2005/11/5
教わる
17・11・5
今朝のメッセージは、生きて行く事の基本は、教わる事に有るとの理だった。
杖や、傘などが、次々に映されて来て、最後に、釣竿を持って、友人と魚釣りに行く場面が映って来た。其の友人は昨年亡く成ってしまったが、私より10歳ぐらい年上で、魚釣りが大好きで、写真屋の仕事そっち退けで魚釣りをして居た人である。其の友人は、好きな釣り三昧で生きた人だから、大往生したであろうと想われる。
私は、其の友人から写真撮影や、釣りのコツを教えて貰って居たのである。生きて居る内には、其れを感じてはいなかったのだが、こうして、死んでからも夢の中に現れるとは、今でも友人の間柄は続いて居る様だ。
今朝の霊夢の中では、海の潮の満ち引きや、釣りの餌の選び方や着け方等、全て友人指導の下に行なわれ、私が、糸が絡んで何にも出来ない間に、友人は次々に魚を釣り上げて居た。私は、途中で嫌に成り、釣竿を投げ出して魚釣りを止め、不機嫌に成って居ると、「全ては 教えられて出来る様に成り、其の連続で人は生きて居られるのだ。」との、悟りの様な感覚が遣って来た。
是は、非常に大事な事だと考えられる。
人間だけではなく、他の動物も、親や仲間に、する事を習いながら覚え、1人前に成って行くのである。誰一人として、自分の力だけで生きられる様に成る訳ではない。私がこうして、文字が読み書き出来たり、パソコンが打てたりするのも全部誰かに教わったからである。
私が出来る事は、全部誰かに教わった事なのだ。其れを、自分一人で出来る様に成ったと想って居るのは、習うという行為自体が、動物にとって余りにも自然な行為なので、意識に上らないだけなのだ。良い行いも、悪い行いも、全て誰かに見習って覚えて来ているのだ。
人間の暮らしは、全てに於いて、長い時間の中で、見習う事で積み上がって来たモノである。文化・文明・技術・学問・全てが、人間の手に因って、次から次へと受け継がれて来たモノなのだ。人間の暮らしは、是までのたゆまない人々の働きの結果として積み上げられたモノである。其れは、是からの人類の暮らしでも、変わる事の無い現実である。
其れは、人間だけの世界ではなく、他の動物達にも言えることである。生きとし生ける物は、総て其のシステムの中にある。親が面倒を見ない昆虫の世界でも、親の為した行動の記録が、遺伝子の中に記憶されており、子供は其の記憶の情報で営みを続けて居るのだ。
其処の処が解かれば、世の中を善くするのは簡単な事である。其れは、人間にとって良くない事を、受け継がない様にしさえすれば良いのである。現在の社会には、余りにも余計な物事が多すぎて、頭や身体が休まる暇が無い為に、皆疲れ果て、癒しがブームと成っている。
酒・たばこ・無駄買い等、皆ストレス解消の為に起きている事柄である。ストレスが無く成れば、病気も減り、争い事も無く成り、平和な世の中と成る、そして、子供達も笑顔を取り戻す。そうなれば、本来の人間の暮らしが蘇り、安心な生活が営まれる様に成る。
其処のところを考えると、私の人生は真に恵まれて居たと考えられる。世界遺産に選ばれる様な自然の中で、理想的な両親の下で育ち、其の時、其の時で、先輩や指導者に恵まれて来た。其れを考えると、私の意識や技は、私一人のモノではなく、社会や、霊界の財産と言うことが出来る。其の様に考えれば、私の存在に、物凄い神の投資が行なわれて来た事が理解出来る。
たった其れだけのコトに気付くまで、ドレだけの年数が掛かった事だろうか。
其れが理解出来れば、是からは社会や神界に対して、借りを返して行くだけである。
今日また、新しいブログを一つ創った。其れは、今までお世話に成った、松山さんの仕事に協力する為である。其処では、人間の暮らしにとって、何が本当に必要なのかを見詰めて行きたいと想う。ブログは「一休み」で「グリン・レスト」のリンク部分として立ち上げた物だ。私の是までの修業の結果が生かされれば私にも嬉しい事である。
智慧の「智」の漢字は「知+曰く」で「知」は「矢+刀+口」で「矢も刀も神に預けて 神の知らせを受ける。」の意味であり、智はその事を他人に「曰う」の意味である。
昔との違いは、今は世界中にインターネットでモノ曰う事が出来る時代である。釈迦の様に歩き回る必要も無く、イエスの様に権力に向かって文句を言う必要も無い。
唯、ドアをノックする人にだけ、答えて行けば良いのだ。其れが求めるの「求」と、救済の「救」の漢字の関係である。救は「求+攵」の組み合わせで、「求める人に、杖を持った人が 対応する。」の意味であり。「教」の、漢字の「攵づくり」と共通の意味合いが有る。
私は、神に杖を持たされて21年が経過してしまった。古代から、神が選んだ人間が(油を注がれた者)杖を与えられる事は、秘密裏に伝えられている。
私は、師に捜し出され「是で 地球は大丈夫と。」と、師が云うまで、屋久島での修行が続いた。
私は、老子の謂う「嗇にしくはなし」の言葉を理解して、もう何年に成るだろう。其の意味は、「天の働きは、種を蒔いて育て 収穫する。其れしか無い。」である。天の働きは、永遠のボランティア活動である。其れを「愛」とか「慈悲」とか言うのは、人間の勝手だが、天意を汲んで其れに応える者は少ない。其れが、神の苦悩なのであろう。お釈迦さんが、「人生は苦である」と云ったのは、其の天意を自分のモノとしたからだと想われる。私もこうして、2600年前に生まれた人の教えを、見習って生きているのである。
平成17年11月5日
礒 邉 自 適

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