2003/9/27
武蔵野御陵
宗 動
15・9・27.
今朝のメッセージは、「宗動」と文字が映って来た。「宗動」との単語は無いので「宗が動く」との事だろうと想い、辞典で「宗」を調べて見ることにした。
すると、「宗」は「@みたまや Aもと Bむね Cよつぎ Dたつとい Eまみえる Fあつまる」と有って、意味が澤山ある。
「宗」の漢字の意味は、「宀+示」で、「宀」は家屋の意味。「示」は神示の意味。神示の行われる家屋、おたまやの意味を表し、転じて、祖先の意味や、祖先をまつる一族の長の意味をも表す。と、載っている。(漢語林)
是によると、「宗」とは、自分の先祖や一族の元親の霊の事の様である。そして「宗動」とは、「先祖の霊が 動き出す」との事を、知らされて来たものの様である。
日本には「すめみおや」との言葉があり、天皇の祖先をその様に呼ぶ。その伝統は、天皇家だけの伝統ではなく、日本人なら先祖の霊は、誰もが大事にして来た。祖先の霊と一口に言っても、自分の家の祖先だけの事か、一族の祖先の事か、人類全体の源の霊か、地球生命全体の本霊なのかが分からない。
1984年6月4日に、私の身体を借りに来た霊は、全部で4311体であり、其の霊魂の中には、天皇霊が何人も混じって居た。その時の事から考えると、今朝の「宗動」とは、私の先祖や日本の天皇霊だけではなく、人類全体の宗祖の事の様にも想える。
私が、メッセージを受け始めた最初の頃、映って来た場面に、人類の宗親・もとおやらしき霊が現れた事がある。
其れは、何所かの山中に在る、昔風の古い家屋に座敷と土間があり、その土間に輪切りの丸太のイスが有って、3名の男性が座っている。其の3名は、インディアン風の男性と、白人と、黒人の代表みたいに見えた。其の3名が静かに座っていると、中国人風の男性が遣って来て、履物を脱いで座敷に上がり、無言で座った。
すると、それを待っていた3名が、土間のイスに腰掛けたまま話を始めた。話の内容は、自分達の子孫を、どれだけの割合で残すかの相談だった。3名の話し合いが終わると、座敷に座っていた人は、又無言で立ち上がり、履物をはいて静かに帰って行った。
現れた男性は、4名とも魂のレベルが高く、完成された人格なのは、誰の目にも明らかな程、調っていて矍鑠・かくしゃくたる人物達であった。
その様子は、映画でも見た事が無いし、小説の世界でも描写されていない光景である。私が何故、その様な場面を見せられたのかは分からなかったが、今朝「宗動」との文字が映されて来たので、18年も前の映像を思い出してしまった。
「宗霊・みたまおや」が、動き出す事が人類にとって、吉い事なのか、悪い事なのかは、私には判断出来ないが、人類全体の未来にとっては、喜びの方に向かうのであろう。しかし、整理される余分な血筋は、どの様に反応するのだろうか。
野鼠・のねずみは、仲間が繁殖し過ぎると、一部の仲間を種として残し、残りは集団自殺をして、食糧難から全部が死滅する事を回避するという。
現代社会の人類の状況を考えると、異常発生した野鼠と同じ状態だとも言える。第三次世界大戦が起こり、もし核が全部使用される事に成れば、集団自殺をする事に成る。
私が、18年前に見せられた映像は、其の場面だった。「人間が 此のままの状況で進めば その様にさせるしかない」との神の意志だったのである。その事で、人間に核を創らせたのも、神の意志である事が解った。
野鼠の行動の背景にも、神の意志が働いているのである。人間が生き方を変えれば、野鼠の様に種族を残す事が出来るのである。それは、一見薄情な様子に見受けられがちだが、全体的に永いスパンで見れば、理に適っていると言える。野鼠が、皆で話し合って行動に移るのではなく、全体の潜在意識の中に、其のプログラムが内蔵されているのである。其の内蔵されている力こそ、神が介入している世界であろう。
人間の存在は、数が多ければ良いと言う分けでもない。人間は、神の意識たる物を積み上げて行く、仕組みの一部なのだから、其の役目を果たさなくては、存在する意味が無いのだ。その役割を果たすには、数が多くても役に立たないのだ。
エジプトの死者の書には、「此の世には、一人の『霊止・ひと』の為に、何千人もの土を捏ねて作った、泥人形の魂の人間がある」と載っている。其れ等の、泥人形(土霊・どれい・奴隷)の魂の人達は、役目が終われば土に還されてしまうのだ。私の意識が、此処までに育つのに、どれ程の人達が働かされたのであろうか。当の本人達は、自分の意識があると想っているのだろうが、それは、神がその様に想わせて人間を使用しているだけなのである。
いよいよ、泥人形の役割は少なくなり、数を減らされて行くのだろう。
「霊止・ひと」として、此の世に存在する者達は、何千人もの泥人形の人達の苦労を水の泡にしない為にも、精神をしっかりと保って、役目を果たしていかなければならない。
聖書に出て来る「アブラハム(ヘブライ語の『群衆の父』の意味)」や、天皇家だけの血筋ではなく、歴史の表舞台には登場しなくても、神の器として働いて来た血筋は多く存在する筈である。その者達の宗親・もとおやが、いよいよ動き出すとの事だから、何かの動きが現象界にも現れるのではないだろうか。
今迄は、私の意識を使って世の中の段取りをする為に、神は余計な動きは極力抑えて来ていたものと想われる。私の意識が完成すれば、いよいよ本番である。何故なら、私の意識は私個人の意識ではなく、神が地上をコントロールする為の、コンピューターの本回路だからである。
私は惟、人間社会に伝えるべき事柄を、言葉にして知らされているだけでしかない。私の脳が、どれ程の分野に使用されているのか、私自体も分からないのである。
全体の事は、「宗」の働きに委・まかすしかないのである。
残されるべき血筋の人達が、早く此の事に気付いて欲しいと、祈るばかりである。
平成15年9月27日
礒邉自適

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