろうか。まさか、御伊勢さんのお札が、空中から降る事には成らないだろうが、心構えを整える必要が有るだろう。其れは、自分の一挙一投足に、全神経を集中する事である。都会の建物の室内で、パソコンにしがみ付き株や為替の乱高下だけに目を向けて入れば、自分の住いの外で、何が起きているのかは分らない。気付いた時は、既に手遅れなのである。
ノストルダムスの預言には、「アングルモアの大王が 暫らく 此の世を治める。」と有る。アングルが「角度」であり、モアが「多数」の意味であれば、「アングルモア」とは「多数の角度」と成り、現在の世界経済を支えているITの事だとも受け取れる。先日も、マイクロソフト社がヤーフ社を4兆円7500億円で買収するとのニュースが流れていた。其れは、ITが経済の中心を占めている事を示している。
だが、パソコンやITからは、米粒1つ生まれないのである。現代文明と言うモノは、人間の頭から生まれた集団幻想以外の何物でもない。しばらく、此の世界を牛耳るアングルモアの大王とは、IT社会の事であれば、其のアングルモアが崩れ去らない前に、新しき体制を整える事が、我々の役割ではないのだろうか。
今朝は、其れに関している様なブログも有る。
吉岡学の日記
http://blog.heart-land.biz/
今朝のメッセージは、私1人へのモノではない様である。自分自身の中に飼っている鬼が、どう動くのかは、其の人の自覚有る仕種で、善にも、悪にも、働くのだから、他人の所為にする事は出来ないのである。もし、自分に起きた不都合を、他人の所為にする者がれば、其れは、既に、悪い鬼を飼っている証拠であるのだ。
自分自身の行為こそ、大日如来に直結しているのではないだろうか。
平成20年2月3日
礒 邉 自 適
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投稿者: 安部忠宏氏
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2008/2/2
「大日如来の意識・自適氏の日記から」
学び
大日如来の意識
20・2・2
今朝のメッセージは、大日如来と名付けられている宇宙意志の現れが、人間の脳その物である事が示されて来た。其れは、人類全体に共通して繋がっているモノであり、其れが魂しいと呼ぶモノである事が理解された。そして、其の「魂しい(脳)」の外壁の1部が、松の木の外壁の皮の様に剥がれ落ちるモノが、人間の「心・こころ」である事が示された。
だから人間の意識は、其の大日如来の魂しい(脳・永遠の命)と、外壁である心(新陳代謝)との間で、揺れ動いているモノなのである。
其れは、大日如来と呼ばれる宇宙総体の意識が、森羅万象の流転を支えながら成長している事を意味し、人間は其の生長する木の外壁の役割を果たしている事になる。だから一生を終えると、細胞破壊が起きて塵として消えて行くのである。しかし、其の外壁が剥げ落ちる前に組み込んだ情報は、内側から遺伝子の船に乗って上がって来る、子孫に受け継がれ、其の子孫がまた新しい外壁と成って役割を果たして行くのである。其れが、正月の鏡餅に添えられる「譲り葉」に託される意味なのであろう。
だから、人間の身体が「空蝉・うつせみ」であり、「空だ・身体」とイメージされ、其のカラダに乗船する意識が「霊魂・霊宿(ひと・人)」なのである。
だから是まで、「神(カム)・道(タオ)・法(ダルマ)・エホバ・アラー」等と呼ばれて、人間の意識の拠り所と成って来た、目に見えない確かな存在は、自分自身の「いのち」であり、其の「命・いのち」を繋いでいるのが「DNA・遺伝子」なのである。そして、其のコントロール-センターとして働いているのが、人間の脳なのだ。
だから、人間が頼れる唯一のモノは、自分自身の脳であり、其れを受け継いでいるDNAの継続システムなのである。そして1番大事な「理・こと」は、大脳の細胞だけではなく、人間の身体の60兆個の細胞や、其の繁殖体である67億人の人体も、其の大日如来と名付けられている、宇宙のシステムの現象体である事に成る。
だから、其の理に気付いた釈迦は「真に頼れるモノは 此の己の身体である。だから 精進に務めなさい。」と謂ったのである。其れは、宇宙に大日如来と言う働きが在り、其の働きに拠って生み出されている物が、人間であり、其の大日如来の働きは森羅万象を支えているので、衆生一切が皆その仲間(仏)であると謂っているのである。だから、あらゆる生命は、歳を取ると次ぎの物に入れ代わって、身体・情報を繋いでいるのである。其の仕組みこそが、大日如来の存在と言うことに成るのだ。
そして、其のシステムに素直に従って行く事が、日本の「惟神・かんながらの道」であり、老子の謂う「無為自然」であり、親鸞の謂う「自然法爾・じねんほうに」なのである。其れを、漢字では「自由」と概念付けしてある。自由の漢字の意味は、「自」は鼻の形の象形で「己・おのれ」を指差す意味で、「由」は大きなモノに従うとの意味である。だから、自由に成る為には、此の世界で一番大きなモノに、自分の身を委ねなければ成らない。其れが、財産や、国家権力や、宗教団体や、人間が考えだした思想などの、不安定な物であっては成らないのである。
しかし、其れ等は、仏像や、建物や、人物の様には、直接人間の肉眼の目には見えないモノである。其れは何故なのか、其れ自体が自分の中に住む遺伝子の鎖だからである。人間は生まれながらにして、自分の中に大日如来を内蔵しているのである。ただ、其れが自分の身体に内蔵されていて、小さくて確かめ様が無い為に、外側に其の働きを投影させて、視覚で認識しようとしたのが仏像や曼荼羅や絵画なのである。
しかし其の世界も、電子顕微鏡の開発や、コンピュターの性能アップで、人間の視覚に捉えられ、脳で認識出来る様に成って来たのである。だから、ようやく釈迦牟尼佛が潜在意識で捉えた世界が、万民の目で視覚化出来る時代に成ったのである。其れは、釈迦牟尼佛の教えが、単なる宗教の世界ではなくて、生命科学の世界であった事が、証明される時節を迎えている事に成る。
今朝の映像では、自分の「心・自我意識」が、大日如来の身体から剥がれ落ちる場面の次ぎにも映像が映り出されて来た。其れは、私が故郷に帰る為に船が出る港に着くと、途中で同じ汽車に乗って居た男性が、同じ船着き場に遣って来た。其れは、インド人風の浅黒いハンサムな30代の背が高い男である。其の男性は、是から私と同じ所に帰る人間なのか、私を此処まで道案内して来た、釈迦の若い時の姿なのかは、其の男性が無言で何も話さなかったので分からない。
もしかしたら、其れは釈迦牟尼佛であるけれども、釈迦が繋いで来た般若波羅蜜の智慧を、私が受け継いだ様に、是から同じシステムを継ぐ「霊宿・ひと」が、今後私の前に現れるとの事かも知れない。其れが宇宙のシステムであり、今後も大日如来の働きとして、誰かの思考で組み込まれた情報が受け継がれて行き、宇宙の存続を支えるとの理なのかも知れない。
此の様に書けば、宇宙レベルから考えれば無きに等しい小さな人間が、宇宙を支えるとの意味に成るが、其れは別に不自然な事ではないのである。其れは、人間の親が子供を育て、自分の育てた子供の云う事を聞いて、願いを適えて遣るのと、同じ事である。其れに現在では、手の平に納まる小さな携帯電話から情報を発信すれば、人工衛星の角度や、地上に設置されているパラポナアンテナの方向を変えたりも出来るのである。其れ等のシステムの存在を考えれば、此の複雑な仕組みの人間を創造して来た意識体が、人間の技に負ける訳がないのである。
こうして、私が毎日行っている行為も、私自身の能力で出来ている訳ではなく、ハード面でITの世界とPCを創り出し、ソフト面として61年掛けて私の思考パタンを組み上げて来ているからかそ可能に成ったのである。其の流れの全体を考えれば、何か大きな意識体が存在して、全てを管理していると考えなければ辻褄が合わない。
それは、私の人生を変えてしまった師の存在や、4311体もの霊魂・精霊に因る「神霊の思頼・みたまのふゆ」の現象を考えれば、其の出来事の背景には、阿弥陀仏の「人間には 計り知れない、光と慈悲の存在。」の概念の意味が、正等であると言うことにも成る。
今朝のメッセージは、其の証と成っている私の存在や意識が、只、松の木の外皮の一片に過ぎないと言う理・ことである。其れを考えれば、其の1本の木の身体には、何千もの外皮が着いていて、全体を護っている理・ことになる。其の事に気付けば、私が一人が責任を感じる必要は無いと言う事になる。其の様に考えれば、気が楽に成り、肩の荷も軽く成ると云うものである。ようやく、師に止められていた笑いを、表に出せる日が近づいたようである。
私が、此の世界の真理に気付き、笑い出したら、師は「自適さん笑うな。」と云って、私の笑いを止めてしまった。「だって是は 全部ジョークではないか。」と私が云うと、師は「今 自適さんが笑ってしまうと 其の波動が世界に拡がって、其の日に向けて修行している人の修行が、止まってしまう。」と云うのである。其れから、私の笑いは止まってしまっていたのである。しかし、今朝の映像で示された様に、私は、其の生命の木の皮の一片であり、剥がれ落ちて行く物であるとなれば、私が笑おうと、泣こうと、本体にはさして影響は無いと言う事になる。
其れは、私の意識が、内部の身の役割を終えて、皮膚の垢に成った事を意味している。そうであれば、もう私の「心・ココロ」がコロコロ変っても、内部には影響が無いと言う事である。だとすれば、私が普通の人間社会に出て行っても、全体的には差し障りが無いと謂う事である。
昨夜は、年賀状を貰った長女に深夜手紙を書いた。私は、自分の子供に手紙を出すのは初めてである。娘とは23年会っていないので、何をどう書ければ良いのか戸惑ったが、父親として一応無責任な部分を謝る内容にした。しかし未だ、其れをポストに投函する決心は着いてはいない。しかし、今朝のメッセージの内容からすれば、私が人間感情・こころに落ち込んでも、全体的にはもう影響を与える事は無いのであろう。
是からは、六根清浄ではなく、人間として五感を使用し、喜怒哀楽の世界に身を措いても良いのかも知れない。そうする事で、新しき「六識・シックスセンス」が磨かれるのではないだろうか。其れが、仏教で言う大乗の世界なのであろう。ようやく、荘子の謂う「至人無己」の世界の場に、踏み込んで行かなければ成らないのではないだろうか。
今日は先ほど、出雲の安部忠宏氏より電話が久し振りに有り、私の31日の文章を読み、いよいよ新しい幟旗を上げる事にしたと伝えて来た。是からは、今までの様に、都会発信型の社会システムではなく、ITを利用した地方ネットの生活中心型の社会と成って行くであろう。
そうしなければ、これ以上エネルギーを無駄にする社会構造は、続いて行かないのである。人間が、自然の中で真に幸福に生きて行く手段は、既に可能に成っているのである。
政治の現状を見ていても、東京から新しい価値観が生まれない事は、万民の知る処である。古代に、日本の国造りが行なわれた出雲で幟旗が揚げられれば、其れは一気に全国に拡がるのではないだろうか。
どうやら、9月15日までに、情報の発信と管理が間に合うのかも知れない。
瑞穂の国造り
http://www16.ocn.ne.jp/~yjj2/mizuhonokuni/
平成20年2月2日
礒 邉 自 適
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投稿者: 安部忠宏
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2007/9/14
「九州 旅の記録〜その4〜」
学び
8月18日
いよいよ屋久島を出発して本土の鹿児島に向う朝、お世話になった自適氏が西川氏の事務所でそれぞれのデジカメに写っている映像をCDに焼き付ける作業をしているところ。仙人も現代のハイテクを身につけているところがいかにも21世紀。その後モッチョモ岳のふもとのやく益救(やく)神社にお参りし、奥宮の山の雄大さとそのふもとに建っている超現代的な建物がこれからの屋久島を見るような気がする。
宮之浦の10時のフェリーに乗るまでの合間、屋久島の情報発信をしている季刊雑誌「生命の島」を発行している所に立ち寄った。ここは外部から屋久島に来ている人たちの溜まり場で、情報発信基地の役割があり、主幹の奥さんが開いておられる喫茶樹林でおいしいコーヒーを出してくれている。帰り際、屋久島を世界遺産にする原動力になった柴鉄先さん(右写真、左の方)と遭遇し、記念写真をとった。
鹿児島港に13:30に到着。昼食を九州自動車道の桜島SAでとり、鹿児島神宮に参拝し、続いて霧島神宮にお参りする。道中、長い階段にさすがの岩谷氏も息があがり、休憩の場面。
霧島神宮の元宮(別名高千穂の河原)にお参りする。ここは古事記で言われている天孫降臨の場所とされているところ。建物はないけれども(火山の火砕流で消失し、現在の霧島神宮に移され元宮として残っている。)斎場の真後ろに高千穂の峰がきれいに見え、神が大自然と一体になっているすごい波動を出している。元宮から帰るとき、雲からご苦労であったと太陽が素晴しい光をなげかけてくれた
8月19日
18日の夜、えびの市IC近くに住んでいる蓑田東次郎氏宅に泊まり、翌朝6:30にえびの高原の白鳥温泉の露天風呂に案内され朝風呂を満喫し、その帰り白鳥神社にお参りする。親子30組ぐらいの人が境内を掃除し、子供たちの将来に安心を覚えた。神社もとてもすがすがしい雰囲気で、写真を写していないことがとても残念だった。人吉市の蒼井阿蘇神社に参り蓑田氏の拠点の一つである、あすなろ会の事務所に立ち寄り、五木の里に向かう。
五木の子守唄で有名な五木の里は、現在ダム建設で民家が水没する為高台に団地ができ、新しい道路や路の駅ができていたが、その後下流の人達のダム建設反対(自然破壊)の為、中止になったところの風景。
五木の帰り、球磨郡相良村のFFC普及会メンバーでお茶で農林大臣賞を3回、特別賞5回受賞している方の所を偶然通りがかり、お茶畑を見学させていただきました。日本人が古くから日本茶を飲みながら最近はほとんどのお茶の栽培が農薬、特に殺虫剤を使用しています。しかし町の自動販売機上ではお茶入り飲料水がものすごく売れている。一方では、コーヒーと炭酸飲料とがあり日本人がそのどちらかを選択していることをあらためて考えさせられた。旅の終りにFFCテクノロジーの安心・安全のすごさを確認した。この方も五木のダムの立ち退きの為に36年前にいち早く現在地に入植したとのこと。
5年前にビデオで紹介されたお茶の挿し木の畑がすでにこのような成長をし、なおかつお茶とお茶の間に1m50cmくらいの杭を差し込んだら、全部ささった。ねば質の硬い土壌に有効微生物が増え、畑が団粒構造化されたことを目に見える形で教えられた。このことはお茶の木の根の毛細根が深く伸び、結果地上部の茶の新芽が育ち質量ともに生産されるとのことだった。周辺の農家のお茶はすでに枯れ始め生産をやめかけているところもあり、好対照に見せられた。(右下写真)
自分たちで栽培、生産したお茶を自分たちの仲間の機械で本物の安心して飲めるお茶を作り、これからは消費者に安心マークであるFFCテクノロジーを生かしたお茶を届けたいと、工場の機械も7年前に1億の設備投資をし命をかけて生産され、それが経営理念にうたわれていた。
経営理念
〜自然と調和した夢のある農業〜
1.自然に感謝し自然の恵みを生かした農業にする
2.創造力を生かしアイディア豊富な農業にする
3.豊かな生活環境、地域作り、豊かな人作りの農業にする。
4.お客様が喜ばれる商品作りの農業にする
超田舎風の天然うなぎ料理屋で遅い昼食をとった。そのお店に、男は元気になれと言わんばかりの岩の掛軸がかけてあり、記念に写したがこの岩がどこにあるのか見忘れた。古代から男は家族を守る義務があるその歴史の繰り返しが鬼神となって今回の旅となり、色々な本物の人との出会いとなった。今夜はもう一晩蓑田氏の家に泊まり、明日20日岐路に発つことにしているが今晩は、宮崎の新しき村で百姓を36年続けている元教師志望の松田省吾氏と現代の子供達に農業を通して身体で命と見つめあう教育の話をする予定である。(新しき村は日々是好日で有名な武者小路実篤が開いた場所。)
8月20日
午前7時、えびの市の蓑田氏宅を出発。九州自動車道の人吉ICから一路、帰路に着く。
11時すぎに九州に別れを告げ、関門橋を通過したあたりから1週間の間の食べ物がお腹から別れを告げたくシグナルを告げてきた。11時30分、王司パーキングでトイレを使いその時財布と携帯電話とデジカメをトイレ内に置き忘れ、そのまま次のパーキングで12時ジャストにお昼にしようとした時、忘れ物に気が付いた。ひきかえし、1時間後にそのパーキングに30代の青年が売店に届けてくれていました。その青年は福岡市早良区の
鬼
塚泰義さんという方でした。鬼神の旅をして、最後に鬼塚さんにめぐり合ったのも何かの因縁だろう。日本の未来、捨てたもんじゃないな〜と思う。昼食の後、一路広島から出雲に向う。
旅を終り広島の中国自動車道、三次ICから国道54号を島根にはいり赤名ドライブインで空の雲がよくやったご苦労様と出迎えてくれた。ひとすじ、ジェット機が上に向かっているのは上(神)に向かって行けとのシグナルであろう。
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投稿者: 安部忠宏
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