「ランドスケープ現代史」研究の射程、および高度経済成長期におけるランドスケープ業界の諸相
粟野 隆
1.はじめに─「ランドスケープ現代史」研究の射程
昨年、ランドスケープ業界は大きな節目を迎えた。それは昭和31年(1956)に都市公園法が制定されてからちょうど50周年目にあたる年だったからだ。
この都市公園法を皮切りに、自然公園法(1957)、都市緑地保全法(1973)、緑のマスタープラン(1977)など、ランドスケープにかかわりの深い法制度が整備され、いろいろなタイプの緑地の創出・保全とともに、ランドスケープという職域も「公共」という市場をベースに拡大・展開してきた。また最近では、景観法の制定と都市緑地保全法・都市公園法の改正を受けた「景観緑三法」の成立、改正文化財保護法による「文化的景観」の誕生など、ランドスケープの画期的な法制度が登場し、さらに長年構想されてきた登録ランドスケープ・アーキテクト制度(RLA)も実施に移されている。
このように、公園法制定50周年とともにランドスケープをめぐる法制度、職能の枠組みが大きく変わろうとしている現在とは、“ランドスケープとは何か、ランドスケープ・アーキテクトとは何者か、21世紀のランドスケープは、いかなる方向に展開すべきか”ということを改めて問い直すための一石が投じられた状況とみて間違いない。ただし、21世紀を射程したランドスケープという職域、ランドスケープ・アーキテクトという職能として標榜すべき方向性は、具体的かつ現実的に問い直すことが必要とされる。それは戦後のランドスケープ・アーキテクトが何を考え、何を成果として遺したのかということはもちろん、むしろできなかったことは何なのか、つまり“何が遺された課題であるのか”を鮮明にしたうえでの議論を意味している。
以上の問題意識から、ランドスケープにかかわる若手6人で「ランドスケープ現代史研究会」というグループを結成し、共同研究を始動した。本研究会では、戦後20世紀のランドスケープにかかわる法制度・組織・空間・職能・人物の整理のためにワーキングをおこなっている。この活動の一線上にあらわれる成果は、これからのランドスケープを方向づけるための補助線になるはずだと考えている。
2.対象とする年代の考え方と高度経済成長期の位置づけ
(1)研究対象としての「現代」および「戦後20世紀」
本研究会名でも使用している「現代」ということばは、
日本歴史学の時代区分では、@明治維新以降(1868〜)、A第一次世界大戦(欧州大戦)以降(1918〜)、B第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)以降(1945〜)、のように線引きが定まっていない。ただし研究会では、政治・経済・教育等の仕組みが前時代と大きく改革された「上記B」に則して使用している。したがって、本研究会が対象とする「戦後20世紀」とは、第二次世界大戦以降の20世紀(1945〜2000)を示すものと理解していただきたい。
(2)今回の報告対象としての高度経済成長期の位置づけ
本研究会では、戦災復興事業によって緑地整備がなされた1940年代半ば〜1950年代初頭の戦後復興期よりも先に、神武景気の起点となった昭和30年(1955)から、岩戸景気、オリンピック景気、いざなぎ景気という好景気をくり返し、所得倍増計画(1960)によって産業構造も劇的に変化した高度経済成長期(1950年代〜60年代)を対象に調査研究をおこない、2005・06年度の造園学会関東支部大会でポスターを発表した。最初にこの高度経済成長期に調査を着手したのは、この時代に急ピッチですすめられた鉄道・道路・住宅地などの各種社会資本整備や東京オリンピック開催にともなう首都圏整備によって、行政、設計事務所、施工会社という公共ランドスケープにかかわる各種職能が専門化・分化し、現在わたしたちが身をおいている「業界」の黎明を形成した時代だと位置づけられるからだ。
3.高度経済成長期におけるランドスケープ業界の諸相
(1)都市公園法の制定による公園生産システムの設定
高度経済成長前夜の朝鮮戦争による特需景気のなか、国土開発を推進した建設省は、国土総合開発法、道路法、地方鉄道軌道整備法など、次々と法令を施行した。「都市公園法」も建設省法案ラッシュの渦中で誕生した法令だ。
本法誕生の経緯は、公園用地が開発用地に転用される傾向を懸念した佐藤昌が横山光雄・長松太郎・福富久夫らと「公園施設基準研究会」(1950年設立)を結成したことに遡る。研究会成果の一端は「公園計画基準に関する研究」(都市計画2号、1952年)に結実。この成果をふまえて建設省で法案が作成された。1956年、第24回国会に「都市公園法案」が提出、法律第79号として施行された。
公園法の画期的な点は、空間計画量と構成施設を規定したことだ。つまり1人あたり6uの計画量とし、施設を9種(園路・広場、修景、休養、遊戯、運動、教養、便益、管理、その他)に分類し、これを法で保証したのだ。この枠組は「都市公園等整備五箇年計画」(1972)のさらなる規格化で公園標準化がまねかれたが、本法が職能形成に大きく寄与したことは見逃せない。つまり公園法は定量的な設置基準を明文化して「公園生産システム」をつくり、公園建設事業費増大を促進した。本法で公園の全国生産が促進された結果、官民問わず造園の専門職能が必要となり、本法が業界形成への最初の一石となったからだ。
(2)造園家による各種グループの積極的な活動
高度経済成長期における大きな特徴は、行政、民間設計事務所、大学などの枠を越えて、いろいろな研究グループが結成され、多面的な活動を展開したことがあげられる。
上述の「公園施設基準研究会」はその最初期にあたるものだが、池原謙一郎(建設省)と北村信正(東京都)の肝いりで昭和32年(1957)に発足した「遊び場研究会」は、小川信子(東京大学研究生)、石川岩雄(東京都)、川本昭雄(東京都)、伊藤邦衛(清水建設)、田畑貞寿(日本住宅公団)らを中心に、所属組織を横断して多くの関係者が参加した。本研究会の設計作品として入谷町南公園がある。その後本研究会のメンバーも多数参加した「児童施設研究会」(委員長:佐藤昌、副委員長:内山正雄、主要メンバー:池原謙一郎、上野泰、川本昭雄、倉嶋摂子、田畑貞寿、河原武敏、田邊昇学、川上弘道、元山隆、坂本新太郎ら)は、『こどものあそびば─計画設計のすべて─』(1964)を上梓し、遊び場研究の総決算をなした。
また、1960年代初頭に活躍した「環境計画グループ」は、池原謙一郎(日本技術開発)を中心に、樋渡達也(東京都)、小林治人(東京コンサルタンツ)らの若手造園家のほか、石井尚(建築家)や早川和也(グラフィックデザイナー)も参画して代々木公園設計コンペ二等入賞のほか、日本ランドコンペでは一等を獲得している。
伊藤邦衛(清水建設)ほか造園家数名で結成された「造園家集団」もまた、1960年代に活躍した設計家グループだ。代表作品には武蔵野霊園(1960設計、埼玉)がある。
(3)民間設計事務所の台頭と造園設計事務所連合の誕生
大型好景気の影響を受けて東京、大阪などの大都市圏では、公園緑地や団地造園に代表される公共ランドスケープ関連事業は増加の一途をたどり、インハウス技術者のキャパシティは限界を迎えようとしていた。そんななか、日本住宅公団、東京都、大阪府などの官公庁がランドスケープに導入したシステムが、設計外注だった。設計外注の具体化のためには、「設計事務所」の存在が必要となる。そのような官公庁の命を受けて誕生した戦後初の公共ランドスケープ受注型の民間事務所が、近代造園研究所(1961年設立)だ。本事務所は林茂也が経営責任者をつとめ、上野泰がデザインの手腕をふるって、官公庁から設計業務を受注し作品を残した。作品の評価も高いが、東京、大阪、名古屋、札幌に事務所を置くなど規模も大きく成長した。
また、近代造園研究所設立と同時期には、京央造園設計事務所(1961年設立)、伊藤造園設計事務所(1963年設立)、荒木造園設計事務所(1964年設立)など、多くの造園設計事務所が産声をあげている。
そういった設計事務所設立が相次ぐなかで、「設計業界」誕生の記念碑的出来事と指摘できるのが、昭和39年(1964)に東京・京都で開催されたIFLA日本大会時における造園設計事務所連合(Landscape Architects Office in Japan)の設立だ。これは造園懇話会の設計家有志(荒木芳邦、飯田十基、池原謙一郎、伊藤邦衛、井上卓之、小形研三、小林治人、島田昭治、関田次男、田辺員人、中村善一、西川友孝、林茂也、吉村巌)によって発足したものだが、現在のランドスケープコンサルタンツ協会の前身組織として、その現代史的意義はきわめて大きいといえよう。
(4)東京オリンピックの会場建設事業と造園施工業界の戦後近代化
第18回オリンピック大会の東京招致決定(1959)は、造園施工業界に大きな影響を及ぼした。開催に向けて、明治公園、駒沢公園の施設整備、首都圏主要道路の拡幅・街路整備など、大規模造園事業の発生をみたからだ。急ピッチで工事を遂行するため、手仕事から機械化に工事形態が激変していく。クレーン、ドーザ、バックホーが導入され、“伝統的庭園築造技術”から“合理的造園建設技術”へ方向転換し、これまで不可能だった大木の移植工事を実現した。施工直後即完成形とする「密植」という概念も生んだ。
また、当初公共造園の施設工事は土木業者への発注だったが、オリンピック関連工事の増加によって造園業者への一式発注となり、舗装・遊具・橋などの施設工事も造園業者の範疇となる。オリンピックがなければ“公園の工事はまだまだ土木屋さんの範疇にあって、我々は植木屋でいたかもしれません”という前田宗正の談話がそれを物語る。
オリンピックという国家イベントは、庭師たる職人を急速に施工技術者に仕立てた。現場で指揮を取るのは、もはや親方ではなく監督なのだ。彼らはオリンピック翌年に日本造園緑地組合連合会(現・社団法人日本造園建設業協会)を組織し、「建設業者」という新たな職能を獲得して戦後近代化の渦中に一定の位置を見いだすのだった。
4.まとめと課題
以上みてきたように、1950年代から60年代を中心とする高度経済成長期は、法令の整備、各種グループの活動、設計事務所連合の誕生など、ランドスケープの専門職能・職域形成を考えるうえで重要な時代だと指摘できる。
今回の支部大会発表では、日本住宅公団、子どもの遊び場、日本造園設計事務所連合、池原謙一郎に関して報告するが、詳細は『ランドスケープ現代史 概報Vol1』を参照されたい。研究会では1970年代以降を調査対象とした続報も予定している。なお、今回の調査に関して貴重なご意見・ご助言をいただいた大塚守康氏、小林治人氏、進士五十八氏、田畑貞寿氏、樋渡達也氏に感謝申し上げます。