戦後日本の本格的ランドスケープアーキテクト
池原謙一郎のまなざし
高 島 智 晴
池原謙一郎(1928-2002)は造形美を得意とし、現代人の記憶に残る大公園から小公園までを設計してきた。一方で次世代の造園デザインを考える活動を積極的に行うなど、戦後の造園界の中心的存在であった。そこで、多くの造園家の中でも池原謙一郎の活動に着目して、戦後の造園史を読み解くこととした。
1.東大時代
池原は1948(昭和23)年12月、東京大学農学部に園芸第二教室に入室する。園芸第二教室は、日本の官立(国立)大学に初めて設置された造園学専門講座である。初代教授には、丹羽鼎三が任命され(〜52年)、後任は北村徳太郎(〜55年)であった。池原は1951(昭和26)年に農学部を卒業し、翌年52年に同大学大学院から助手へと転向している。学生時代の同期には、川本昭雄・大山陽生・高橋理喜男・西沢成宣・草部博志がおり、他の助手としては吉川需、三好勝彦、小澤知雄、北村文雄がいた。時代は世界的な造形運動と機能主義の中にあったが、自分からモノづくりに向かっていく池原の姿勢は当時の東大では珍しく、設計やデザインで芸術的センスを発揮していた1)。
この時に知り合った重要な人物に“前野淳一郎”がいる。前野は東大林学部造園学教室の助手で、同時に造園学会の事務局で池原と面識があった。前野と池原、そして三好・小澤らが中心となり、『造園懇話会(1957)』を発足させた。前野とは後にも設計活動を通して付きいが多い人物の一人となると言えるだろう。
2.建設省、日本住宅公団時代
池原は1955(昭和30)年に建設省、1958(昭和33)年に日本住宅公団に籍を置くことになるが、この間の1956年・57年・58年にモダンアート展に作品を出展し1958(昭和33)年には田畑貞寿の呼びかけにより、伊藤邦衛・石川岩雄・清水友雄・中島健と共に銀座で“庭のデザイナー6人展”を開催し、社会に造園作品をアピールしている。
一方、建築家との付き合いが多かった前野淳一郎は、『国際建築』の発行人の田辺員人と知り合いだった。田辺は『国際建築』に造園の記事枠を提供するほど造園のシンパサイザーであり、前野は池原や田畑貞寿とともに執筆を行う(56年・58年)。また、田辺と前野はスペースコンサルタンツを設立し、白雲観光鰍フ造園設計業務や東京都新宿区の落合下水道処理場上部の造園設計、同区の柏木公園設計業務を池原・田畑の他、後の近代造園研究所・上野泰らと行うことで設計センスを磨いていく。
この頃の代表作品に台東区立入谷町南公園(1959年)がある。池原は、子どものコアとして“子供センター”という考え方を確立し、その象徴として“石の山”という造形的な複合遊具の登場にある。この公園の誕生は北村信正発案の「遊び場研究会(1957〜1959)」が深く関係している。池原を中心に石川格・川本昭雄・伊藤邦衛・田畑貞寿らの造園家に加え、小川信子(日本女子大学建築学科)が先頭に立ち論陣を張った。ここでの討論や研究結果をもとにできたのが入谷町南公園であって、研究会自体も公園の完成と共に閉幕する。その後、池原は“児童施設研究会”に活動の場を移す2)。
また、池原は1960(昭和35)年の“世界デザイン会議・環境部会”に建築界に明るいため、パネリストとして出席している。建築から槇文彦・丹下健三・前川國男らが出席していたが、その前で池原は造園家代表として「造園の未来像」で論陣を張った。
3.鞄本技術開発総合計画部時代
池原は1963(昭和38)年に鞄本技術開発総合計画部緑地課長として籍を置く。池原は「公園は都市という生命体の中の細胞体」であり、「公園は公園というワクから抜け出して、全体的な都市機構の中でもう一度練り合わされコネ合わされる必要がある」と述べている3)。この1年後、樋渡達也・小林治人・早川和也(グラフィックデザイナー)・石井尚(建築家)らとチームを組んで、“東京都代々木公園設計コンペ”に応募をする。生命線とも言える壮大なペデストリアンデッキという空中回廊によって、都市性と自然性の融合、すなわち都市側から広大な樹林空間へと都市民を誘うことを主張した作品は、まさに前述した考えの実践であるとみてとれる4)。
しかし一等無しの二等作品として評価され、「“(審査委員の)中途半端な評価と都合の良い基本構想原案”として後のコンペ論の火種」となり、公園のあり方について池原はますます疑問が沸いたのではないだろうか5)。
同年、東京オリンピックを控えていた5月、日本造園史上に多大な影響を及ぼした“IFLA日本大会”が開かれる。日本造園界は総力を上げて準備に取りかかる。このとき出版された『日本の造園』にて、池原は「公園論」を“オニマス(Onymous=作品化された空間)”“アノニマス(Anonymous=作品化されない空間)”という言葉を用いて解いた。「緑」の意義を考え、公園のあるべき姿を追求したとき、「オニマスの<作品>がアノニマスの<存在>に移行していくのが自然であり、この世の必然というものかもしれない」と考察している6)。
池原は共にIFLAの準備にあたっていた伊藤邦衛・林茂也と幹事役となって、1964(昭和39)年、“造園設計事務所連合”を発足させた。メンバーには、荒木芳邦・飯田十基・井上卓之・小形研三・小林治人・島田昭治・関田次男・田辺員人・中島健・中村善一・西川友孝・吉村巌がいた。この背景には、建設省の公園緑地予算の増加に伴い自治体の公園事業の拡大による仕事量が増加し、次第に民間の設計事務所へ設計を外注するようになった。そこで池原は仕事の信用を得るため、また設計事務所相互の利益のために協力する組織を創ろうと考えたのであろう。
池原は役所が公園事業を外注し始めたこの時期を狙って、ホンモノの造園家による公園の品質管理を行うことで、“より高度の質の高いレクリエーション造型を生み出していく”ための造園設計家集団を創ることが狙いだったのではないだろうか。
4.環境計画研究室の設立へ
池原はやがて自身の事務所、環境計画研究室を1966(昭和41)年に設立し、独自の設計を行っていく。「環境計画研究室」という看板を掲げたところで、消毒薬品会社が売り込みに来るような「環境=衛生」の時代であった。池原は独立という形でそれまでに溜め込めていた想いを爆発させたのだろう。羽衣公園(1966)や長岡市幸町公園(1972)があり、池原の作風が確立した作品であった7)。
また、特筆する点として、自身が設計した公園の改修設計をできたことにある。果たして、一度設計した公園をもう一度設計することができた造園家はどれだけいるだろうか―。事務所設立後の設計1号・羽衣公園の改修設計(1985)、公園遊具“石の山”で有名となった入谷町南公園の改修設計(1981)、池原の代表作・代々木公園の水景の基本構想(1988)がある。
5.16日会と「ランドスケープ」
ランドスケープ職能の発展のために職能を周知させ、内部的には評論誌となる雑誌をつくろうとの想いが池原謙一郎・佐藤昌・前島康彦をはじめとして、当時満ちていた。これらの想いを持った者は、毎月16日に集まって非常に熱心に討論を続けた。メンバーには三好・川本昭雄・前野淳一郎・小林治人・坂田道男・樋渡達也・坂本新太郎らがいた。中でも池原がキーマンとなっていた。この活動を佐藤昌の出資によって形にしたものが雑誌「ランドスケープ」となったのだった。メンバーは仕事後に深夜まで創刊に向けた討議や準備を行っていたという8)。
6.まとめ
池原の思想は作品を通してみることができる。そしてそれは、“造ればいい式のノルマ義務的な公園増産運動”が生み出した“平面的な限定空間として処理する惰性的習慣”による“公園の性能低下”であり、“今まで公園の造成と運営面で第一に感じてきた抵抗感は、このお役所的な雰囲気3)”の払拭であったのかもしれない。
補注・文献
1) 清水正之(2004):上原賞受賞者に聞く,ランドスケープ研究67巻4号
2) 北村信正(1985):上原賞受賞者に聞く,造園雑誌48巻3号
3) 公園緑地(1963):都市公園制定90周年記念号・都市公園はどうあるべきか,vol.24 No.2
4) 蓑茂寿太郎(1988):「造園デザイン・コンペ論」特集にあたって、造園雑誌52巻2号
5) 池原謙一郎(1992):園をつくる,マルモプランニング
6) 「計画者の立場から−コンペ案と実施案の間(1972年);都市公園51号
7) 蓑茂寿太郎(2002):上原賞受賞者に聞く、ランドスケープ研究66巻4号
8) 樋渡達也氏インタビュー(2006.07.09)
3) 公園緑地(1963):都市公園制定90周年記念号・都市公園はどうあるべきか,vol.24 No.2

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