1950〜60年代における子どもの遊び場に関する造園家の活動
小 林 邦 隆
高 島 智 晴
1.子どもの遊び場の社会的要求
戦後の日本人口は、昭和21年(1946)の約7,575万人から、オリンピック開催年の昭和39年(1964)には9,718万人(128%増)に急増した時代であり1)、特に都市部では人口が増加が著しく様々な都市問題が生じた。子どもの遊び場に関して述べれば、子どもの活動空間であった広場や緑などの都市のオープンスペースが急激に消失し、そこへ充分な交通基盤が整備されないまま車社会が到来したこと等により、子どもの交通事故が急増した。昭和36年における0〜14才の総死亡数に対する事故死の割合は13.5%で1)、そのうち28%が交通事故であり、児童の交通事故は社会問題視されるようになった。2)
子どもの遊び場に関する行政の対応は、昭和22年(1947)に厚生省(現厚生労働省)が児童福祉法を制定し、昭和24年(1949)に東京都が児童公園建設に補助金制度を設置、そして昭和26年(1951)に、建設省(現国土交通省)で全国の児童公園建設に国庫補助制度を整えている3)。
この国庫補助制度設立の立役者は、佐藤昌と内山正雄であった。佐藤が予算化をはかり、公園の形態や施設配置のモデルを内山正雄が描いている。このモデルは、震災復興公園をもとにつくられたものであり、その形態は公園の外周を樹木で多い、ブランコ、滑り台、砂場、噴水、鉄棒、パーゴラ、うんてい、シーソー等がみられる4)。この時点では、施設や樹木の配置は整形式風な配置であった。
このような子どもの遊び場に関する社会背景に対し、新しい児童公園の創造に向けて若手ランドスケープ技術者も動き出していくことになる。そしてこの活動は、その後のランドスケープに影響を与えることとなるものであった。本研究では、多くの造園関係者が関わった活動体として「遊び場研究会」および「児童施設研究会」を取り上げる。
2.遊び場研究会
昭和32年(1957)5月28日に発足した「遊び場研究会」は、池原謙一郎(建設省)と北村信正(東京都緑地部)の肝いりで発足し、小川信子(当時東京大学研究生、のちの日本女子大学)を先頭に、石川岩雄(東京都公園緑地部)、川本昭雄(東京都公園緑地部)、伊藤邦衛(清水建設設計部)、田畑貞寿(日本住宅公団)らの若手造園家、さらには造園関連の官公庁、大学、企業など多くの関係者参加したものであった6)。
参加者は、実務に携わる技術者が多く集まっており、理論だけではなく実際に遊び場をつくりあげていった。
発足から2年後、この活動の集大成として入谷町南公園昭和34年(1959)の完成をもって会の活動を完結している7)。入谷町南公園の形態は、4,100uほどの敷地に、通常より2.5倍の長さがあるすべり台や、トンネルが整備されている高さ4メートルの“緑の山”、お椀を伏せた形の“石の山”、子どもが集まるすり鉢状の“子供センター”、コンクリートの壁にところどころマルや四角の穴をあけた“プレイウォール”、さらに、ヒューム管トンネル、鉄製くぐり柵、平均台、コンビネーション遊具、変形ジャングルジム、砂場、平均台、ステージなど、新趣向を凝らしたものであり、昭和26年(1951)の児童公園標準計画案と比較すると、遊具の種類や配置の違いがはっきり異なっていることがわかる。
入谷町南公園は、“石の山”と遊び場のコア施設の“子供センター”を配置し、設計者の池原は「遊びの分化と密度の高さを狙い、そして更にこの公園が一つの『地域社会センター』としての性格をも兼備することを設計の目標としてみた」と語られている通り、“子ども群集の祭り舞台の仕立て”と評された8)。また本公園が雑誌『都市公園』(1960年、No.25)に取り上げられるなど、“石の山”を中心とした“入谷町南スタイル”が、全国の児童公園に模倣されるようになった3)。
また、入谷町南公園がこのような設計ができたのは、当時の三木台東区長が児童公園の建設に積極的であり、国庫補助を受けずに、入谷町南公園の建設を行ったことも要因の一つであると思われる。三木区長は、本公園建設にあたり「児童遊園研究会」を立ち上げ、専門家に十数種の案をつくらせて公園を設計することにより、児童公園標準設計案に縛られることなく、設計できたのかもしれない。
3.『こどものあそびば −計画・設計のすべて−』
全国にて子どもの遊び場に関する研究会が活動する中、昭和39年(1964)に児童施設研究会によって『こどものあそびば』が発刊される。児童施設研究会は、「遊び場研究会」のメンバーも数多く参加している。児童施設研究会の構成は、佐藤昌を委員長とし、内山正雄副委員長,加藤一男,川本昭雄,倉島摂子,田畑貞寿,河原武敏,池原謙一郎,田邊昇学,川上弘道,元山隆,坂本(高橋)新太郎,上野泰等である9)。
『こどものあそびば』は、児童を取り巻く社会背景、都市インフラ、児童の発育過程と“遊び”についての基礎的な研究や国内外における児童公園の事例を収集・整理し、それらをもとに多くのアイディアあふれる児童公園の計画設計の提案を行うなど、研究されてきた内容を総論的に取りまとめたものであり、当時の子どもの遊び場に関する集大成のひとつであると言えよう。
また、海外の事例紹介として、当時北欧で流行したプレイスカルプチュア(個人の子どもを中心にした知的な独立彫刻的遊具)の事例写真を数ページに渡り紹介している。プレイスカルプチュアは、本書に数ページに渡って紹介されているため、児童施設研究会のデザイナーがプレイスカルプチュアの思想に大きく影響されていたことが窺えると思われるが、樋渡氏によれば、「同時代に北欧で流行り、同時期に流行った遊具でありながら、その遊具の持つ性格は異なるもの」5)であって、遊具の形態などに影響はなかったという。
さらに本書では、一つ一つの遊具の提案だけではなく、児童公園の配置論にも言及している。例えば、当時の集合住宅地における児童公園の配置論は、近隣住区論を基礎に考えられていたが、“距離”が配置の主な検討ファクターであった近隣住区論では、人口が高密度な都市においては適さないため、人口密度による配置論が紹介されている。
本書の発行は、内山の児童公園標準設計案から13年後のことである。設計案では、既存の遊具を公園に配置しただけのデザインであったが、入谷町南公園や「こどものあそびば」で紹介された遊具や公園の形態は、それまでの児童公園の枠を越えた斬新なものであり、その功績は大きい。
4.『こどものあそびば』以降
『こどものあそびば』が発行されてからは、本書が基礎的なテキストとなって計画設計がされていくことになる。
また編集委員が児童施設研究会のメンバーと重複している日本造園学会編『造園ハンドブック(1978)』の遊具の項については、『こどものあそびば』の内容がほぼそのまま掲載され、それが現在に至っており、広く日本の造園業界に大きな影響を与えたと言える。
また、昭和40年(1965)以降、これらの行政施策をさらに推し進めたのは、子どもを持つ母親たちの集まりである“主婦連合会”の活動が大きく、“主婦連合会”の強い声は国会議員を動かし、児童公園の量・質ともに一気に躍動することになる10)。
このように子どもの遊び場について、全国的な活動がなされたが、その多くの遊具や公園が今となってはほとんど残っておらず、レプリカ(緑町団地内等)や写真でしかみることができないことが残念である。
補註・文献
1)人口に関するデータ(総務省統計局ホームページ2007.01.01現在
http://www.stat.go.jp/data/chouki/
02.htm)
2)仙田満(1992):子どもの遊びと児童公園の時代的変化,公園緑地(53)1,P12-P18
3)佐藤昌(1977):日本公園緑地発達史・下巻,日本公園緑地協会編
4)佐藤昌(1991):佐藤昌と近代公園緑地の歩み,日本公園緑地協会編
5)樋渡達也氏インタビュー(2006.07.09)
6)『都市公園』25号,P20
7)『北村信正(1985):上原賞受賞者に聞く,造園雑誌48号(3),P197』
8)池原謙一郎(1959):子供のコアへの提案,都市公園(18),P18-P19
9)児童施設研究会(1964):こどものあそびば−計画・設計のすベて−,児童施設研究会編
10)坂本新太郎(2005):日本の都市公園−その整備と歴史−,潟Cンタラクション